2005年09月10日

ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編 (その2)

 坂口安吾に引き続いて都築道夫である。(つづいてつづき?別に洒落てるつもりじゃないけど。)

 その1で「突っ込み甲斐がある論集」だと言ったが、その理由の最たるものは18の小論の品揃えにある。一口でミステリーと言ってもいろいろとジャンルがあるが、編者のねらいはパズルからスパイ・冒険小説、さらにハードボイルドまで幅広く取りそろえる事にあるようだ。そのねらいは間違いではないのだが、新書で頁数が限られているというのに何故か論旨が似通っている小文を取り上げている。

 その一組が安吾と都築の文である。これは似通っているというより、もう都築が安吾の主張をそのまま鵜呑みにして書いていると言ってもいい。

 都築の小文は2つあって「トリック無用論は暴論か?」「必然性と可能性」だが、どちらもミステリーマガジンに連載されたミステリー評論の一部であり、後に『黄色い部屋はいかに改装されたか?』という本格ミステリーファンなら必ず聞いたことのあるタイトルの評論となった。ちなみに僕もタイトルは知っているが未読である。この2つの文章は、一つ前の文章で推理小説の元祖「モルグ街の殺人」でも犯人によるトリックはない事をあげて、トリックに血道をあげることの無益を語った続きという事になる。

 したがって、謎とき推理小説の中心は、事件解決への論理であって、作中人物である犯人のかまえるトリックなぞ、不要ともいえるのです。


 どこかで聞いたことのある主張ではないか。そう、安吾の「人間性を不当にゆがめる謎(トリック)」というのと2重写しになる言葉だ。ただし都築の方が慎重で「謎とき推理小説」ではそうだと断っている。つまりパズル小説の場合はトリック無用といいたいらしい。

 その例としてフィリップ・マクドナルドの一連の作品をあげて犯人側に大トリックなどないのに、論理の展開だけで見事なミステリーとなっていると言う。さらにクイーンの「オランダ靴の秘密」「中途の家」なども犯人のトリックは凡庸だったと補足する。こう論旨を展開した上で、トリックの研究など無意味だ、トリック無用だとぶちあげる。

 安吾の時と同様、やはり奇妙な話である。ここではせいぜい大げさなトリックがなくても立派に本格推理小説は成立すると言っているにすぎない。ましてやクイーンの2作にトリックがないかのような印象を与えたいようだが、凡庸(果たしてそうか?)だろうがなんだろうがトリックには違いないだろう。要は「人間消失」や「人体切断」ばかりがマジックではない、客の選んだカードを探して見せるのもマジックだと言っているだけだ。

 昨今の見事なクローズアップマジック(トランプを使って手元を見せながら行うマジック)の流行を見ると至極当たり前の事を都築は言っている。つまりトリックの大きさではなく、見せ方の創造こそが大切だと言う事だ。そこまではうなづけるとして、では改めて「トリック無用は暴論か?」という都築の問いには何と答えるべきだろう。もちろん「暴論だ」と言うしかない

 都築は自分のミステリーの趣味を押しつけたいがために「トリック無用」の極論を持ち出している。もし「人間消失」のようなイリュージョンはマジックに必要ないと言われたら、マジック好きの人口は大いに減ってしまうだろう。

 そもそも都築の主張は、実作者としてそういうふうには書くべきではないというミステリー作家の戒めなのか、トリック分類のような研究は役立たずだと言う評論家の意見なのか、トリックのないミステリが好みだという一読者の意見なのかを混同したまま曖昧に論を進めている。だから、趣味の問題があたかもミステリーの本質にかかわるかのような錯覚を読者に強いる結果となっている。

 いったん極論を持ち出すと止まらなくなるのがこの評論家の特徴のようで、どんなトリックも犯人の考え方に不自然があってはいけないという主張はまあいいとして、モダーン・ディティクティブ・ストーリーとして落第だと言う。ここらへんの論旨も安吾とうり二つだが、要は現代を描く推理小説ならばトリックをもてあそぶだけではダメで、論理の必然性が問われなければならないと言う。ここで引き合いに出されるのが松本清張であり、都築の場合は安吾と違って落第でないミステリーがすでに出現していた。

 ここで松本清張ミステリーの功罪を述べるのは本論からはずれるから詳しくは言わないが、都築の言う「プロット主体」のミステリーがあっという間にミステリーを硬直させてしまったのは、まさしく安吾や都築の言う「人間性の歪み」や「論理の必然性」にこだわる一連の社会派ミステリーが窮屈なジャンルである事、時代が要請した一つのイデオロギーであった事を物語っている。

 さらに言えば科学捜査を至上とする社会派ミステリーは、天才犯罪者・名探偵を追い出しただけでなく、科学では説明のつかない人間の情念や怨念、果ては土俗的な因習といったものまで語る言葉を持たなくなった。『別役実の犯罪症候群』の中で別役は、横溝正史の『八つ墓村』と、その元となった現実の事件「津山三十人殺し」を取材した松本清張の『闇に駆ける猟銃』とを比較している。そこには丑の刻参りに見立てて「ナショナル懐中電灯」を2本、角のように鉢巻きにさす姿を描いた横溝に対して、鉢巻きにさした理由を論理的には見いだせなかった清張のとまどいを見事に対比させている。

 別役が言いたかったのは横溝が古く清張が新しいという単純な対照の嘘であり、科学や論理では届かない人間の心の闇や、失われつつある村の土俗性が今も与えている犯罪への影響である。その点、都築の横溝作品の取り上げ方は、まさに単純な近代と現代の2項対立と言ってよい。

 『本陣殺人事件』に出てくる三本指の男の意義を見損なっていると別の批評家の資質を疑う都築だが、『本陣』の良さがあの機械的なトリックよりも動機である点、密室が犯人の想定外だった事などの工夫にあるとしか言わない彼の方こそ、批評家としての資質が問われてしかるべきだろう。なぜならあのトリックも含めてすべての小道具が、別役が「ナショナル懐中電灯という言葉のなんとまがまがしいことだろう」と書いたように、本陣を持つ村の「まがまがしい」因習を象徴する意匠に他ならないからだ。

 その点を見ないで、都築は脳天気にも『獄門島』は今日の本格推理小説であった、『悪魔の手毬唄』は昨日の本格だとつまらない分類をしている。なぜつまらないか。

 この二つはいわゆる見立て殺人をテーマとしていて、片や俳句に見立てた殺人が起こり、片や手毬唄に見立てた殺人が起こる。しかし都築の評価を分けているものは、『獄門島』に俳句に見立てて殺人を犯す必然性があったからであり、『悪魔の手毬唄』の方にはないという点だけである。しかし僕の考えでは『獄門島』では間接的に見立ての必然性が発生する仕組みがあるだけで、本当に見立てが必要だったかと言えばNOである

 つまり安吾や都築の言葉で言う「人間性」や「必然性」を言えば失格であり落第のはずだ。そういう見方をするなら『獄門島』も『悪魔の手毬唄』も五十歩百歩。決して都築が言うような『獄門島』は最高傑作だなどという一方的な評価にはならないはずだ。

 そしてまたしても『悪魔の手毬唄』の方をあえて僕は評価したい。それはトリックの必然性うんぬんよりも、トリックがもつ意匠の見事さからである。昭和になって日本が大きく成長を遂げていく中で都市化がすすみ、一方で日本特有の土着の文化をかつては抱えていたはずの村が衰退していく。そんな時代状況や人間の奥底に押し込まれていく因習のあえぎのようなものを、まさに見立てたのが『悪魔の手毬唄』だからだ。

 作品もロマンティックで、金田一さえも警部と別れ際に「あなたは(犯人を)愛していたんですね」とロマンティックな言葉をめずらしく漏らすのには訳があるのだ。それだけ失われゆく村や人への郷愁に満ちたまなざしをつらぬいた作品であるがゆえだ。その意味では『獄門島』にはパズル好きを満たすケレンはあるが、情感はない

 さてもういいだろう。都築も安吾も本格推理小説の好みが窮屈であるだけだ。その論旨も実はよく似ている。なのにどちらもあえて本書に含めた編者も同様の思考回路の持ち主なのかもしれない。それは、もう一組の双生児(論旨のうり二つ)を本書がもつ事から推察できる。
(続く)

参考
 ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編(その1)

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posted by アスラン at 06:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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