2005年09月08日

ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編 (その1)

 「ミステリよりおもしろい」というタイトルの冠や、はしがきで「三十年くらいあいだに読んだものの中から」選んだという自信ありげな言葉とはうらはらに、かなり突っ込み甲斐がある論集である。

 まず「ミステリよりおもしろい」とあるからにはミステリはこうあるべしといった一部の批評家などの好みは押し退けてでも、大勢のミステリファンがうなづける論文が並んでいてほしい。

 ところが一部はうなづけるものの、多くがミステリマニアあるいは批評家のミステリ文壇的な内輪話だったり、さも前提であるかのように乱歩の時代からの手垢のついた議論を持ち出す。いまさら形式と内容を分けて議論してなんになるのだろう。

 さて、手垢だらけの文章といえば坂口安吾の小文「推理小説について」だ。本格推理小説作家としての横溝正史の力量を認めておいて、返す刀で「人間性を歪めている」とバッサリ切り捨てる。ここで言う人間性とは、謎を成立させるためにあえて常識的な人間らしからぬ行動をとる登場人物の描き方をさす。

 具体例として横溝の「蝶々殺人事件」をとりあげている。これは横溝が戦後に本格推理小説作家として第一歩を踏み出した記念すべき作品だ。コントラバスのケースが死体の運搬に使われたり、ビルの五階から落ちた殺人に使われたトリックに工夫がある。

 その部分がいちいち現実の人間ならやらないようなトリックであり、だから「謎ときゲーム」としては失敗だと安吾は断じる。こういう時の著者の念頭に松本清張の「砂の器」や「点と線」があったわけでは時代的にもちろんないだろうが、社会派と言われるミステリーの一ジャンルを待望した先駆けと言えない事もない。

 著者は「探偵小説を謎ときゲームとして愛する」と言っている。謎ときゲームでなければならないと主張してるわけではないと断っていながら、「蝶々…」の欠点として以下の3つをあげる。

1.なぞのために人間性をゆがめている。
2.超人的推理にかたよりすぎて、平凡なところから推定可能な手掛かりを黙殺している
3.解決に至る以前に、読者に手掛かりが知らされていない。

そして世界的名作でも3つの欠点をすべてクリアしているものはメッタにないと憤慨している。

 これは奇妙な話ではないだろうか。ミステリーの名作に安吾の言う欠点が必ず含まれている。それこそが先の欠点の克服がミステリーとしての必要十分条件でない事の証左ではないだろうか。

 要は名作のほとんどに安吾の好みを満たすものが少ないと言うだけである。欠点というほどの事ではない。そもそも安吾が詰将棋のように「謎ときゲーム」としてミステリーを読むという態度こそ一部のマニアの姿勢である事に著者は気付かない。

 安吾の小文の直前に置かれた北村薫の「解釈について」はまさに安吾批判となっているが、編者は果たして気付いているだろうか?(批判の構図に気付いているなら安吾の小文の後ろに配置するはず。少なくとも僕が編者だったらそうするだろう。)

 北村は小学生の娘の学級通信に載ったたわいもない子供のやりとりをとりあげる。担任の「瞳をこらすとはどういう意味か?」に答えて、

Bくん「口のまわりにタオルとかを当てて息ができないようにすることです!」
Cくん「そりゃ、ヒトをコロスだろ…」

という絶妙なかけあいに、北村は本格推理の核心をみる。つまり「不思議な謎を作る者」と「解く者」の絶妙な連繋プレーである。

 安吾は天才的な犯人と名探偵のやりとりを犯人当てができないゆえに「謎解きゲーム」としては失格だとするが、北村は驚きに満ちた「連繋プレー」だとしてこれを肯定する。つまりは解釈を楽しむという点にこそ読者の喜びがあるというのだ。

 どちらもミステリーを読む姿勢の違い、好みの違いと言ってしまえばそれまでだ。だが、欠点をあげつらうよりも、長所を挙げて愉しさを分かち合う方がどんなに有意義な事であることか。

 「謎ときゲーム」という偏屈な読み方をする安吾は、一方でドストエフスキーの「罪と罰」は探偵小説ではないと言い切る。犯罪は探偵小説の専売特許ではないと言い添えて。ここで安吾が言うのは文学とミステリーの区別である。そして探偵小説は、犯罪が人々の「俗な好奇心」を刺激するところから自然発生したジャンルだから本来好奇心に訴えるたのしいものであるべきだから芸術は二の次だと言う。

 これもまた奇妙な話ではないか。犯罪が「俗な好奇心」を満たすものであるならば、何故「謎ときゲーム」である必要があるのか、何故安吾の好む「謎ときゲーム」の要件を満たすものであるべきと考えるのか。人間性うんぬんをゆがめていると言うならば、ミステリーというジャンル自体が安吾の言う「人間性」をゆがめているジャンルという事になりはしないか?

 僕から言わせると安吾のミステリの定義は窮屈すぎる。しかも徹底的に古い。犯人の人間性やトリックの実現性をあげつらうあまりに、エンターテイメントとしてのミステリーの可能性や、様々な想像力を駆使した読み物としてのミステリーの可能性をも否定している。何より横溝の「蝶々…」で重要な意味を持つ「コントラバス」という言葉の怪しい魅力を見落としている。これは、小林秀雄の言うところの「様々なる意匠」なのだ。

 それを見落として安吾論をそのまま鵜呑みにしてしまった作家兼評論家の文章が、安吾の次に続く。都築道夫「トリック無用は暴論か」である。
(続く)

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posted by アスラン at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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