2005年05月30日

1999年7月4日(日) 「カラオケ」「八月のクリスマス」「鉄道員(ぽっぽや)」

 テアトル新宿で「カラオケ」(no.72)を観る。

 役者の佐野史郎の第一回監督作品である。

 30年ぶりの同窓会。湖のある地方の町で久し振りに中学の同窓会を開く事になる。ある者は都会に出て名を成し、ある者は出戻り、ある者は町を一歩も出ないで残っている。30年の月日の流れは単純な学生時代と違い、いろいろなしがらみを一人一人に抱えさせている。

 それでもひとたび集まれば懐かしさと恥ずかしさと青臭さがよみがえってくる。そしてそれはかつての流行歌の中にそのまま封じ込められている


 二次会のカラオケで歌い合うかつての流行歌は、単なる青春以上の何物かを閉じ込めていて、それは彼らの中学の時期にすでに終わってしまった学生運動へのあこがれであったり、時代に遅れてきた者にとっての脱力感であったりする。

 卒業式で歌おうと思って歌えなかったカルメン・マキの「戦争は知らない」をラストでみんなで合唱するシーンがそれを象徴している。

 シネマスクエアとうきゅうで「八月のクリスマス」(no.71)を観る。

 日本では珍しい韓国映画だ。韓国映画というと「風の丘を越えて」という伝統歌謡を歌う大道芸人一家の映画が思い浮かぶ。その時も日本ではこんな映画はもうとれないだろうなと思ったが、今回の映画も純愛をテーマにしていて、日本ではすでに撮る人も撮られる役者も存在しなくなってしまったような気がする。

 例えばこの映画のラストではドラマチックな事はなにも起こらない。テレビのラブストーリーを見慣れてしまった目には物足りないように映るかもしれない。しかしこの映画の作り方のうまい点はなんといっても恋愛にもいたらなかった二人の心のせつなさを見事に映像で描ききってしまったところだ。

 10才も年の離れた二人だが、ただ黙々と仕事を誠実にこなす写真屋の青年に、女の子はおじさん、おじさんと言って無理な注文をしに訪れる。やがて何気ない会話をしにやってくる事が女の子のかけがえのない時間になってしまう。

 しかし写真屋の青年は不治の病に冒されていることが、ごくごく控え目に描かれてゆく。青年のつらさはオーバーな嘆きではなく、体のだるさと薬をそっけなく飲むシーンでひたひたと伝わってくる。

 ある日自宅で倒れた青年はそのまま入院するが、女の子には知らせない。なにも知らない女の子は閉じられた写真屋の前で何度も何度もたたずむが、ある日思い余ってその場の石をショーウインドウに投げつけてしまう。

 実に切なくまた美しい。演じている役者もいい。描かれるエピソードのひとつひとつが美しい。

 新宿トーアで「鉄道員(ぽっぽや)」(no.70)を観る。

 さてなんでこんな映画を観にくる人がいっぱいいるのだろう。浅田次郎原作ならば「ラブレター」の方が何倍か感動したが、本作は明らかに短編だからこそいきるファンタジーという気がする。

 だから広末演じる亡くなった高倉健の娘が、退職の最後の日に三回順々に成長して会いにくるという逸話だけが泣けるところで、それ以外は娘の死も妻の死にも立ち会えなかったというエピソードは本来なら一言で済ませられるし済ませるべきだろう。

 克明に描けば白々しくなるし中途半端に描けば絵空事に思えてくる
posted by アスラン at 02:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画評(1999年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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