2007年09月20日

アサッテの人 諏訪哲史

 たまたまだが「鉄塔武蔵野線」を読んだ後でこういう小説を読むと、〈文学〉とか〈芸術〉とか〈前衛〉といった言葉にこだわらずにはいられない。

 印象以上の根拠はあまりないのだが、この作品の著者と「鉄塔武蔵野線」の著者とは同じものを同じ手触りで見る〈感性〉が備わっているように思える。それを果たして感性と言っていいのか性癖と言えばいいのか、よくわからない。しかし二人のモノの見方が独特であることは確かだろう。それは作家と読者の違いというよりも、一作家としても独特だというべきだ。

 それは例えていうなら、あまりにジッと見つめていると地と図の反転・浸食・溶解などが起る〈ゲジュタルト崩壊〉を起こし得る感性とでも言えばいいか。すでに疑問の余地のない配置に収まった〈この世界〉が、彼らの前でもろくも崩れて大きな亀裂が走ってしまう。

 漱石の「門」(あるいは「道草」だったか)の冒頭で、主人公が妻にひらがなの文字の羅列をジッと見つめているとどうしてもそれが正しい文字の連なりに見えなくなると語る。漱石はもちろん、主人公が抱える生活上の不安と同時に、これから始まる〈何一つ片づかない物語〉の予兆といったものを暗示するためにこのように書いているのだ。

 しかし僕は、本書で描かれる〈アサッテの人〉になりうる資質が誰にでもあると言いたいわけではない。むしろ誰にしても病的に異常な心象を抱えこめば、〈この世界の亀裂〉を目の当たりにしておののくかもしれない。が、本書ではいたって正常な人物であるにも関わらず、ジッと見つめているとそこに今までそうとは思えなかったモノやコトを現出させてしまう。そういう特異な人物について語っている。これは能力、いや超能力と言うのがふさわしいかもしれない。

 銀林みのるが単なる日常の風景から〈鉄塔〉を現出せしめたように、諏訪哲史は単なる日常会話から「ポンパ」や「チリパッハ」「タポンテュー」といった一見するとなんの意味もない〈言葉〉を現出させる。ただし本当にこれらの言葉が無根拠で、僕らが今まさにしゃべっている日本語や日本という環境に無関係であるかと言えばそうではない。「タポンテュー」から僕らは滑稽なイメージを喚起されるし、「ホエミュウ」からは〈アサッテの人〉の妻が夫と交感できる唯一の言葉と感じたように、のほほんとした安らぎを感じさせる。つまり意味はないが言葉の色合いを感じる事はできるのだ。

 いみじくもギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」の歌詞を〈アサッテの人〉が無意味な言葉へと翻訳したのとは逆の過程を経るように、本書の語り手・私(アサッテの人の甥)はなんとかしてアサッテの人の現出する無意味に見える言葉の意味を捕まえようとして格闘する。そして繰り返し繰り返し、叔父の言葉や人となりや内面を捕まえるための準備をし、文章におこす事で〈アサッテ〉というモチーフに接近しようと試みてついに挫折する。そういう物語だ。

 さきほど同じ感性をもつと書いた二人を隔てるのは〈小説〉という形式に対する信頼の度合いである。「鉄塔武蔵野線」の著者は鉄塔を語るために一編の物語に置き換えることになんら疑念を抱いていない。それは小説という形式を一般的な意味で信頼しているからだ。一方、本書の著者は小説という形式の持つ力や有効範囲に徹底的に自覚的だ。それは〈物語る〉という行為の限界をおのずと意識せざるを得ない。著者が群像文学賞受賞者の言葉として「前衛であろうとするには、読者を圧倒するような作品を送り続けなければならない」と野心をあからさまに語るのは、形式の限界を超えようとする著者の文学にたいする姿勢を端的に表している。

 プロの作家としてのキャリアを積むことを最初から封じ込むように「読者を圧倒する作品を書く事なく文学的営為を続ける作家たち」を、修練を成した読者の目線で批判する著者ではあるが、新人ゆえの暴言あるいは無分別とは取らないでおこう。10年後の貴方の姿を半分楽しみに、半分は冷ややかに見守る事にしたい。年月とはそういう意味では著者を含めた誰にとっても残酷なものなのだ。

 本書では失踪した叔父の行方を詮索する文章も、叔父の所在をあかす文章も、そしてなにより〈アサッテの人〉の謎を解き明かす文章も、ついに書かれる事はない。語り手で作家である〈私〉は、そういうありきたりの結末一切を書くことを放棄する。それは、その事が著者の言うところの〈読者を圧倒するような小説〉の結末としてふさわしくないと判断したからだ。

 そして実に意外性に富む「追記」あるいは付録が附される事になる。それは叔父の日記にはさまれた一枚の紙に書かれた図と走り書きについての追記だ。図は叔父が失踪直前まで暮らしていたアパートの居間の見取り図であり、そこに書き込まれたステップの位置と向きを示す星印と矢印をもった図。そして走り書きは、そのステップのリズムと位置とを正確にたどるための言わばマニュアルだった。その小説らしからぬ追記と、物語の結末らしからぬ〈見取り図と走り書き〉とに、確かに僕ら読者は圧倒されるだろう。

 ただし、一言蛇足ながら言っておこう。この「追記」を書いてしまった事によって、著者は小説という形式に対する信頼を奪還してしまったのだと。つまりは結末をもたない小説など書けない事を自ら証明してしまったのだ。この〈見取り図と走り書き〉こそが、小説という形式が未来に向けて用意しておいた〈物語の結末〉に他ならないのだと。

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posted by アスラン at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 鉄塔武蔵野線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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