ブライアン・デ・パルマの独特な演出で冒頭から目が離せない。
目まぐるしく動き回るニコラス・ケイジを狂言回しに仕立てて、ショーと化したタイトルマッチの舞台裏を覗き込むようにカメラが入り込んでいく。評判のステディ・カムによる13分間ノーカット撮影は、アッと言う間に終ってしまうから、逆に専門家に解説されなければ見過ごしてしまうほどだ。
つまりそんな能書きは観客にとってはどうでもいいことだろう。要はノーカットによる効果が、もっぱら緊張感の持続にあって、13分の直後に起る殺人というクライマックスに観客を誘う一手法に過ぎない。
会場に配置されたカメラが次第に関係者の証言の嘘を暴き立てていく演出の手際もさすがだ。ニコラス・ケイジの鼻につく演技も今回に限っては役にはまっている。
ただ犯人あてと思われていた筋立てが、実はすぐにネタばらししてしまうのは期待外れだった。前半はミステリー、後半はサスペンスという展開はデ・パルマが敬愛するヒッチコック作品によくあるのだが、ヒッチコックのようなサスペンスの手際は今一つで、中盤からラストまでがちょっと退屈だった。
本当はさらに隠された謎があって、最後の最後のワンカットが実は映画の中で明確に描かれていない重要な真実にかかわるという話だ。思わせぶりなカットだったから、もう一度見終わってから筋を反芻してみたがよく分からなかった。パンフレットには真犯人を示唆する推理が書かれていた。でもだからどうしたという感じだ。
シネマミラノで「ボクらはいつも恋してる!金枝玉葉2」(no.15)を観る。
あの「君さえいれば/金枝玉葉」の続編。
監督はピーター・チャン。主演もアニタ・ユンとレスリー・チャンと、すべて前作を引き継いでいる。
今でも前作の衝撃は覚えている。
ゴキブリの視点で始まるコミカルなイントロ。
男と偽って生活に入り込んできたアニタ・ユンを好きになってしまい、自分がゲイなのではと悩むレスリーという設定のおかしさ。
エレベーターの箱とスクリーンの余白を効果的に使ったラストシーン。
すべてが楽しく、全編香港映画のパワーに満ちあふれていた。今回は衝撃はない代わりに安心して見られるシリーズものという感じだ。チャン・シウチョンもカリーナ・ラウもエリック・ツァンも同じ役で出てきて、期待どおりの演技をしてくれる。
ただコメディ色が強まった分、もうアニタとレスリーの恋にときめかないのは残念だ。
シネマスクエアとうきゅうで「BAR(バール)に灯ともる頃」(no.14)を観る。
久々にエットーレ・スコラ監督の作品を観る喜びを味わえる。
「ル・バル」「マカロニ」「ラ・ファミリア」「あんなに愛しあったのに」、どれもが切なくて温かいイタリアならではのコメディ映画だった。
今回は主演がマルチェロ・マストロヤンニと「イル・ポスティーノ」のマッシモ・トロイージ。89年の作品ということだから、奇しくも主役の二人ともが他界した事と「イル・ポスティーノ」のスマッシュヒットがなければ永遠に配給されなかったかもしれない。
兵役中で離れて暮している一人息子トロイージに、父マストロヤンニが会いにくる。しかしなかなか打ち解けない。父と息子とはこうも心が通いあえず反発してしまうものなのか。
非常に地味で渋いストーリーだが、次第に息子の生活や考え方が見えてきて勝手に失望してローマに帰ろうとする父に、息子は一度は突き放しながら最後には温かく見送るまでを淡々と描いている。
「奇しくも主役の二人ともが他界した」と書いているが、現時点(2007年9月)でこの映画日記を読むと「奇しくも」の意味がレスリー・チャンにもかかってくるのがわかる。かたや香港の大スターであり、かたや静かに人気が高まっていったイタリアの若手俳優。別の言い方をすれば、一方の死は役者としての限界を、一方の死は可能性を語る事になった。二人の間には、長く豊かな経歴を経て豊饒たる映画に囲まれて幸福な映画人として逝ったであろう名優・マストロヤンニがいること自体が、まさに「奇しくも」に奇跡のような意味を付け加えている。
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