比喩ではない、正真正銘のくまなのだ。だけどくまは「わたし」のアパートのご近所として立派に住まっている。
ひょっとして何かの寓話かもしれない。フロイトの言う心理的象徴の具現化って線も捨てかねる。つまり「わたし」の心理から見える「くま」なのだ。
だったら「くま」ってところに「斉藤さん」と入れ替えてみたっていいだろう。
以前くま(斉藤さん)がたいへん世話になった某君の叔父という人が町の役場助役であったという。
いいんじゃないか。
「お父さん、くま(斉藤さん)だよ」
子供が大きな声で言った。
「ねえねえくま(斉藤さん)だよ」
ちょっとおかしい(汗)。
ゆっくり食べおわると、くま(斉藤さん)は、
「もしよろしければオレンジの皮をいただけますか」
と言い、受け取ると、わたしに背を向けて、いそいで皮を食べた。
やっぱりおかしい。絶対おかしい(汗、汗)。
くまはくまだ。くまは田舎から上京してきた人同様に、人里に出てきて寂しく暮らす一匹のくまなのだ。
だれが見たってくまでありながら、人並みに運転もすれば料理もする。くまとして捕まえた魚を人間らしくナイフでさばいて干物にもする。
そんな生真面目な「人並みさ」にくまの淋しさが見え隠れする。
それは獣である前におだやかな存在であることをアピールするためのくまなりの思慮分別に見える。
だが、くまの思慮を分かる人間は少ない。おそらく「わたし」と著者と、そして読者である僕らだけだ。だから、くまの物腰はどこか淋しい。
その一方で、やはりくまは怖い。「わたし」にしたって読者にしたって「くま」はいつなんどきクマになったり熊になったりするか分からない存在だ。
だから、「怖さ」と「温もり」の微妙な境界を何とはなしに渡り歩く事ができるものだけが、著者がつむぐ不思議な存在たちの隣人になる事ができる。
くまを受け入れると僕らの許容範囲はぐっと広がる。
梨畑に現れる梨食いの餓鬼どもも、壷から出てくる役にもたたないただの女性も、バーのママの雪のふきだまりにとらわれる話も、人魚に見入られる話も、くまと隣人であるうえは不思議でもなんでもないと思う。
ただいずれも入口は怖い話だ。胡乱な奴らだ。ホントは怪奇な伝承とも似ていて、著者は柳田国男や泉鏡花のような手つきで怖くて温かい物語をつむごうとしている。
だからこれは決してファンタジーではない。ファンタジーの体裁をとる怪異譚である。そうは見えないのは著者の手際のせいだ。
ひらがなの「くま」やカタカナの「コスミスミコ」が出てくる穏やかな筆使いが最後まで「もののけ」であることを置き去りにする。
そして最後の最後に著者は驚くべきシーンを読者に用意している。「わたし」とくまのラブシーンだ。それがどんなに見事な手際になるものかは是非読んで確かめて欲しい。
(2005/07/19読了)




川上さんってほんと、不思議な人で、私は自分自身の、所謂「普通の人」とは随分かけ離れていて、この世の中を生きていくのが厄介に思われる部分を再認識した時、川上さんの、自分との共通点を見出してほっとしたりしてます。だからいつも彼女の本の登場人物は、「ああ、これ、私だ…」としみじみとして、さめざめと泣いたりするのです。
ではまた。次回にも期待してます。
川上さんって作品同様とらえどころのない印象のきれいな方ですよね。年齢も不詳だし。
おまけに今回、あとがきを読むと、子育てをしながら書いた手習いのような作品が賞をとったのがきっかけで作家になったとありました。
子どもがいらっしゃった事にびっくりしました。
何故だが、作品の雰囲気からどこか日常の暮らしからは浮遊したイメージがあったものですから。
ますます著者もその著作も深く付き合いたくなりました。
読書は「日常の暮らしからから浮遊」できる貴重なひと時。私にとって、至福の贅沢な時間です。
なかなか新聞の連載記事って読まないもんだと思いますよ。それも全部とってあるとは。
ママさんの側面もあるのも驚きですが、今読んでる「古道具屋中野商店」の艶っぽい話もなかなかです。それこそグッときてしまいました。