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    2025年10月18日

    エラリー・クイーン『ローマ帽子の秘密』を散策する(その1)

     前々から『ローマ帽子の秘密』の良さがよく分からなかった。会社のクイーン好きの同僚が特にお気に入りだというのが『ローマ帽子』で、その理由が「犯人を最後の最後の一人まで理詰めで絞り込んでいくからだ」と言っていた。だが、それは2作目の『フランス白粉の秘密』にも当てはまるのではないかと思った。まさに僕のお気に入りが『フランス白粉』で、その理由が「作品のクライマックスで、犯人を最後の最後の一人まで理詰めで絞り込んでいく」からだ。『ローマ帽子』と『フランス白粉』との決定的な違いは、ミステリのスターとも言える名探偵エラリー自身が、お得意の演繹推理で絞り込んだ犯人を名指しするか否かにある。『ローマ帽子』は、名探偵の物語にとって最も重要な要件を意図的に回避しているが故に、僕にとっては致命的な欠陥を抱えた作品としか思えなかった。

     ところが角川文庫が翻訳家・越前敏弥さん主導で国名シリーズを翻訳する事になって、あらためて緻密な翻訳をベースにして「犯人を最後の最後の一人まで絞り込んでいく」プロセスを十二分に味わう事で、デビュー作の出来を見なおす事ができた。ただ、その後何回か角川文庫版を読み直したが、最後のクライマックス場面が瑕疵であるという認識を改めるまでには至らなかった。いつもなら「ネタバレ解読」と称して、飯城勇三『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』の批評にそって作品の特徴を味わうのだが、こと『ローマ帽子』では「本作では『パズラーに無縁なもの』は何一つない」というのが最大の特徴だと飯城さんは言う。ならばネタバレうんぬんを論じてもあまり意味が無い。それよりも、作品を味わうためのトリビアにこだわった方がよさそうなので、『ローマ帽子の秘密』を散策する事にした。散策する対象は以下のとおりだ。
    原作: The Roman hat mystery (1929) by Ellery Queen
    翻訳: ローマ帽子の秘密(角川文庫) (2012年) 訳 越前敏弥・青木創
    原書: The Roman hat mystery (renewed 1957 by Ellery Queen) 1967 published by The New American Library

     舞台はマンハッタンだ。精選版日本国語大辞典(日国)によれば「アメリカ合衆国、ニューヨーク市中心部の島。また、その島を占める区。ハドソン川・イースト川・ハーレム川に囲まれる。商業・金融・芸術・文化の世界的中心地。国際連合本部、エンパイアステートビルなどがある。」と書かれている。以下に本作の舞台となるマンハッタン(島)を俯瞰する地図を示す。西側にハドソン川が流れ、ニューヨーク州とニュー・ジャージー州とを隔てている。東側には文字どおりイースト川が流れ、対岸にはロングアイランド(島)がある。ハーレム川はマンハッタン島と本土との境界を流れ、本土側にはブロンクスがある。
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     クイーン研究家の飯城勇三さんが本作の特徴として「パズラーに無縁なものは何一つない」と書いているとおり、地図に示した場所には作中の登場人物の住居や事務所、あるいは肝心かなめの犯行現場などしか挙がっていない。観光名所は皆無と言っていい。つまり、本作は『ダ・ヴィンチ・コード』に代表されるようなツアー型ミステリーではない。何しろセントラルパークもエンパイア・ステート・ビルもほぼ素通りしているのだ。強いて言えば、犯行が行われた「ローマ劇場」(架空の劇場)がブロードウェイにあるため、目抜き通りにあたるホワイトウェイに印が集中している。しかしそれとて、主に登場人物の住所が多いし、ほとんどが普通のアパートメントだ。要するに、エラリー・クイーンと名乗る事になった従兄弟同士の若き二人は、執筆当時、パズラー(演繹推理を駆使して論理的に犯人を指し示すミステリ)を作りあげる事だけに腐心していて、作品の舞台や登場人物を読者にとって興味深いものにしようなどという「無駄な事」には一切関心を示していないのだ。

     唯一の観光名所は、犯行現場から最も離れた位置にあるブロンクス動物園(H)だ。マンハッタン島ではなく本土のブロンクスにある動物園で、1899年に開園している。この場所だけは「パズラーに無縁なもの」かもしれない。事件解決の見通しがついて上機嫌のクイーン警視が、召使いジューナを連れて英気を養う場面が以下のように描かれている。
    [翻訳](20章P.423) 警視は含み笑いをした。「それはもう過去の話だ、トマス。きのうはジューナとふたりでブロンクス動物園へ行って、われらが同胞たる動物たちと楽しい四時間を過ごしたよ」

     ちなみに動物園に連れて行ってもらう召使いジューナは「少年」というイメージだが、実はこの時には立派に成人している。
    [翻訳](8章P.170) ジューナは、エラリーが大学に行ってしまったためにリチャード・クイーンがひどく孤独を感じていたころ、この家に迎え入れられた。その明るい十九歳の少年は、親の顔を知らずに育ち、苗字の必要性など一度として感じたことがなかった。
     つまり、高等遊民的ではあるが今やまがいなりにもミステリ作家になっているエラリーの年齢を考慮するかぎり、クイーン家に「迎え入れられた」時に19歳だった少年(少年?)は20代前半ぐらいにはなっているはずだ。少年どころか立派な成人男子だろう。

     サウスブロンクスに、被害者モンティ・フィールドの従者であるチャールズ・マイクルズのアパートメント(E)がある。
    [翻訳](9章P.199)「どこに住んでいるんだね」マイクルズがブロンクスの東百四十六丁目の番地を言う。
     特にどうという事もない場所だが、従者にしては住み込みではなくマンハッタンにも住んでいない。前科がある事からひっそりと暮らしている事を著者が仄めかしているのかもしれない。

     フィールドの事務所(C)もブロードウェイの劇場街からはずいぶん離れている。
    [翻訳](2章P.57)「それから、ヘス」警視は別の刑事につづけて指示を出した。「チェンバーズ通り五十一にある、この男の事務所へ行って、こちらから連絡するまで待機してくれ。(略)」
     チェンバーズ通りはニューヨークの官公庁街にある。通りの向かい側にはツイード裁判所(1881年完成)がある。弁護士という職業柄、官公庁街に事務所をかまえるのは理にかなっているかもしれない。しかし周辺には、サンプソン地方検事が在籍するニューヨーク市地方検事局や、クイーン警視が奉職するニューヨーク市警まである。裏社会とつながりがあり彼自身も犯罪組織の黒幕であると当局から目を付けられている人物の事務所が、こんな目と鼻の先にあるとは大胆不敵きわまりない。

     実業界の大立て者フランクリン・アイヴズ‐ポープの邸宅はリバーサイド・ドライブにある。
    [翻訳](11章P.248) 十時半に、警視とエラリーはリヴァーサイド・ドライブにあるアイヴズ‐ポープ邸の大きな正門を押しあけた。(略)それは四方八方に張りだした巨大な邸宅で、道路からかなりはずれた広大な芝地にそびえ立っている。
     リバーサイド・ドライブとは、ハドソン川の川岸に沿った通りの事だ。地図に印を付けたように北端(F)から南端(G)まで続く。さすがに電子辞書では引っかかってこなかったのでCopilotに聞いてみたところ、「歴史的かつ風光明媚な街路」との事。通りの西側(河畔という事か)にリバーサイドパークが広がっている。ハドソン川の眺望が美しく、夕暮れ時の景色は特に人気があるようだ。重要なのは「かつては『百万長者の通り』とも呼ばれ、ギルデッド・エイジ(19世紀末〜20世紀初頭)の富裕層の居住地として知られていた」という点だ。まさに大事業家にして大富豪の邸宅が建てられていてもおかしくはない。どのあたりにあるのかは特定できないが、アイヴズ-ポープ邸で娘のフランシスに話を聞きに行った帰り道の様子が書かれている。
    [翻訳](12章P.267) 五分後、警視とエラリーとサンプソン地方検事は、七十二丁目へ向かってリヴァーサイド・ドライブを並んで歩きながら、午前中の出来事を盛んに論じ合っていた。
     72丁目はローマ劇場がある通りだ。そこに歩いて向かっている以上、アイヴズ-ポープ邸はリバーサイド・ドライブの南端(G)寄りにあるのではないだろうか。
        ♥♠♦♣
     ローマ劇場から離れた周辺部を片づけたので、地図をズームアップする。
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     マンハッタンの街路は碁盤の目のように仕切られている。東西を○○th street(○○丁目通り)と呼び南北は××th Avenue(××番街)と呼び慣わす。中央にセントラルパークが大きく陣取っていて、先ほどの○○丁目通りは西○○丁目通り、東○○丁目通りに分かれる。地図を見るとよくわかるが、セントラルパーク内部にはほとんど踏み込む事はない。父クイーンはニューヨーク市警の警視でありながら、以後の事件でもセントラルパークが関連するような事件に遭遇する事はなかったような気がする。本編とはまったく関係ないが、「メトロポリタン美術館」が公園内にあるとは知らなかった。1870年開館なので、クイーン父子が活躍していた当時も存在していた事になる。ディクスン・カーにとっての「蝋人形館」ではないが、実名のメトロポリタン美術館で事件が起きていたら、さぞかしそそられた事だろうに。

     クイーン父子のアパートメント(D)は西87丁目にある。
    [翻訳](8章P.168) 西八十七丁目にあるクイーン父子のアパートメントは、炉端のパイプ掛けから壁の輝くサーベルまで、いかにも男の家だった。ふたりの住まいは、ヴィクトリア朝後期の趣を残す、褐色砂岩を張った三世帯用アパートメントの最上階にあった。
     「×番街」の記載はないので、セントラルパークからリバーサイド・ドライブの間のどこらへんにあるかは分からない。googleマップのストリートビューでなんとなくアパートメントの様子が似ているところにピンを打ってみた。それにエラリーの事だから、川沿いの風景よりもセントラルパークの静けさを選ぶのではないだろうか。

     モンティ・フィールドの弁護士事務所はチェンバーズ通り51にあったが、アパートメント(B)の方は西75丁目113にある。
    [翻訳](2章P.56)「リッター、この男のアパートメントへ行ってくれ。名前はモンティ・フィールド、職業は弁護士、住所は西七十五丁目通り百十三だ。(略)」
     住まいと事務所の位置がハッキリ示されているのはフィールドぐらいだ。現代ならば被害者と同じ住所に住んでいる人からクレームが来そうだ。逆にクイーン父子の住所ならばハッキリした方が喜ばれそうだ。せめて、ホームズにならって架空の番地を付けておけばよかったのに。
        ♥♠♦♣
     さらに犯行現場となったローマ劇場周辺へとズームアップする。
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     遅ればせながらではあるが、『ローマ帽子の秘密』は次のように始まる。
    [翻訳](1章P.28) 一九二X年の演劇シーズンは不安のうちにはじまった。ユージン・オニールが新作を書きあげずじまいで、知識人の収入源を確保してやらなかったし、つぎつぎ芝居を見ても熱中できなかった”俗人”たちは、お堅い舞台劇を見放して、もっと気軽に楽しめる映画の殿堂へ足を向けていた。
     ユージン・オニールが新作を書かなかった年は1923年もしくは1926年になるようだが、ここでは詳細は検討しない。ただ、舞台劇が映画という新しいメディアの存在におびやかされていた事は確かだ。1920年前後にはサイレント映画の傑作が数々作られ、米国ではグリフィス、デミル、シュトロハイム、チャップリン、キートンらがしのぎを削っていた。1927年には長編映画としては世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が作られ、30年代には映画が一大産業として成長していく。
    [翻訳](1章P.28) というわけで、九月二十四日、月曜日の夜に、霧雨がブロードウェイの劇場街のまばゆい電飾をかすませはじめると、三十七丁目からコロンバス広場にかけての劇場支配人や演出家たちは、それを暗い顔でながめやった。
     地図で見ると、セントラルパークの南西の角(西59丁目)にあるのがコロンバス広場(@)だ。コロンバスサークルとも言われ、フランスの凱旋門のように周囲が車道になっている。中心にある記念碑が名前の由来になっていて、探検家コロンブスの米国大陸到達400周年を記念して1892年に建立した。コロンバスサークルと言えば、1930年代には流行作家となっていたクイーン(ダネイとリー)が、打ち合わせのために小さな事務所をかまえたエリアにある。
    [私訳](プロローグP.24) 1930年代が終わる頃には、ダネイとリーはそれぞれの自宅で一日12時間もの仕事をこなし、コロンバスサークル周辺にあるフィスク・ビルに、家具もなにもない小さな事務所を構えて週に一度だけ会っていた(事務所の床に「プラン」と書かれた大きな茶封筒を置いた)。  (フランシス・M・ネヴィンズ.Jr.『エラリイ・クイーンの世界』)
     一方の「37丁目」というと地図から外れてしまうが、左下に「タイムズスクエア」の地名が見え西45丁目なので、「ブロードウェイの劇場街」がかなり広いエリアである事がわかる。

     その中の一画に、本作の殺人現場となったローマ劇場(J)がある。
    [翻訳](1章P.29) しかし、ブロードウェイの中心をなす”ホワイトウェイ"、その西四十七丁目にあるローマ劇場に面した舗道は、シーズン真っ盛りの好天の日並みに観客で混み合っていた。
     「ホワイトウェイ」とは、特に劇場が集中する42〜53丁目付近を指す。何故こう呼ばれるかというと1900年代初頭から街路に電飾が装備され、夜でも白く輝いてみえたからだそうだ。肝心のローマ劇場だが、西47丁目の舗道に面していると書かれているだけで、正確な位置は分からない。これだけを頼りにCopilotにモデルとなりそうな劇場を探してもらうとエセル・バリモア劇場が出てきた。1928年開業なので事件当時は存在しないし、著者の執筆当時に間に合ったかどうかも疑問だ。ただ外観が「テラコッタの錬石風ファサード、アーチ型の入口、ローマ浴場を模した装飾」だったようで、もしかしたら「ローマ劇場」という名前のインスピレーションの元になったかもしれない。
    [翻訳](14章P.311)「あなたはローマ劇場の支配人になってどのくらいですか、パンザーさん」
     支配人は眉を吊り上げた。「ここが建てられて以来ずっとでございます。その前は、四十三丁目の古いエレクトラ劇場の支配人をしておりました(略)」
     ローマ劇場の支配人パンザーの口ぶりでは、長年にわたって支配人を務めてきたと感じられるので、ローマ劇場は1920年以前には開業していないと辻褄が合わない。その場合のCopilotの回答はセントラル・シアター(1918年開業)が有力だ。

     I〜Kは作品終盤のある場面に関わる場所なのだが、今回は解説を割愛する。実はこの部分は多少のサスペンスが文章から感じられなくもないが、それ以外は『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』に書かれているとおり「ラブロマンスもないし、アクションもないし、ユーモラスなシーンもないs、誰かの身に危険が迫るといったサスペンスもない」。その事がまさに地図で確認できる。逆に言えば「純粋にして緻密な推理」を扱ったミステリとしては希有なものを著者エラリー・クイーンは創造したことになる。コンテストの優勝が内示された直後に、主催した雑誌社が倒産。主催を引き継いだ雑誌社が女性向きに舵を切った事によって、この作品は「女性にとっては退屈なもの」と判断され、別の作品が受賞する事になった。
    posted by アスラン at 09:05| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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