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    2025年04月05日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.8)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3.8 Science may tell us that in the struggle for life it is the fittest who survive, but we who have lived through two great wars have seen with our eyes that it is the bravest, the noblest and the best who perish.
    (訳) 生存競争で生き残るのは、生存に最も適した者であると科学は教えてきたかもしれないが、2度の大戦を生き抜いてきた我々は、滅びるのは最も勇敢で高貴で最もすぐれた人々であることを自分の眼で見てきている。

     強調構文というと基本はIt is … thatだが、焦点部が「人」の場合はIt is … whoが使われる事があるし、「物」の場合はIt is … whichが使われる事もある。今回の例文はIt is … whoの強調構文が2つ含まれている。どちらも主語が焦点部になってはいるが目的語の場合でもwhoが使われるはずだ。
    (a) Tom met Jennifer yesterday. 昨日トムはジェニファーに会った。
    (a') It was Tom who met Jennifer yesterday. 昨日ジェニファーと会ったのはトムだった。(主語が焦点部)
    (a") It was Jennifer who(m) Tom met yesterday. 昨日トムが会ったのはジェニファーだった。(目的語が焦点部)
     (a")の場合は目的語なのでwhomも使えるようだが(というか正確にはこちらが文法に忠実だが)、実際にはwhoを使うのが一般的のようだ。

     また、ジーニアス英和辞典の例で初めて知った(というか意識した)のだが、giveの間接目的語が「人」の場合はwho(m)を使えないらしい。
    (b) Mr. White gave Joe the ticket. ホワイトさんはその切符をジョーにやりました。
    (b') It was Mr. White who gave Joe the ticket. その切符をジョーにやったのはホワイトさんでした。(主語が焦点部)
    (b") It was to Joe that [×who(m)] Mr. White gave the ticket. ホワイトさんがその切符をやったのはジョー(に)でした。 (目的語が焦点部)
     これは要するにS+V+O1+O2の構文になるのは(b)や(b')の時で、間接目的語O1が焦点部として前方に出る形式では成立しないという事だろう。(b")の場合にはS+V+O2という構文が基本形になってto O1という副詞的要素が焦点部に移動するのだからwhoではなくthatが使われるという事になる。

     以上の話は例文の推敲とは何の関係もない。単なる僕自身の興味に過ぎないので話を元に戻して例文の推敲に取りかかろう。まず前半で気になるのは「科学は教えてきた」のように科学を擬人化している点だ。英語教育の影響なのか、今や日本語でも当たり前のように使われるかもしれないが、とりあえずは擬人化しない方向で考えたい。mayが使われているからと言って「(科学は)教えてきたかもしれない」という他人事のような表現になっているのも気になる。もっとも気になるのは「生存競争で生き残るのは、生存に最も適した者である」という部分だ。これって当たり前の事しか言ってないように感じる。もうちょっと因果的な法則が含まれるのではないだろうか。

    (前半の推敲訳) 科学的見地からすると、自然界の生存競争においては環境にもっとも適応した生物の方が最後まで生き残る事になるだろう。

     後半の方は、主語である「我々」に関係代名詞節が連体修飾していて非常に長くなっているのがバランスが悪い。しかも「〜我々は、…を自分の目で見てきている」のように長ったらしい主語と述部が、強調構文を間に抱え込んだままで非常に離れている。このままでは係り受け関係が離れすぎと感じるだけでなく、強調構文の主張も目立たなくなる。この2点を解決するには「我々は」を題目部として冒頭で独立させてしまえばいい。題目部ならば、文や節を超えて後々の文章の述部に影響を及ぼすので安定するのだ。
    (後半の推敲訳) しかし我々は、二度の大戦を生き延びてきた経験から、誰よりも勇敢で高潔で優秀な人間の方がかえって天寿を全うできないという現実を目の当たりにしてきた。

     一つにまとめると、次のようになる。
    (推敲訳) 科学的見地からすると、自然界の生存競争においては環境にもっとも適応した生物の方が最後まで生き残る事になるだろう。しかし我々は、二度の大戦を生き延びてきた経験から、誰よりも勇敢で高潔で優秀な人間の方がかえって天寿を全うできないという現実を目の当たりにしてきた。

     推敲はほぼこれで良しとするが、内容については一言触れておきたい。ダーウィンの唱えた進化論で重要な柱となる「適者生存」は、種として生き延びるためには、それぞれ環境に最適な個体が生き抜く事を原則としているわけだが、それと社会生活を生きる人間とでは原理原則がそもそも違っている。人間という個体が生き延びるためには、当然の事ながら個体として環境に最も適した者が求められるであろうが、人間が形成する社会の目的はそれとは異なっている。人間が考えているのは種の保存ではなく、社会の継続だろう。社会無くして人間は生きられないという事を結論づけた結果、社会を維持するための理念や倫理といったものを人間は重要と考えた。「勇敢」「高潔」「優秀」などの観念は、自然という環境に個体が適応するための資質とはまったく関係ない。あくまで社会にとって有効な資質であるか、もしくは美的な理念でしかない。

     この例文の考え方では、科学的進化論と社会的進化論とを混同しているのだ。もっとも、自然を離脱して社会的生活を営む人間にしても遺伝子の命令に基づいて行動しているというトンデモ理論もあるので、そういう大枠の原理が存在するとなると、例文の主張は一周回って考えるに値する内容になっているのかもしれない。まあ、例文の直接の主張とはまったく違ってはいるけれど。
    posted by アスラン at 11:25| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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