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    2025年04月03日

    ジョン・ディクスン・カー『絞首台の謎』を散策する(その2)

     『絞首台の謎』を楽しむために、(その1)では首を切り裂かれた運転手の死体が操るリムジンが、霧がかかったロンドンの目抜き通りを疾走するシーンをgoogleマップと照らし合わせて再現してみせた。次はCarr Graphic Vol.1で指摘されている「ブリムストーン・クラブって何階建てでしょう?」という森咲郭公鳥さんの問いかけ(P.24)について、僕なりに考えてみようと思う。

     何故、こんな事が問題になるかというと創元推理文庫の旧訳(井上一夫訳)と新訳(和爾桃子訳)とでは、階数に関しての訳が違っているからだ。
    (旧訳) クラブは5階建て、バンコランの部屋は3階、ジェフの部屋は5階。
    (新訳) クラブは4階建て、バンコランの部屋は3階、ジェフの部屋は4階。
     ただし、これは翻訳家が責めを負う問題では無い。結局のところ、原作者のカーの階数表示が作品を通して辻褄が合わないので、致し方なくそれぞれの翻訳者が「つじつま合わせ」をせざるを得なくなったに過ぎない。

     カーがどういう「やらかし」をしたかを詳しく見ていく前に、根本にある問題としてアメリカとイギリスとでは階数表示が食い違うという点を共有しておこう。以下が米国、英国、日本の階数表示の対応表である。
    《米》the first floor  《英》the ground floor 《日》1階
    《米》the second floor 《英》the first floor  《日》2階
    《米》the third floor  《英》the second floor 《日》3階
    《米》the fourth floor 《英》the third floor  《日》4階
    《米》the fifth floor  《英》the fourth floor 《日》5階
     これを見ると問題がかなりややこしい事がわかるだろう。日本人にとっての「1階」がthe first floor(米)/the ground floor(英)と言う呼び方の違いだけならば大した問題にはならないが、次の階から英国だけアラビア数字と数詞とがズレていく。何故こんな罪作りな事をしたのかとも思いたくなる。たとえば物の数を数えるときに「1,2,3,…」と自然数を使って数え上げていく事は、数学者デデキントが論理的に数学を築き上げて行く際の基本として考えた事だ。果たしてイギリス人はどのようにビルの階を数えていくのだろう。「1,2,3,…」と書いて「ground, first, second,…」と読んでいるとは思えないのだが。

     とは言え、本書はカーがイギリスで発表した作品だと考えれば、英国式に読み替えればいいだけだ。翻訳家が変わろうが新訳と旧訳で変わるはずはない。問題は次の文章にある。(その1)でも引用したとおり、バンコランとジェフが宿泊し、運転手が殺されたリムジンの持ち主エル・ムルクが同じように宿泊しているブリムストーン・クラブに関する描写に、はっきりと「何階建て」なのかが書かれている。
    [原文]( 2章P.12) Now the Brimstone Club is one of the most curious, and certainly the most disreputable, institution of the West End. It used to stand at the eastern corner of Pall Mall and St. James's Street; four floors of dun-coloured granite, grimy, bay-windowed, and sedate.
    [私訳] ブリムストーン・クラブはロンドン・ウェストエンドにある団体のなかでも、断トツでえり好みが激しく、世間からの評判が悪いのは疑いようがない。建物は昔からパル・マルとセント・ジェームズ通りがまじわる交差点の東の角にあった。灰褐色の御影石で造られた四階建てで、煤けていて、出窓が付いており、地味な印象だ。
     重要なのはfour floors of dun-coloured graniteという部分だ。これはブリムストーン・クラブの特徴を描写したフレーズの一つだ。ここが表記どおり「4階建て」だと辻褄が合わなくなる。それは、以下のようにバンコランとジェフの部屋の階数が書かれているからだ。
    [原文]( 2章P.14) Sir John's rooms were on the ground floor at the rear; Bencolin had quarters on the second floor, and I on the fourth.
     (中略)
     Bencolin got out of the lift at the second floor, and I ascended to the fourth alone. I was in such a state of depression that I was not aware of my surroundings until I heard the whir of the descending lift. This top floor had not been wired for electricity.

    [私訳] ジョン卿の住まいは一階の奥にあった。バンコランは2階の部屋に宿泊し、私の部屋は4階だ。
     (中略)
     バンコランは2階でエレベーターを降り、私は独りで4階まで上がった。ふさいだ気分が続いていたせいか、エレベーターが降りていく音が聞こえてようやく周囲の状況に気づいた。この最上階には照明を灯す電気が来ていなかった。
     the fourth floorと書かれている以上、英国式では「5階」を意味する。しかもこの文章ではthe fourth floorをThis top floor(この最上階)と言っているので、英国式を貫けば5階建てという事になる。
       クラブ  バンコランの部屋 ジェフの部屋
    (原書) four floors the second floor the fourth floor
    (旧訳) 5階建て    3階       5階
    (新訳) 4階建て    3階       4階

    (私訳) 4階建て    2階       4階
     改めて原書の表現と、旧訳と新訳それぞれの解釈とを表にして並べる。ついでに私訳の解釈も書き加える。それぞれの考え方は以下のとおりだ。
    (旧訳) クラブのfour floorsは原作者カーの書き間違い(five floorsが正しい)、もしくは思い違い(英国式では5階建ての事をfour floorsと書くと思った)。
    (新訳) ジェフの部屋をthe fourth floorとしたのはカーの書き間違い。4階建てのクラブなのでthe third floorが正しい。
    (私訳) 1階の表記(the ground floor)を除いて、すべて米国式に階数表示されている。

     唐突に僕の考え方を示したが、これ以降の原文の検討で理由はハッキリするはずだ。前もって言っておくが、INTERNET ARCHIVEの検索機能を使ってfloor,floorsを含む文章は網羅的に検討してある。

     まず最初に検討すべきはクラブがfour floorsだと書かれている点だ。
    (ジーニアス英和) This hotel has thirteen floors. このホテルは13階ある。
    (英和活用) a spacious building of two floors. 2階建ての広い家
    (ランダムハウス) a five story building 5階建てのビル
    (ランダムハウス) a fifty-story building 50階建てのビル
    一般にstoryを使って「階建て」を表現する事が多いが、floorsだけでも階数は表現できる。だからfour floorsは4階建てを意味するはずで、これをカーの思い違いだとするのは無理がある。

    [原文]( 5章P.38) As we already knew, El Moulk and arrived in March of that year and taken the large suite of rooms on the fourth floor.
    [私訳] すでに聞いた通り、エル・ムルクはその年の三月にクラブに到着して、4階にある大きなスイート・ルームに宿泊した。
     エル・ムルクの部屋はthe fourth floorにあり、ジェフと同じくクラブの最上階にある。

    [原文]( 9章P.74) The four of us went out across the lobby and into the lift, Sir John coldly silent, Talbot glum, and Bencolin thoughtful. The lift-gate clanged at the fourth floor. Rounding the turn of the stair which descended near it , I saw Dr. Pilgrim just going down.
    [私訳] 我々4人はロビーを通ってエレベーターに乗りこんだ。ジョン卿は沈着冷静だが、タルボットは陰気な顔つきをし、バンコランは物思いに耽っていた。エレベーターの扉が4階でガチャンと音を立てて開いた。扉の脇を下っていく階段に回り込むと、ピルグリム医師がちょうど階下へ降りていくのが見えた。
     タルボット警部、ジョン卿、バンコラン、ジェフの4人はエル・ムルクの部屋を調べようとエレベーターに乗りこみthe fourth floorで降りる。

     ジェフは、知り合いとなったピルグリム医師に自らの研究用のオフィスに案内される。オフィスがあるビルはちょうど裏道を隔ててブリムストーン・クラブの裏手にある。
    [新訳](11章P.161) …奥の部屋の裏窓から、裏道をへだててこのクラブの裏手が見えます。正面に当たるのが、このエル・ムルクという男の部屋の窓です…」
     そして、このエル・ムルクの部屋からは裏手から1階に降りられる専用階段がある。

     ピルグリムは、エル・ムルクの誘拐は狂言でクラブ内に隠れているのではないかと主張する。
    [原文]( 11章P.93) "All right. I have it! What about those other suites at the back of the club? There are three corresponding ones, one on each floor over the other, and each must give on the private stair. I'll just lay you a fiver that at least one of them is unoccupied . . ."
     "Two, as a matter of fact. Sir John has the one on the ground floor. But the suite under El Moulk is empty―"

    [私訳] 「なるほど。分かりましたよ。クラブの奥にある他の階のスイート・ルームはどうです? 当てはまるのが三つあります。各階に一つずつ縦に並んでいて、全部があの専用階段と繋がっています。5ポンド賭けてもいい。少なくとも一つくらいは空いてるはずだ。」
    「実のところ、二つ空いています。1階のスイート・ルームはジョン卿が入っていますが、エル・ムルクの部屋の真下にあるのは空室です。」
     エル・ムルクが占有しているスイート・ルームと同じように専用階段と繋がっているところが、他にも「三つある」と言っている。しかも各階に1つずつあるのだから、エル・ムルクの部屋は4階でなければならない。しかも「一つくらいは空いているはず」と推測するピルグリムに対して、ジェフは「(1階にはジョン卿が住んでいるので)二つ空いています」と答えているのだ。だから、クラブが4階建てなのは確かだ。旧訳の解釈は棄却していいだろう。

    [原文]( 14章P.116) Bencolin was up in his room, waiting for me. I recrossed the lobby and mounted the stairs to the second floor, where I groped along a dark passage until I found his door. My tumultuous knocking echoed back, unanswered.
     (中略)
     Blundering up the staircase, I fought down a growing uneasiness. … I was almost to the top floor when I remembered I had given Thomas the night off to visit some relatives in Tooting. Curiously enough, there were lights in the passage of the top floor.

    [私訳] バンコランは寝ないで自分の部屋で私を待っている。私はもう一度ロビーを通って階段で2階に上がった。まっ暗な通路を手探りで進んで、ようやくバンコランの部屋にたどり着いた。取り乱したようにドアを叩いたが、谺もむなしく返事がない。
     (中略)
     つまづきながら階段を登り、高まる不安をなんとか押さえつけた。まもなく最上階に着くという時に、トーマスがトゥーティングに住むどこかの親戚に会いに行きたいというので今晩は外出を許したのをふと思い出した。なんとも奇妙な事ではあるが、最上階の通路には電灯が点いていた。
     なぜか人気のないロビーを抜けて階段でthe second floorに上がる。不可解な事に電灯が点いていない通路を手探りで歩いて、バンコランの部屋までたどり着く。

     さて、ここまで検討してきて非常に不可解な事がある。それはthe first floorとthe third floorのいずれもが一度も出てこないという点だ。新訳の解釈は原書中のthe fourth floorすべてがthe third floorの書き間違いという考え方なので、the third floorは出てこない。the first floorが出てこないのはたまたまだという考え方だ。だとすると、ジェフやエル・ムルクの部屋の階数全部が書き間違いというのはいささか迂闊すぎるのではないだろうか。既に引用したが、ジョン卿、バンコラン、ジェフの部屋はどの階にあるかがこんなに短い文章に収まっている。the fourth floorだけが書き間違いというのは納得できない。
    [原文]( 2章P.14) Sir John's rooms were on the ground floor at the rear; Bencolin had quarters on the second floor, and I on the fourth.
     これを読む限り、バンコランとジェフの部屋は別の階をはさんで2階違いであると当初から作者によって設定されているように感じる。

     別の視点として、最後の「バンコランが寝ないで待つ部屋」に向かってジェフが階段で上がったという点に着目したい。4階の自室に行く時はエレベーターを使っているので、もしバンコランの部屋が3階ならば階段ではなくエレベーターを使うのではないだろうか?あまり確信がもてる解釈ではないが、妥当な考え方だと思う。ならばfourth floor だけを都合よく書き間違いだと考えるより、いっそsecondもfourthもどちらも書き間違いと考えた方が分かりやすい。さらに考えると、the first floorが出てこない理由として、当時のカーは1階を英国式のthe ground floorに置き換えれば2階以降は米国式と変わらないと考えていたのではないだろうか。だとすると意図的に米国式のthe second floor(2階)、the fourth floor(4階)を用いたと考えるべきではないか。

     残念ながらthe third floorが出てこない理由(必然性)は本文中には見当たらないので、新訳と私訳の解釈のどちらが正しいかは分からない。まあ、あくまでお遊びなので結論はいらないのだけれど…。ちなみにブリムストーン・クラブがあるとされる「パル・マルとセント・ジェームズ通りがまじわる交差点の東の角」に実際にある古びたビルは、こんな姿だ。
    ブリムストーン・クラブの位置にある建物.jpg
     これを見るかぎり、やっぱり4階建てだな。と思ったらパル・マル側から側面を見ると5階建てでした(いや、とんがり部分を入れると6階建てになるのだろうか?)。
    ブリムストーン・クラブの位置にある建物-2.jpg
    posted by アスラン at 18:10| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(ディクスン・カー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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