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    2025年03月09日

    絞首台の謎 ジョン・ディクスン・カー(創元推理文庫)

     『夜歩く』(1930年)でデビューしたカーが、翌1931年に出版した第2作である。アンリ・バンコランを探偵に据えたシリーズの第2作でもある。これまで読んでこなかったのはおそらくかつては手元になかった事と、「カーの代表作とはほど遠い」という世間(と言っても本格ミステリーファンに限られる世間)の評判ゆえだろう。タイトルが(カーにしては)平凡という事もあるかもしれない。バンコランシリーズ第4作『蝋人形館の殺人』の方は旧訳で既に読んで、蝋人形に死体がまぎれているという描写に強い印象を受けたので新訳が出た際にもすぐに読み直した。しかし、その後に本作の新訳版が出た時には、すぐに読まずに今日の今日まで寝かせてしまったのだ。

     と、まことしやかに書き出したのだが、これが真っ赤な嘘だったことがかつてのメモ書きを見直して判明した。なんと27年前に『絞首台の謎』をちゃんと読んでいた。ということは当然ながら旧訳(井上一夫)なので、かつては旧訳の創元推理文庫が手元にあった事になる。さらにメモ書きの日付から『絞首台の謎』『蝋人形館の殺人』の順に読んでいる事もわかった。そして何たることか、2000年以降に新訳が出版されるたびに旧訳の方を処分してしまったわけだ。なので『絞首台』も『蝋人形館』も旧訳は手元にない。今なら絶対にそんな事はしないのだが、「後悔先に立たず(先に立ったらもはや後悔ですらない)」だ。

     ちなみに1998年の読後メモでは次のような事を書いている。
    今回の謎の構成は動機の点でもトリックの核心の点でも出来はよくない。過去の事件の復讐が動機だが、伏線やヒントの置き方がうまくない。確かに犯人は意外だが、伏線に乏しく納得できない。トリックの××××もタネがバレバレで意外性に欠ける上に、フェアなトリックとは思えない。


     このトリック(伏せ字にしてある)を我らカー愛好家のための『Carr Graphic』では「推理小説としてみると『古い』」と指摘している。この「古さ」は言わば子供の頃に読んだ「怪盗ルパン」シリーズの古さだろう。同様に江戸川乱歩が生み出した「怪人二十面相」シリーズにも通じる古さだ。例えば絞首台の影に怯えたり、死んだ運転手によってロンドン市内をリムジンが疾走するなどがそれで、乱歩の『怪人二十面相』にもヘッドライトに紙の切り抜きが貼られていて光が遠くの壁に投射される事で奇怪な人物が映し出されたりする。確かに、古色蒼然としたロンドン市内をイメージしながら読んでいる日本の本格ミステリー愛好家からすると、古いだけではなく本格ミステリーとしての魅力にも乏しいと感じるのは致し方ない。現に1998年の僕自身がそう考えていたのだから。

     しかし最近『髑髏城』を読み込んでカーの着想や書き方にも慣れてきたからだろうか、今の自分には本作はかつてのように魅力の無い作品とは感じられなくなってきた。例えば、Carr Graphic Vol.1の表紙を眺めていると、それだけでカーがものスゴいスピードで作家として成長していったことが分かってくる。
    1930年
     『夜歩く』(バンコランシリーズ第一作)
    1931年
     『絞首台の謎』(バンコランシリーズ第二作)
     『髑髏城』(バンコランシリーズ第三作)
    1932年
     『蝋人形館の殺人』(バンコランシリーズ第四作)
     『毒のたわむれ』(ノンシリーズ作品)
    1933年
     『妖女の隠れ家』(フェル博士シリーズ第一作)
     『帽子収集狂事件』(フェル博士シリーズ第二作)
     『弓弦城殺人事件』(ノンシリーズ作品)
    1934年
     『剣の八』(フェル博士シリーズ第三作)
     『盲目の理髪師』(フェル博士シリーズ第四作)
     『プレーグ・コートの殺人』(H・M卿シリーズ第一作)
     『白い僧院の殺人』(H・M卿シリーズ第二作)
     このようにデビューしてわずか4年の間に次々と名探偵を創り出し、それぞれで後に代表作とも言える作品を生み出している。最近ではエラリー・クイーンが1932年に『Xの悲劇』『Yの悲劇』『エジプト十字架の秘密』『ギリシア棺の秘密』を世に送り出した事を「ミステリ史上の奇跡」(有栖川有栖)と呼ぶようになり、それはそれでクイーンファンとしては喜ばしい事ではあるが、この4年間のカーの筆力の旺盛ぶりも「奇跡」の一つと言っても言い過ぎではないだろう。

     もちろん、『夜歩く』の成功でアマチュア時代にストックしていたアイディアを次々と作品に使い回す事を余儀なくされたという事もあるだろう。本作がそうだとは必ずしも言えないが、『夜歩く』の完成度に比べると、カーがアマチュア時代から育んできた怪奇趣味を頼りに筆を急いで書いたようにも見えてしまう。一方で、同年に出版した『髑髏城』は、前年のデビュー作の印税で遊山に繰り出したライン川めぐりで着想を得て書いた作品だそうだ。こちらはそう思えないほどに、短時間で一つの作品として仕上げている。どちらにも共通しているのは「古い」と揶揄されかねないトリック(××××)を持ち込んでいる点だろう。そこを指摘されても揺るがないのは『髑髏城』だ。何故なら、騎士が栄華を誇ったかつてのライン流域の伝説に裏打ちされた独特な世界観が、作品に横溢しているからだ。それに反して、現実の都会ロンドンを舞台にしていながら同じ世界観を持ち込む事の是非が問われてしまうのが本作『絞首台の謎』なのだろう。

     しかし、僕には『絞首台の謎』には別の可能性が秘められているように見える。クイーンが、国名シリーズで人が密集する都会の近代的な施設を繰り返し舞台にした事と対照的に、カーは光に満ちた都会に潜む闇を拡大する事で、見慣れた街並みや施設を怪奇趣味で上塗りする事に執着した。その結果が一連のバンコランシリーズだったはずだが、バンコランを探偵にするかぎりは悪魔的な風貌に見合った結末が相応しく、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のような演繹推理は無粋の極みという事になってしまう。そのような綱渡りではバランスが取りにくい事が、カーがバンコランを見限った理由の一つだったのではないだろうか。しかし、「都会を怪奇趣味で彩る」という目論みは、その後の『帽子収集狂事件』で結実したように感じられる。『帽子収集狂事件』では人物や自動車がロンドン塔周辺のあちこちに動き回る。その描写のリアリティと霧の向こうに潜む怪奇的な状況とが、フェル博士によって必然的な解釈とトリックと犯人へと導かれる。

     残念ながら本作では「ロンドン市内を疾走するリムジン」から必然的な解釈と言ったものは導き出されていない。しかし、見慣れた都会が常日頃は見せた事のない相貌を示す事ができたらどんなに面白いだろうかという、一人の若き本格ミステリ作家の野心が生み出した実験的作品と見れば、また見方は違ってくるのではないだろうか。思えば乱歩は、当時は大都市・東京の周縁でしかなかった麻布に暮らす富裕層の少年の身に、闇の象徴となる怪盗の魔の手が迫るところから「少年探偵団」の物語を始めていた。さらにカーを偏愛する横溝は、大都会のど真ん中である銀座を暗躍する犯罪者と対峙したり、乱歩と同じように麻布に住む元子爵の犯した犯罪に取り組んだりする。いずれも近代化により急速に闇が失われていく都会をミステリとしての異世界へと奪還しようとする試みだ。その意味ではカーが1931年に出版した2つの作品の可能性を誰よりも信じて、横溝正史はかたや東京を舞台にした作品を書き、かたや古き因習が色濃く残る岡山を舞台にした作品を書いた事になる。

     本作『絞首台の謎』の可能性を追求するためには、舞台となるブリムストーン・クラブ周辺がどのようなところなのか。リムジンはどこをどのように疾走したのかを再構成する必要がある。それについては別途「『絞首台の謎』を歩く」と題して考えてみたい。そこではCarr Graphicで取り沙汰されていた「ブリムストーン・クラブは何階建てか」という問いに対する僕なりの答も示す事になると思う。
    posted by アスラン at 00:30| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(ディクスン・カー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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