2007年08月07日

アメリカ銃の謎 エラリー・クイーン

 今回も中学の頃から繰り返してきた再読の中の一回だが、「オランダ靴の秘密」に引き続いて伏線読みをやった。犯人も謎解きも知った上で、作者がいわゆる〈手品のタネ〉をどこにどう仕込んでいるかを克明に読み込む作業が伏線読みだ。当然ながら〈ネタバレ御免〉となるので「ネタバレ解読」と題して別の記事にして末尾にリンクをしておく。未読の方はくれぐれも「解読」の方は読まないように。この書評自体にはネタバレはありません。

 「アメリカ銃の謎」は、初期のクイーン作品である〈国名シリーズ〉の中であまり好きな作品ではなかった。それには僕の好みによるところが大きい。僕が好きな作品として「フランス白粉の謎」「Zの悲劇」が真っ先に挙がる。その理由は犯人を特定するためのプロセスがクライマックスシーンとなっていて、そのドキドキ感がたまらなく好きなのだ。名探偵とくれば関係者一同を集めて謎解きを始めるというのが、本格ミステリーの醍醐味のひとつだろう。

 この醍醐味にさらに〈消去法〉という魅力ある手法をスパイスとして加える事で、作家クイーンは最後の最後まで読者のドキドキ感を煽ることを考えた。その究極技が「フランス白粉」の謎解きで、この作品では最後の一行で犯人の名前が明かされる。初読の際には、息を詰めて詰めて詰め切ったあげくに最後の最後で解き放したときには脳内麻薬(当時はそんな言葉はなかったけれど)が出まくった。こんな気分は他のクイーン作品でもなかなか味わえない。

 消去法では謎解きの前半で〈犯人となる要件〉をあらかじめ理詰めで列挙しておき、外堀・内堀を次々に埋めていくように要件を満たさない関係者を排除(消去)していく。排除していく過程そのものがサスペンスを生むわけだから、関係者が多ければ多いほど効果的だと言える。

 その意味で「アメリカ銃」の登場人物の少なさは、当時ゴリゴリのクイーンファンだった僕をがっかりさせた。コロシアムの観客2万人すべてが容疑者というケタハズレの設定にも関わらず、と言ったらいいだろうか。

 本作以前にも劇場(「ローマ帽子の謎」)・百貨店(「フレンチ白粉」)・病院(「オランダ靴の謎」)などのように、不特定多数の人間が出入りする大都会の象徴的なスポットが殺人現場に選ばれてきた。そうは言っても本当に不特定多数を相手に小説は書けないから、厳密な推理で犯人を特定するクイーン作品の特徴を際立たせる形式、言わば〈お約束〉に過ぎない事はファンにとって周知の事実だ。実質的には、犯人は目次の前に掲示された〈登場人物リスト〉の中にいる。最近は登場人物リストを挙げないミステリーがほとんどだろうが、ひとたび掲示したならば犯人がその中に含まれる事はミステリーというジャンルの〈暗黙の了解事項〉である。

 ヴァンダインの一連の作品では山ほどの登場人物がリストアップされ、探偵する側の名前も下っ端の刑事にいたるまで列挙されていて、〈こけおどし〉がたっぷりと効いていた。作家クイーンも彼にならって大勢の関係者を登場人物として冒頭に掲示した。処女作「ローマ帽子の謎」や「フランス白粉の謎」では17名、「エジプト十字架の謎」が21名。「ギリシア棺の謎」に至ってはなんと39名も挙がっている。

 ところが何故か本書で掲示される人物は極めて少ない。たったの7名だ。しかも内一人は探偵エラリー・クイーンなのだ。中期以降の作風ならいざ知らず、国名シリーズとしてはあまりに少ない。これでは消去法を駆使した謎解きなど望むべくもない。もちろん本書は消去法もなければ一同を集めたグランドホテル式のクライマックス場面もない。

 ではあらかじめ謎解きの醍醐味を封じられている作品のどこに読者は期待すればいいのか。謎解きに見合うだけの魅力ある〈謎〉である事は言うまでもない。例えば満席の劇場で殺された正装の紳士の周囲六つの席はなぜか空席で、あるべきはずのシルクハットが見当たらない。村のはずれに一人暮らしする校長が無惨にも首なしで十字架にみたてて殺される。山火事という極限状態の中で殺された男にはひきちぎられたトランプが残されている。或いは密室状態の部屋の中で扉に寄っかかるように死んでいた男の部屋はあらゆるものがアベコベに配置されていた、などなど。

 要するにどれもケレン味たっぷりに魅力ある謎が用意されている。ところが本書で提出される謎が何かと言えば、2万人もの容疑者がとりのこされたコロシアムの中から消えた〈凶器=拳銃〉の行方、これだけなのだ。

「凶器の銃を持ち出すことは不可能である。それなのに、銃は見つからない…。この謎は強烈であり、」


と、エラリー・クイーンパーフェクトガイド(飯城勇三・編著)では書かれているが、冷静に考えて欲しい。2万人からなる観客が出入りする競技場で、極めて小型の24口径自動拳銃1丁が見つからない事が「強烈な謎」となりうるだろうか。〈不思議のクイーン・ワールド〉であるからこそ成り立つトリビアな謎ではないだろうか。

 しかし実はこの不満は最終的な謎解きで意外な形で解消されることになる。それがガイドの後半で書かれる「推理はトリックを乗り越える」というサブタイトルの意味するところだ。要するに凡庸な謎の見た目と違って、結末には玄人受けするような仕掛けが待ち構えている。なるほど、パーフェクトガイド片手に今回再読してみて初めて本書の楽しみ方に触れた気がする。そこに気づかずに第一印象の不満が長年にわたって尾を引いてしまったようだ。これ以上具体的なことは書けないので「ネタバレ解読」に譲ろう。

 では、ネタバレとは無関係のところを少しつっついてみよう。往年の西部劇スターでカウボーイのバック・ホーンを主役に据えたロデオショーが大掛りにニューヨークで開催されるという趣向は、いまだ古びてはいない。どろくさいエンターテイメントは新しい形で大規模に再現されやすいのは今も原作発表当時も変わらない。

 違うとすればコロシアムの片隅を陣取るニュース映画の撮影クルーの存在だ。テレビがなく映画の黄金時代だった当時、映画と映画の合間に映写されるニュース映画は最新で刺激的な情報源だった。作者もその点に抜け目なく、当時流行の先端であった映画メディアを巧くストーリーに取り込んでいる。

 ホーンが騎乗する馬を40名の騎手が追いかける演目で、一斉に放った空砲と同時に、実弾がホーンを死に至らしめる。その一切合切がニュース映画のフィルムに焼き付けられる。しかしエラリーたちの期待を裏切ってフィルムからは凶器や犯人を示唆する物は出てこない。ホーン抜きで再開されたロデオショーで再び殺人が繰り返され、またもやフィルムからは何も見つからず万事休すと思われた時、エラリーは真実の光を見い出す。

 ここが〈読者への挑戦〉が挿入される間際の一つの山場であるのだが、これとほとんど同じ山場を持つ作品が日本のミステリー作家によって書かれている。松本清張の「砂の器」だ。刑事が被害者の足取りを追うと、地方の映画館で二日にわたって同じ映画を見たと聞き込み、同じ映画を見るがめぼしいものは何も見つからない。刑事がその後にたどり着いた真実は、本書と同じというわけではないが同質のものだ。そしてうがって考えると松本清張は本書を読んでいて、「砂の器」で本書を上回る手際でドラマティックな山場を作り上げる事に成功したのではないか。

 もう1点だけ言っておきたいことがある。エラリーは序章にあたる「前口上」で各登場人物を色に例えてそれぞれの個性を代表させているが、「静止している間は何も意味しない」と難解な比喩を持ち出している。そして事件の解決に至るためには「車輪がまわりだす」必要があり、色彩は「ひとつのきらめく全体とな」り、「主要でない色彩が消えさった」がために真実にたどり着いたと言明する。

 その直後にエラリーはブラウン神父やシャーロック・ホームズを引き合いにだして、彼らの方法と自らの方法とを対照するかのようなセリフを吐く。

「(彼らならば)あの事件をどう扱っただろうか」(P.12)

 この問いかけはどういう意味だろうか。おそらくは先駆として尊敬する二人の手法である〈直観〉と〈演繹推理〉をともに用いねば真実が見えなかったという事実と、それらを統合してさらに究極まで押し進めた自らの方法に対する自負が感じられる。それはとりもなおさず作家クイーンの自負でもある。

(参考)
 「アメリカ銃の謎」(創元社推理文庫)ネタバレ解読

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posted by アスラン at 12:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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