[本書の目次]
はじめに 言葉のルールをめぐる愛憎 …7
1章 音楽を奏でるように:セミコロンの誕生 …16
2章 科学的規則を目指して:英文法戦争 …23
3章 ファッションアイテムからトラブルメーカーへ …43
4章 ゆるい条文と自制心:句読点ひとつでボストン中が大混乱 …52
5章 解釈に伴う偏見と慈悲 …64
6章 ルールを岩に刻み込む 現代の試み …82
7章 セミコロンの達人たち …86
8章 切なる訴え、単なる気取り:セミコロンを使うのはひけらかし?…147
おわりに ルール違反? …159
改めて目次を掲載したが、7章だけがとりわけ頁数が多く、非常にいびつな構成になっているのが見てとれる。7章は、セミコロンを使いこなしている専門家、すなわち作家たちが如何に個性的なセミコロンの使い道を編み出してきたかを展示している博物館のような章だ。ガイドブックには説明されていないセミコロンの使い方を、何人もの作家別に取り上げているのが頁数の多い理由の一つだが、本書の性質上、セミコロンの実例を原文で説明しなくてはならないので、原文と訳文を併記する箇所が頻繁に現れる事がさらに頁数を増やす原因となっている。セミコロンが現実にどのような使われ方をし、どの程度の潜在能力を隠し持っているかを確認する事が、本書を読む読者(僕の事だ)の最大の関心事なので、当然ながら、この章については詳しく解説したい。
ただ、とりあえず7章を棚上げして、先に6章、8章、終章(おわりに)についてさらっと説明しておく方がいいだろう。セミコロンがボストン市で一騒動を起こした後、1906年にシカゴ出版局は『マニュアル・オブ・スタイル』を出版した。このガイドブックが対象とする読者は英語に習熟していない児童ではなく、作家や編集者といったプロの書き手だった。その始めこそ、19世紀の文法家たちによる、科学としての規則のこだわりと、使い手が好んだ使い方とを併記するというやり方を継承していた。出版側の念頭にあった理念は「柔軟性」だ。しかし、1982年の13版にタイトルを『ザ・シカゴ・マニュアル・オブ・スタイル』に変えた頃から、規則の権威を主張するかのような「断定的な響きが強くなっていった」ようだ(初版のタイトル『マニュアル・オブ・スタイル』は、正確には『ア・マニュアル・オブ・スタイル』だったようだ。だったら最初から訳語を統一して欲しかった)。
2006年現在、『ザ・シカゴ・マニュアル・オブ・スタイル』は16版を重ねているが、句読点(パンクチュエーション)の使い方を示す章では書き手の「スタイル」は完全に姿を消してしまい、規則自体が「伝統的な慣習を論理的に応用」したものだと宣言しているらしい。権威主義もここに極まったと言いたいところだが、ここに至るまでにはそれなりの事情もあるようだ。マニュアルであるからには書き手それぞれの「主観的要素」(などと書かれているが、要は好みだろうな)をできる限り排して、規則を厳密化してほしいというのがユーザの率直な望みだったのだろう。一方で、スタイルブックの側面をそぎ落として規則を押しつけるという変更に異議を唱えるものも増えて行く事になる。
7章では、「悪質な曖昧さの温床じゃないか」とまで言われるようになったセミコロンを、達人たちはどのように使いこなしているかを俯瞰する事で、著者なりにセミコロンを擁護している。これは後で詳しく見ていこう。8章では、権威を持ち出したセミコロン(の規則)に対する嫌悪をあからさまに表明する人たちの意見に耳を傾けている。曰く「お高くとまった気取り屋(スノッブ)の記号だ」とか、セミコロンを「これ見よがし」に使っているとか、「使い方を心得ているのが嬉しくてたまらない奴らの御用達の記号で、そういう連中は平気で接続詞を出し惜しみ、自分の教養をアピールしてくる」とか。著者はセミコロンが知性の有無を判断する指標と考える事に反対だし、だからと言ってセミコロンなど無くしてしまえという主張にも反対する。
セミコロンをむやみやたらに嫌ったり、コンマを無条件に愛したりする必要はない。記号それ自体に忠誠を誓ったり恨みを抱いたりせず、個々の使われ方に心動かされればよいわけだ。これが著者の、しごくもっともな結論であり、本書で著者が言いたかった事のすべてだと考えていいだろう。この「個々の使われ方に心動かされる」最適な例として、かのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの文章を挙げている。セミコロンを使った、非常に心を揺さぶられる文章であり、訳者もあとがきで「(8章は)、これこそ本書の中心的なメッセージであり、ここまでの話題は布石だったとも言えます。」とまで書いている。
以下は、キング牧師が黒人差別に抗議した不服従運動によって逮捕された際に、獄中で書いた文章だ。文中の「待て」とは、聖職者たちがキング牧師の性急な行動をいさめた記事の言葉を引用している。
Perhaps it is easy for those who have never felt the stinging dars of segregation to say, "Wait." But when you have seen vicious mob lynch your mothers and fathers at will and drown your sisters and brothers at whim; when yoouhave seen hate filled pllicemen surse, kick and evven kill your black brothers and sisters; when you see the vast majority of your twenty million Negro brothers smothering in an airtight sage of poberty in the midst of an affluent society; …(中略)…―then you will understand why we find it difficult to wait.なんと1つの段落にまとまった文章の中でセミコロンは9個も使われている。このセミコロンは、この後見ていくチャンドラーやメルヴィルなどの使い方に似ている。ただし、結論に至るまでに書き手と同様に読者さえもが「丸々1ページほども待ち続けなくてはならず、セミコロンによる宙づり状態を余儀なくされ」る。これは書き手の味わってきた苦痛を読者に疑似体験させるのにセミコロンが一役かっているという事に他ならない。
おそらく人種隔離の矢が突き刺さる痛みを経験したことのない方は、「待て」と安易に言ってしまうのでしょう。しかし、残虐な暴徒の気の赴くままに自分の母親や父親が木に吊され、気まぐれに自分の姉妹や兄弟が水に沈められるのを見たら;憎悪に満ちた警官が黒人の兄弟姉妹を罵倒し、暴行し、果ては撲殺してしまうのを見たら;2000万人の黒人同胞の圧倒的大多数が、豊かな社会の中にあって貧困という密閉された牢に閉じ込められ息が詰まっているのを見たら;…(中略)…―そうであればきっとわかるでしょう、なぜ我々にとって待つことが難しいのかが。
さて、7章「セミコロンの達人たち」を詳しく見ていく事にしよう。その前に注意点を一つ挙げていく。ここではセミコロンを用いた原文(英語)と訳文が併記される事が多い。その際、変わった趣向として原文に相当する訳文の位置にセミコロン(全角記号)が挿入されている。これはまだ分かるとしても、それ以外の記号(例えばカンマ、コロン、そして&までも)も挿入される。その事に非常に戸惑わされる。実は、最初に紹介される達人がマーク・トウェインで、そこには少々行き過ぎな趣向が試みられているのだ。
[マーク・トウェイン]
彼は句読点の使い方に口をはさんでくる校正者を「このクソったれの出来損ない野郎!」と罵倒するくらい、自分の文章に自信を持っていた。本書にはトウェインの原文は一切引用されていないが、句読点などの記号の使い方を端的に示す一節の訳文がいきなり引用されている。
「労苦&思い煩い」の90パーセントが「奴らの無知&無意味な句読点を抹消&自分のオリジナルを復元する作業にある」と主張している。前もって説明した上で該当箇所を抜き出してみると、それほど悪くない趣向に思えるかもしれないが、いきなり何の説明もなく&が使われるのには違和感があるし、「校正・者」などは何かの誤植かと思ってしまった。欄外に訳注があり、そこを読めば事情は見えてくるのだが、こんな事をするくらいなら原文を引用してもらった方が分かりやすい。特に気になったのは「校正・者」の方で、これはトウェインがproofreader(校正者)に余分なハイフンを挿入してproof-readerと書く習慣があった事を示すための訳者の配慮らしい。それならばハイフンを使えばよかったのではないだろうか。英語のハイフンと日本語の中点とに対応関係があるとは思えない。中点は通常は名詞(句)を並置するために使われるからだ(ただし、全角の中点を使うのはさすがに気が引けたのか、半角の中点を使って「ハイフン感」を出していると言えなくもない)。
自分の句読法について「クソッたれの校正・者が200年かかってようやく学べる以上の知識をわずか2分で身につけている」のだと出版社相手に念押しした。
「まあ今日は聖なる安息日だ」と締めくくる。「&こうした俗世の話はやめにすべきだろう」
まあ、マーク・トウェインは話の枕に過ぎず、言葉のプロほどガイドブックに記載された規則に反発するものだと言う事を指摘したいがために取り上げただけのようだ。それよりも手強い達人が次に控えている。それはレイモンド・チャンドラーだ。
[レイモンド・チャンドラー]
ミステリファンを名乗っているくせにチャンドラーはほぼ読んだ記憶がない。やはり、本格ミステリーにトドメを刺した張本人という事で、若い頃にエラリー・クイーンにハマった身としては避けてきてしまったからだ。著者によると、チャンドラーはフィリップ・マーロウが活躍する物語にセミコロンをほとんど使わない。カンマさえも使いたがらない。その理由を、著者は主人公マーロウのキャラクターによるものだと推測している。
セミコロンは立ち止まって考え込む感じや自信のなさを漂わせるが、マーロウはそういう様子をめったに見せない。つまりセミコロンやカンマによってマーロウの思考や行動を休止させる事を、チャンドラーが望んでいないという事になる。決してセミコロンを毛嫌いしていない証拠に、エッセイなど小説以外の文章には非常に考え抜かれたセミコロンが現れる。
If you can go past those awful idiot faces on the bleachers outside the theater without a sense of the collapse of the human intelligence; if you can stand the hailstorm of flash bulbs popping at the poor patient actors who, like kings and queens, have never the right to look bored; if you can …段落全体が長い1文になっていて、そこにif you can…で始まる節がなんと7個ものセミコロンでつながっている。パラレル構造が強調されていると同時に散文的なリズムを伴って、畳みかけるようにチャンドラー自身の苛立ちが表現されていると、著者ワトソンは分析している。このセミコロンの使い方はガイドブックの規則に則っているが、セミコロンをどのように使えば効果的かを考え抜いた上で使っているので、チャンドラー特有のスタイルになっているというわけだ。
(中略)
…; if you can do all these things and still feel next morning that the picture business is worth the attention of one single intelligent, artistic mind, then in the picture business you certainly belong, because this sort of vulgarity is part of its inevitable price.
人間的な知性が崩壊する感覚を味わうことなく、劇場外の観覧席に並ぶひどいマヌケ面の前を通ることができるなら;忍耐強い哀れな俳優たちがパシャパシャとたかれるフラッシュの嵐を浴び、それでも国王や女王のように、疲れた様子を見せることが許されないという状況に耐えられるなら;…
(中略)
…;以上すべてをやってのけた上で、なおかつその翌朝、「知的で芸術的な心の持ち主は誰ひとりとして映画産業のことなど気にかけない」と感じたりせずにいられるなら、それならば映画産業のれっきとした一員ということになる。この種の俗悪さというのはその避けがたい代償の一部なのだから。
その他にもチャンドラーは「非合法」な(ガイドブックでは認めていないという意味)セミコロンを取り入れていると著者は言っている。
They insist upon judging it by the picture they saw last week or yesterday; which is even more absurd (in view of the sheer quantity of production) than to judge literature by last week's best-sellers, or the dramatic art by even the best of the current Broadway hits.著者は、このセミコロンを「緩急用法」と名づけている。競馬にたとえると、前半は騎手が「ガッチリ手綱を握る」。後半になると「一気に文を解き放って疾走させ、…湧き上がるエナジーと情熱を一段と鋭く感じさせる」と説明している。正直言って僕には「緩急」の付け具合がよく理解できなかったが、「非合法」と言われる理由はわかる。後半はwhich isで始まり、完全な節になっていないからだ。これは関係節の非制限用法であり、通常ならばカンマになるところを代わりにセミコロンを使っている。もしかするとカンマよりも区切りの度合いが強いセミコロンを使う事で、非制限用法の関係節に入ったとたんにギアチェンジしたかのようにネイティブには感じられるのかもしれない。
この後にもう一例だけ、マーロウが活躍するミステリからセミコロンの使用例を取り上げている。前述したようにチャンドラーは小説には滅多にセミコロンを使わない。にも関わらず、ここぞとばかりに使われるセミコロンを、著者は「無防備用法」のセミコロンと名づけている。作品中、立ち止まることを知らないマーロウは、ある場面で「喪失感ゆえに立ち止まらされ」る。その時の無防備な印象ゆえの名称だ。こちらはあえて引用しないが「非合法」と言っているわりには、コロンの代わりに後半にリストがくる形式になっていて、僕には「合法」に見えてしまう。「緩急」以上に理解しにくいスタイルだ。
[アーヴィン・ウェルシュとレベッカ・ソルニット]
この二人の名前は僕には聞き馴染みがないが、ウェルシュが映画「トレインスポッティング」の原作者だと聞いて親近感がわいた。ソルニットはエッセイストだそうだ。この二人が使いこなすセミコロンは、いわば「クイック・セミコロン」と呼べるもので、一般的な休止の働きではなく逆に素早さを出すツールとしてのセミコロンだ。「トレインスポッティング」ではヘロイン依存症の若者が描かれるが、そこでは本来ピリオドで「急ブレーキで停止しても良かった」ところを、「そうとはせずにセミコロンを使うことで、ウェルシュは力強さと彼の苛烈な文章の特徴と言えるギラつくような写実性を生み出している」と書かれている。セミコロンの写実性効果はさておき、理屈は分かりやすい。
「カンマ<セミコロン<ピリオド」という休止の強弱を踏まえて、カンマの代わりに使えば「トトトト」が「トントントントン」となり、ピリオドの代わりに使えば「トーントーントーントーン」が「トントントントン」になるように、心理的に感じる文章のリズムが変わってくるのだろう。
ソルニットのコロンの使い方を示す文章はこうだ。
That bygone time had rhythm, and it had room for you to do one thing at a time; it had different parts; mornings included this, and evenings that, and a great many of us had these schedules in common.「まるで石が水面を跳ねたように、3回ほんの一瞬軽く触れて跳ねていく感じ。」と著者は形容している。どうやら、この文章の2つのセミコロンのいずれかはコロンを使ってもよいらしい。セミコロンに統一した事で、あたかも水切りをした石のように軽やかに心地よく文が飛び跳ねていくという事のようだ。これも非ネイティブには分かりにくい。「そうだ」と言われれば「そうなのかな?」と思うくらいだ。ただし、2つのセミコロンに区切られた2番目の文が非常に短く、その後が「それぞれ違っていた」時間をリストで示す形式になっていて、2番目の文、リスト1、リスト2、…というように文や節が飛び跳ねていくように構成されている事が、効果を生み出しているのかもしれない。
あの去りし時代にはサイクルがあり、ひとときにひとつずつ進めていく余裕があった;書く時間がそれぞれ違っていた;朝はこれ、晩はあれ、大多数の人がそうしたスケジュールを共有していた。
ソルニットは、これ以外にも「比較的重たくてアカデミックな」題材に対して自らの主張を述べた後に、セミコロンを使って「ソルニットの中心的主張を支持するデータを矢継ぎ早に繰り出している」。
ソルニットの場合、セミコロンは素早い場面転換であり、冗長さを避けて、自身が実際に経験した苦心惨憺を読者には感じさせない機能を果たしている。ソルニットの得意とする「素早い場面転換」のセミコロンについては、本書で実際に確認してもらいたい。僕としては「素早い」かどうかは別にして、セミコロンを使って複数のパラレル関係にある節を効果的に並べるというテクニックに長けた達人がいるのだなと感じるだけだ。
[ハーマン・メルヴィル]
メルヴィルとくれば『白鯨』だと決まっている。だってそれ以外にどんな作品があるか知らないからだ。しかも、そんなにも有名な『白鯨』すら僕は読んだ事がないのだ。話にならないと言われようが、ここは開き直るしかない。それにしてもずいぶん変わった本だという事が、本書を読んでよく分かった。
『白鯨』は一人称で語られる。一部の(もしかすると大半の)一人称小説は語り手の視点から、これは本だという認識のない状態で語られる。『白鯨』は違う。捕鯨船ピークオッド号に乗り、凶暴で名を馳せる白いクジラ、モービィ・ディックを追った日々を乗組員のイシュメイルが記したもの、という体裁を取るのである。イシュメイルだなんて、聖書に出てくるアブラハムの息子の一人と同じ名前を冠した人物が語り部であるからには、やはりずいぶんとポストモダンな作品なんだと思える。そして、こんな作品を評してフィリップ・ホーア(誰だ?)は、ニューヨーカー誌にこう寄稿した。
とはいえ『白鯨』は小説ではない。そもそも書籍と呼べるかも怪しい。むしろこれは伝達行為であり、伝えられるのは巨大で計り知れないクジラの姿をめぐってぶらつく考えやイメージ、人類史と自然史の数奇な巡り合わせについての長大な思索である。これを受けて著者は、セミコロンが『白鯨』の文章に重要な役目を果たしている事を次のように説明する。
このクジラに関して「ぶらつく考えやイメージ」は全部で4000を超えるセミコロンで宙づりにされている。話の筋はどこまでも広がっていき、単に一頭のクジラだけでなく、それを追う人間にとってそのクジラが持つことになる、ありとあらゆる象徴的な意味合いまでも捉える射程を持つが、セミコロンという頑丈な釘がそれをつなぎ止めているのである。なんと『白鯨』は21万語という長い文章に、割合にして52語に1回というペースでセミコロンが使われているらしい。この偏執的な使い方に著者はすっかり魅せられているように感じる。訳者は「本書で著者が言いたかった事のすべて」は8章にあると書いているが、倫理的な体裁は別にあるとしても、著者が本当に楽しんで書いているのは7章のメルヴィルの文章についてだという事は、読めば誰でも分かるだろう。
When instantly, the entire ship careens over on her side; every bolt in her starts like the nail-heads of an old house in frosty weather; she trembles, quivers, and nods her frightened mast-heads to the sky. More and more she leans over to the whale, while every gasping heave of the windlass is answered by a helping heave from the billows; till at last, a swift, startling snap is heard; with a great swash the ship rolls upward and backward from the whale, and the triumphant tackle rises into sight dragging after it the disengaged semicircular end of the first strip of blubber.こんな一節を取り上げられたら、僕でも『白鯨』全編を読みたくなってしまう。D・H・ロレンスは1920年代当時に『白鯨』の持つテーマに圧倒されたと賛辞を送ったようだが、それに対して著者はセミコロンを使った「語り」が新たな地平を切り開いたと考えている。それをこの書評の締めくくりとしよう。
するとたちまち、船全体が横に傾ぐ;寒風吹きすさぶ荒ら(あばら)屋の釘さながらに船のボルトが一つ残らず外れそうになる;船体は震えおののき、怯えるマストは点に対して頭を垂れる。どんどんと鯨の方に傾いていくなか、巻き上げ機は激しくあえぎ、一巻きするたび逆巻く大波が応じてくる;するとついに、何かが裂けるような鋭く凄まじい音が;巨大な水音とともに船体が跳ね上がり、鯨の逆方向に振れ、滑車が悠々と上がってくるのが目に入る。そこにぶら下がっているのは鯨から半円形に剥ぎ取った脂肪の最表層だった。(67章「脂身切り」)
(ロレンスを言葉を受けて)テーマだけでなく語りの構造と野心においても『白鯨』は時代を先取りし、未知の海域に繰り出していた。船乗りが陸の見えなくなるところまで出ていくために様々な機器を要したように、『白鯨』にも当時のジャンルの制約を超えるため様々な表記技術が必要だった。そうした驚きの技術のひとつが――たおやかでいて頼もしい羅針盤の針のような――セミコロンだったのだ。
(達人たちのセミコロンの使い方まとめ)
(1)「A; B」のように2つの節をセミコロンで区切る事で、前半と後半とでギアチェンジする。
(2)「A; B; C; …」のように複数の節をセミコロンでつないでいく事で、カンマの代わりならばリズムが遅くなり、ピリオドの代わりならばリズムが早まる効果が生まれる。
(3)パターン(2)の応用として「考えや感情を畳みかける」「結論を先へ先へ延ばす事で焦らす」などの心理的効果を生み出す。
(4)「A; a; b; c; …」のようにひとつの主張に対して、矢継ぎ早にいくつもの根拠を示していく。
(5)「A; B; C; …」が「A→B→C→…」のように、著者が指し示す目的地へと誘う羅針盤の針の役目をする。
(注)上記以外にも本書では説明されているが、それは本書で直に確認してほしい。
(蛇足)
そう言えば(その1)で「はじめに」の訳文に不満を並べ立てて、(その2)では後半の章立ての訳文の出来が心配だったが、問題は回避されていたと書いた。どういうことかと言えば、7章や8章で、達人たちがセミコロンを駆使した英文には訳文が併記されているが、「既訳がある場合は大いに参考にさせていただいた」とあるからだ。正直、本文よりも数段格調が高い訳文になっていて、安心して読めたというわけだ。

セミコロン - セシリア・ワトソン, 萩澤大輝, 倉林秀男



