いや、江國香織の本を読んだ後はいつもそうなのかもしれない。彼女の作品に惹かれるのは難しい、いやムリと言うものだ。一方で、そう言い切りたくない自分がいるのだ。何かあるはずだ、と。
そもそもは「きらきらひかる」だ。ミーハーで深津絵里が好きだった僕は当時見たくて結局数回しか見られなかった法医学をテーマにしたドラマの原作を探していた。ヒューマンな群像劇で、かつ深津の成長物語でもあるドラマから推して測った「原作!」を読んで僕としてはあまりのギャップに途方に暮れたのだ。(もちろんドラマの原作はマンガと知り、その後漫画喫茶で楽しく読み終えた事は言い添えておこう。)
その「きらきらひかる」は成長劇でも人間ドラマでもなく、一言「少女マンガ」だった。夫がホモセクシャルで妻がアルコール依存症というセックスレス夫婦の話。男二人と女一人の話。
と言っても生々しい話ではない。ヒロインの視点からすべてが語られるので、どちらかというと彼女の現実感のなさと、夫とその友人ともに存在感が希薄なのがもどかしい作品だった。
その後「落下する夕方」を原作ではなく映画の方で見た。男性一人に女性二人という三角関係がやはりどこか絵空事にように感じられたが、彼らの生き方の浮遊感の原因が、語られない友人の死に起因するという部分にリアリティが感じられた。
映画は原田知世と菅野美穂がそれぞれ持ち味をだしていて楽しめた。勢いをかって原作も読んでみようと映画館でパンフレットと一緒に購入した単行本は、結局積ん読となり実家においたままだ。
今度の作品は大学生の男二人とそれぞれ年上の女性との二組のカップル。しかしもっぱらモノローグが語られるのは二人の大学生、透と耕二の方だ。
冒頭、代わる代わる独白する二人のモノローグは突如切り替わっていたりして、混乱した。二人は「互いに似てないがなんとなくウマがあう」とお互いに語らせる程には性格に違いがあるようには思えない。
辛抱強く相手を待てるし、たとえ辛くても待つ相手がいないよりましと内省する透。
女なんていつでも捨てられるし年上もタメもそつなく付き合ってみせるとうそぶく耕二。
どちらも実は相手の女性たちに振り回されているという事に気付かない。いや、気づきたくないのだ。
二人を隔てているのは少しばかりの育ちの違いからくるモラルの度合いの違いに過ぎず、本当は二人とも運命のように出会ってしまった年上の女性の好みや性癖や心の置きどころを丸がかえで受け入れてしまっている似たもの同士と言える。そういう意味では、つくづく女性にとって都合のいい男たちとしか思えない。
前に田辺聖子の作品の女性達と比較して、「東京タワー」に出てくる女性たちの虫のよさをあげつらったが、本当は都合のいい男たちの存在が彼女たちを図に乗らせてしまっている。ただそれは明らかに著者のねらいなのだし、その意味ではやはり虫がいい話なのだ。
著者は男を女性にとって都合のいい存在に書き替えて(もしくは都合のいい現実の男をとりあげて)、女性向けの一種のポルノを書こうとしている。誤解を恐れずに言えば、これは女性読者のマスターベーションを誘発するネタ本である。
それが僕をいごこち悪くさせる。つまりうわべはどんなに着飾った文章であっても僕にはその下心が見えてしまう。男性向けのアダルトビデオが女性には用無しであり醜悪であるとすれば、ここにある作品も僕にとっては用無しであり、やはりそれは一種の醜悪そのものなのだろう。
(2005/04/10読了)




20代序盤に「ホリーガーデン」を読んだのが私が江國香織ファンになるきっかけです。この小説にでてくる女性2人の関係性が、その頃の友人と私の関係と似ていると感じました。
「ホリーガーデン」は私の中で江國香織のベストです。ちょうどその年齢、そのタイミングで読んだということで、今でも心に残っているのでしょう。読書がとても個人的なものだということを考えるきっかけになった作品でもあるかもしれません。
内にこもりがちで、なかなか連絡がとれないその友人と、もう長いこと会えないままなのですが、「ホリーガーデン」の背表紙を見ると彼女のことが気になります。
江國さんのそれはどうも人を選ぶように思えます。端的に言ってまず女性である事が不可欠であるように思われます。ここでいう女性は、生物学的な性はもちろんの事ですがジェンダーとしても、日常すごす生活感にしても、あらゆるレベルでそれが要求されているようで、僕はかえって気が滅いる思いがしました。
滅いる原因は江國さんの描く「孤独」が間接的にではありますが男性を拒絶する孤独だと感じられる点にあります。あまりにナイーブな感じ方かもしれませんが「東京タワー」のような作品を読むとどうしても偏りを感じます。
オススメの「ホリーガーデン」は先日図書館で手に取ったんですが戻しました。しのさんのオススメはまず恩田陸からですからね。