2007年07月01日

アンデルセン童話集(一)

 まず第一に、僕はアンデルセンを擁護したいと思う。何から?誰から?そう、とりあえず僕自身の偏見からだ。人づてに〈差別意識に満ちた作家〉だという偏見に長く囚われていた。「醜いアヒルの子」には、黒い毛をまとった〈アヒルの子〉は醜く、白い優雅な羽根がはえそろった白鳥は美しいという人種差別を指向する暗示が存在する、という単純な視点を受け入れてしまった僕は、子供の頃には愛読したはずの彼の作品をずいぶんと遠ざけてきた。

 このような一方的な主張を崩すには、もう一方の主張を聴く耳がぜひとも必要だが、機会は意外に訪れなかった。一度抱いた偏見はなかなか崩れないものだ。ところが最近になって、松岡正剛「千夜千冊」の〈第五十八夜〉にアンデルセンの「絵のない絵本」が取り上げられているのを知った。この文章で僕の中にあった〈ある呪縛〉が解かれた。さして松岡正剛の書評を読んでいるわけでもないし、彼の文章のファンというわけでもない。ただ辛口批評の彼が「岩波文庫版の7冊はすべて読むことを勧めたい。」と手放しで絶賛するアンデルセンとは、果たして僕が長く貶めてきたあのアンデルセンと同一人物なのだろうか。俄然、興味が湧いてきた。

 ただし、それ以前から僕は自分の考えを修正する機会を狙っていた。僕に呪縛がかけたのは、かの本多勝一であることは言うまでもない。彼はアンデルセンの差別意識を作品から読み取って徹底的に糾弾していたはずだ。しかしその文章がどれなのか僕にはいまだ突き止められていない。ぜひそれをこの機会に読んで、そして出来るならば批判的に摂取したいと思っている。

 キッカケは、本多勝一の名著「日本語の作文技術」の中にある小文だ。作文技術とは直接関係ないが、日本語を文化として捉えた日本語論の中で、小林英雄の言葉を信用できないと批判していた。人間として信用できないという事と、その人が生み出す作品の価値とを分離して評価できないのが本多批評の大きな弱点である事に、今更ながら気づかされた。ならば、かつて鵜呑みにした〈差別意識にまみれたアンデルセン〉というイメージは妥当なものなのか。僕は直接作品にあたる必要を感じた。

 しかし、全十巻という岩波文庫の童話集の第一巻には「醜いアヒルの子」はない。目次を眺めて、代わりにたいへんなものを見つけてしまった。「エンドウ豆の上に寝たお姫様」という作品である。僕が作者不詳のままに好きになったのは、ほんの偶然だった。教材を枕元に置き、早起きしてNHKのラジオ英会話を聞いていたのは、中学一年のほんの最初の頃だ。おそらく長続きしなかったと記憶しているからだ。

 スキットの一つで、魅力的なこの童話が語られていた。どこからともなく王子の住まいを訪れて一夜の宿を乞うお姫様に、王妃はフカフカの布団を何枚も重ねた一番下にエンドウ豆一粒をいれておく。翌日、お姫様に寝心地を問うと、なにか固いものであざだらけになって寝られなかったと愚痴をこぼすのをきいて、本当のお姫様だとわかり王子と結婚してもらうというお話だ。

 スキットとして簡単にまとめられていたにも関わらず僕はこの話が好きになり、いまだに忘れていない。それがアンデルセンの手になるものだと知った時の驚きは大きい。そして直感した。アンデルセンの童話は凄いかもしれないと。そして直感は本書を読み出してすぐに確かめられた。凄いのだ。

 「火打箱」というなんのへんてつもないタイトルの童話は、これが童話だとするならば大変妙なストーリーだ。まずいきなり兵隊さんが出てくる。彼は戦争を終え国に帰るところだ。途中で、それは醜いおばあさんに出会い、お金が欲しいかいと聞かれる。兵隊が欲しいと答えると、がらんどうになった大きな木から奥へ入っていくと、扉が3つあり、その中にお金があるから、好きなだけ取ってこいと言う。見返りは火打箱を取ってくる事だけだ。

 三つの扉の奥には、まず銅貨が詰まった箱があり、つぎに銀貨の箱があり、最後に金貨の箱がある。それぞれに番犬がいるのだが、その描写がとてつもなく恐ろしい。銅貨の部屋には目玉が茶碗ぐらいの犬がいて、銀貨の部屋には目玉が水車ぐらいの犬がいる。そして金貨の部屋に至っては、目玉が円塔ぐらいの犬がいる。荒唐無稽と感じるより先に、異形のものが目の前に現出する恐ろしさにぞっとさせられる。

 こんな恐ろしい目にあう兵隊は、取ってきた火打箱を醜いおばあさん(実は魔法使い)に渡さずに口論となり、首をちょんぎってしまう。普通の童話ならばこの後どんな恐ろしい報いが兵隊に待ち受けていようかと、固唾を呑んで見守るところだ。ところが、確かにこの後の兵隊には身の危険がせまる事になるのだが、最後にはとんでもないハッピーエンドが待ち受けている。しかも濡れ手に粟のように手に入れたきれいなお姫様との婚礼のかたわらでは、さきほどの異形の犬3匹が「大きな目玉をぐりぐりさせていた」という途轍もない文章が締めくくる。

 魔法使いとはいえ、兵隊があっけらかんと醜いおばあさんの首をちょんぎってしまうのは、あえて〈醜い〉という言葉に引っかかれば醜い者への容赦ない冷酷さとも取れる。しかし作者の意識は登場人物の内面にはない。ましてや登場人物に自らの考えを仮託しようとしているわけでもない。作者アンデルセンが描くのはいつでも現実そのままだ。兵隊が首を切って平気でいる場面の根底には、戦争でたくさんの敵を殺してきたという兵隊の現実がある。それはとりもなおさず、アンデルセンが生きた時代のデンマークの現実そのものだったはずだ。

 著者は、童話の舞台やキャラクターに現実を投射しているが、決して寓話として描いてはいない。寓話は古びる。寓話がもたらす説話的な善悪は、後年の人々に倫理道徳や幸不幸を占う兆しとしての意味をもたらす。時には呪いのような効果をもつかもしれないし、また時には自らに注意を促す行動規範になることもあろう。しかし諺がどちらにも転べてどちらの選択も良しとできる規範を用意しているように、寓話は人々にとって都合のよい解釈を生み出すだけだ。グリムやイソップの童話には、人間の本質を直観させる一部の寓意を除けば、ほとんどが人間の内面を平板で均質なものと見なしてしまう。

 一方、アンデルセンの童話は、もしこれが童話であるとするならば、これらの寓話とは全く異なっている。あまりに現実を描いていると言わずにはいられない。親指姫人魚姫などは、美しいヒロインでありながら人とは違った〈醜さ〉を抱えるがゆえに不幸な前途が待ち受けている。それが一方では限りなく幸福な結末で終わり、一方が悲劇に終わるのは、彼女たちが自ら招いた種ではない。アンデルセンが現実を起爆剤にして紡ぎ出す圧倒的な物語の力なのだ。その想像力の前に読者はただただ唖然とするばかりだ。

 その上で本書には「醜いアヒルの子」も「マッチ売りの少女」も収録されず、おあずけをくらわされたと油断しているとたちまち痛い目にあう。「皇帝の新しい着物」という聞き慣れぬ作品が「裸の王様」だと分かって、しかもこれもまた〈愚かな〉人々が詐欺師にだまされる現実を下敷きに奇妙な物語が想像されている事に思いいたる。

 王は自らの愚かさを認めぬ故に、目に見えないにも関わらず〈新しい着物〉を来てパレードに臨む。だとするならば、王は思いいたらなかったのだろうか?愚かな人々には王の〈新しい着物〉は見えない。愚かな人々が多ければ、結局恥をかくのは王様であるという事を…。まったくもってたいした物語だ。

 このような話が10巻に詰まっていると思うと、今から楽しみだ。

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posted by アスラン at 05:32| Comment(4) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
アンデルセン童話集は全巻持っています。グリム童話集も・・・。言わずと知れた岩波文庫です(w 高校時代にお小遣いをはたいて、古書店で購入したものです。それまで、アンデルセンと言えば、子供向けのものと思っていたのですが、読んでいくうちに、アンデルセン童話は大人のものではないだろうかと思ったのを思い出しました。「砂丘物語」が好きでした。
Posted by rago at 2007年07月08日 19:09
アンデルセンもグリムも全巻ですか…。
さすがですね。上記の3点リーダーは絶句の意味です(笑)。

子供向けじゃないですね。原題は童話ではなくて「お話と物語」だったかな?そんなそっけないタイトルだったそうです。きっとアンデルセンの中では大人向け・子供向けという分け方がなかったのかもしれませんね。

グリムは民話・伝承の残酷さで、これは原初的な人間の本性の怖さですが、アンデルセンの方は現実に生きている人間・社会の怖さがそのままでていますね。

「砂丘物語」は何巻だろう?いま読んでる(嘘、読もうとして読んでない)2巻にはないですね。
Posted by アスラン at 2007年07月10日 12:48
本多勝一「アンデルセンの不安と恐怖」、『殺す側の論理』(朝日文庫、文庫初版1984年)に収録されています。ちなみに初出は『看護』という雑誌(1975年)だったとか。
Posted by 杉野実 at 2007年09月04日 10:57
杉野実さん、コメントありがとう。

やはりそれしかないんでしょうかね。
実は「殺す側の論理」は「殺される側の論理」ともども既読です。大学の頃ですからかなり前になりますが。

そしてその時からアンデルセン作品への不当な思いこみが植え付けられたという次第ですから、その根源は「アンデルセンの不安と恐怖」という小文にあると考えています。初出についても「本多勝一の研究」という本に書いてありました。

しかしあそこに書かれた程度であれば、学生当時の僕ならば鵜呑みにするかもしれませんが、すれてしまった今の僕を納得させるには足りません。もう少しアンデルセン作品を詳細に分析した上で批判した文章がいくつかあるのかと期待していたのですが、どうやら思い違いのようですね。

情報提供ありがとうございます。
Posted by アスラン at 2007年09月05日 02:07
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