その中でも「整数」の授業の教材だったモノグラムに載っていた「フェルマーの大定理」のエピソードが、ダントツで僕の数学に対するロマンチックな思いをかきたててくれた。フェルマーの「余白が少ないので証明は省略する」というセリフは、カッコよすぎるし、そんなのズルイぞ〜と思わずにはいられなかった。
高校時代のモノグラムには、このエピソードが欄外のコラムに掲載されていたが、最近の版では外されてしまっている。「整数」論自体が以前のようには魅力あるジャンルではなくなってしまったのかもしれない。しかし夢を与えるはずのエピソードを効率の名の元に紙面から除外すれば、おのずとジャンルそのものの魅力は失われていくことになりはしないだろうか。
同じような意味で僕のロマンをかきたてながらも、あまり十分な説明を受けた記憶がなく、それでいて「フェルマーの大定理」以上に〈大いなる謎〉であったのが、古代ギリシャで提起されたとされる「幾何学の三大作図問題」だ。たぶん幾何学を初歩から学ぶ際に「平行線は交わらない」などの公理と一緒に教わったはずだ。
三大作図問題とは、以下の3つだ。
(1)与えられた正立方体のちょうど2倍の体積を有する正立方体を作れ
(2)与えられた円と同じ面積を有する正方形を作れ
(3)任意に与えられた角を三等分せよ
これらは、ピタゴラスの定理などと同様に見た目をイメージしやすいし、一見してパズルのような面白さが感じられる。おそらく古代ギリシャの数学者たちも、設問のシンプルさと美しさに惹かれたのだろう。
幾何学、いや数学に無知な僕のような人間は、解法も設問同様に解りやすいものではないかと想像してしまう。ところが数学の教師は「これらはすべて作図できない事が証明されている」と僕の安易な夢想をたちまち打ち砕く。この当時は証明されていなかった「フェルマーの大定理」とは違って、不可能であることが証明されているという意味が非常に判りにくかった。
そもそも「できない(不可能である)」ことを証明するという事がどういう事なのか、そのころの僕には納得がいかなかった。しかも、作図という物理的な動作にも関わらず、なぜ「できない」ことが証明できるのかもピンとこなかった。でも、たいていはそれ以上の事を教師は教えてはくれないのだ。
始末に負えないのは、その〈不可能の魔〉にずっとずっと魅入られる人間もいるということだ。「あることを不可能と宣言するのは、その問題に手をつける以前にあらかじめ自分の限界を示すことではないのか」と言いつのるアマチュア数学者がいまだ後を絶たないらしい。この手の人間は数学だけに限らず様々な分野に潜んでいる。そういう人物や著作が、以前読んだ「トンデモ本の世界」(と学会編)で数多く紹介されていた。
もちろん僕には、〈角の三等分屋〉と呼ばれ、今なお角の三等分線を作図できると信じるアマチュア数学者たちのような過剰な思いこみも、過剰な情熱もない。ただ、教師から〈さわり〉を教えられた後に突き放され、教科書の限られた紙面からは一向に問題の本質は見えてこないまま、一度煽られた好奇心は宙ぶらりんの状態になってしまう。
それでいて追い討ちをかけるように、決闘によって若くして亡くなった天才数学者ガロアが見いだした「五次以上の代数方程式の一般的解法がないこと」の証明と同質の問題を、この作図問題は孕んでいるという非常に魅力的なウンチクが耳に入ってくる。
そうこうするうちに、この歳になるまで一度も〈角の三等分の作図〉の不可能証明を知る機会をもたなかった。これまでに機会がなかったのはひとえに自分の怠慢だろうが、もうひとつ言えばガロアの証明に到達するような難しい数式に付き合うつもりはまったくないという事でもある。要は僕自身の好奇心を満たす程度にやさしくかみくだいて啓蒙してくれる一冊の本があればいいのだ。
そういう意味で本書は僕が長年待ちのぞんでいた本だった。このような本が「科学の泉」というシリーズの一冊として昭和18年に既に刊行されていたなんてまったく知らなかった。しかも著者は、あの矢野健太郎だ。これ以上の適任はないではないか。
一読して期待どおりの内容だった。本当に分かりやすくて僕の長年の興味をすべて満足させるものだった。強いて言うと、再刊にあたって著者を引き継いで、まさにガロアの理論に至るような厳密な証明を補足した第2章の解説(一松信・著)は、僕にとっては蛇足でしかない。この本は矢野健太郎の第1章と、巻末の『「角の三等分屋」と付き合ってみて―しんどかった』(亀井哲治郎)を読めば十分だ。もちろん僕とは違って数学そのものに興味も知識もある人は読んでみるといい。特に「不可能」という意味を詳しく論じている部分はたいへんに参考になった。
では最後に著者の第1章を要約しておこう。もちろん要約する必要がないくらい本文は分かりやすいので本書を読んでもらえばいいのだから、あえてヤボな事をするわけだ。それに簡潔にまとまっている証明をさらにかいつまむわけだから、分かりやすい要約になるわけでもないのだが、まあ予告編ぐらいに思ってもらえばいい。
(3)任意に与えられた角を三等分せよ
この作図が不可能だというのは設問としても解答としても正しくない。なぜなら角の三等分は作図できるからだ。例えば本書でも紹介されるように、様々に考案された機械(定規・三角定規・分度器などを組み合わせたもの)を使えば作図できる。
古代ギリシャの人々がエレガントな設問として案出したのは、
定規と両脚器(コンパス)を有限回用いて作図せよ。
という制限である。そして二千年以上を隔てた今日に分かったのは、上記の制限下では「任意の角を三等分できない」という事だった。「三等分できない」は「任意の角を」を受けることに注意すべきだ。特定の角(例えば90度)を定規とコンパスで三等分する事は可能だからだ。
まず上記の設問を代数方程式で記述する。なぜ作図の問題が代数の問題に帰着できるかは、それこそ「紙面、いやブログの都合で省略する」。ただし幾何の標準的な問題を解くように補助線などを加える事で、三等分された角をはさんだ三角形の底辺をxとして、元の角をはさんだ三角形の底辺をaとした場合に、以下の三次方程式が得られる。
x^3−3x−a=0
これを解くと、三等分された角を含む三角形の底辺が判ることになり、高さもxから導出される事は判っているので、結局は角の三等分が作図できる事になる。よって前述の作図不可能問題は、
定規とコンパスを有限界用いただけでは、任意のaに対する上記三次方程式を解くことができない
と同じことになる。
次に「定規とコンパスを有限界用いる」という作図で代数的な計算がどの程度までできるのかを著者は明快に説明していく。加法と減法ができるのはわかるとして、乗法や除法もできるというのはちょっと意外だった。ましてや開平(いわゆる二乗根の計算)もできるというのは目からウロコと言っていい。そこで次なる定理が導かれる。
[定理]
代数式は、それがせいぜい加減乗除および開平を含むとき、およびそのときに限り作図可能である。
はたと気づくのは、高校で習う二次方程式の一般解というやつだ。あれは、
[x^2+pX+q=0の解]
X=(−p+√(p^2−4q))/2またはX=(−p−√(p^2−4q))/2
で表されるから、これらで表現される図はすべて定規とコンパスで作図可能なわけだ。
そこで先ほどの三次方程式になるわけだが、僕らの知識には三次方程式の一般解なんてない。たとえ一般解というものがあったとしても、開平ではなく開立(三乗根の計算)を含むのであれば、前述の定理から作図できないことになる。
ところが、もし先ほどの三次方程式が有理数を解に持つとするならば、剰余の定理(いわゆる高校の時に覚えた因数分解)から、有理数を解にもつ一次方程式と二次方程式とに分離できるから、すべての解は作図可能である。
ここからが非常に数学らしいトリッキーな部分なのだが、上記の逆を考えて、
作図可能な解を持てば三次方程式は少なくとも一つ有理数の解を持つ
という定理が成り立つ。そこから、
前述の三次方程式が有理数の解を持たなければ、定規とコンパスを有限回用いて作図可能な解を持たない。
と結論付けられる。
よって前述の三次方程式で、aを勝手に選んだときに有理数の解を持たないことが証明できればいいことになる。著者はa=0を選ぶことで「90度という角が三等分可能である事」を分かりやすく証明する。そして最後にa=1を選ぶことで「60度という角が三等分不可能である事」を証明する。
すなわち「x^3−3x−1=0が有理数の解を持たない事」を、著者は背理法を使って証明する。ここから、
[定理]
定規と両脚器とを有限回用いたのでは60度を正確に三等分することはできない。
という最後の定理が導かれる。角の三等分が一般的に作図不可能なことの証明はこれで十分となる。




「アキレスと亀のパラドックス」は無限回の操作が有限の時間でできるところにある。
〈角の三等分屋〉(屋であって家ではない)というのは多少なりとも揶揄を込めた表現だと理解しています。〈三分家〉と表現は耳慣れませんが、揶揄を含まない自称だと思っていいのでしょうか?
いずれにしても僕にはあなたの主張をとやかく言うに立場にはいません。もしあなたの主張が正しいならば、そう遠くない将来に〈角の三等分〉の不可能証明が間違っていたと数学界が認めるようになるはずですからそれでいいのではないでしょうか?
ただし「不可能を証明する定理が正しい」のが理解できて、「だからできない」というのが間違っているというのであれば、あなたが明らかに定理の意味するところを理解できていないとしか、僕には思えません。
さらに言えば「アキレスと亀のパラドックス」の解決が「無限回の操作が有限の時間でできるところにある」という点は理解できますが、それと〈角の三等分〉の不可能問題との関係についてはさっぱりわかりません。
「・・・だからできない」という一節は定理の中に入っていないのです。
アキレスと亀のパラドックスのように角の3等分も無限回の操作を有限の時間(それも数分)で行えばよいのです。
私はインターネットとんと無知で、作図法は作成しましたがどのように発表したらよいかわかりません。
見てみたいと思われる方が居られましたらメールでお送りします
僕は自分の関心から「角の三等分」という矢野健太郎氏の著書を読み、その感想を書いただけです。それについてのあなたの言い分は最初のコメントで傾聴いたしましたが、それ以上の主張を知りたいとは思いません。ましてや、この場をあなたの主張を宣伝するために利用してもらいたくありません。
「どのような形で発表すればいいかわからない」などと身勝手な相談をされても迷惑です。「インターネットはとんと無知で」と書いていますが、立派に私のブログに2度もコメントしているではないですか。簡単な事です。今すぐ自分のブログを開設しなさい。そして書きたいだけ自分の好きな事を書いて、自分の作図法を公開したらいいじゃないですか。
この度初めてインターネットに投稿したのですが、おかげさまでその雰囲気というものがよくわかりました。私の書いた内容は論争にはなじまない物であり、論争は好みません。ただコメントを誘うような欄があったので書き込んだだけです。以後インターネットでの投稿は致しません。
僕が気にしたのは、あなたのコメントの「見てみたいと思われる方が居られましたらメールでお送りします」という部分だけです。僕のコメント欄で第三者に対してあなたの情報を発信していると判断しました。それさえなければ、あなたのコメントを拒むものではありません。
任意の角を3等分する点は、角を構成する2本の直線の交点を原点にして複素平面上に持ち込んで見れば、求めようとする三等分点は必ずオイラーの単位円円周上の1点として実在しています。求める解は、オイラーの単位円円周上複素1次元曲線上、自然数nの1次元方程式であり解なしはあり得ません。
10年も前に読んだ本の感想なのでうまく答えられるか自信はありませんが、私は数学の専門家でもないし、そもそもこれは、たかが読書の感想に過ぎないので、「論理に飛躍がある」と言われても直接反論する方法論をもちません。
ただし、文章については素人ながら一家言は持ち合わせていますのでお答えするとして、まず「フェルマー定理云々」が「おかしな話で」と読んだのは、完全なる誤読ですのでもう一度拙文を再読ください。「フェルマーの定理」は証明にはなんの関係もありません。僕が十代の多感な時期に数学の面白さに遭遇したエピソードとして取り上げたまでです。何故そんな事を書いたかと言えば、拙文にあるとおり「ギリシャの三大作図問題」も「フェルマーの定理」と同じように、数学の面白さを知るエピソードだったという事を言いたいがためであり、要するに落語で言うところの前振りです。
で、ここからは僕の率直な意見なのですが、お名前はなんとなく書店でお見かけした記憶があります。数学がご専門の方でしたら、著者の矢野健太郎さんはご存じでしょう。釈迦に説法かもしれませんが、証明自体に誤りがあるという趣旨ならば「角の三等分」を一読なさって批判なりなんとでもすればよいでしょう。僕の書き方が正確ではないという趣旨であれば、甘んじて受け入れますが、そもそも読書感想です。通販のTVで出るテロップのようですが「あくまで個人の感想です」。
僕の素人なりの読解では「作図問題」には厳しい制約(コンパスと定規のみで有限回の作図)があり、その制約下では「角の三等分」は不可能という事を端的に証明するのが著者の狙いで、「三等分点が存在しない」という事を証明したわけでも、方程式に解がないという事を証明したわけでもありません。たぶん、そこら辺は前述の本にあたってもらえばちゃんと書かれているはずです。たかだか原稿用紙数枚程度の感想に、そこまでの正確さを期待されても如何ともしがたいです。
1.まず四等分する
2.四等分の四等分を付け加える
3.四等分の四等分の四等分を付け加える
・・・
n.あまりにも小さくなってほぼ直線に見えるようになったらやめる(笑)
代数的には無理だが、解析的には任意のε>0について、三等分角との差がε度以内になるような有限回の作図ができる
親父の溜息が聞こえそうだ・・・
実際問題としては「ほぼ見た目三等分」で十分ではないかと思います。そしてそれは文房具として誰もが持っているようなサイズのコンパスと定規であれば、2〜3回程度で「ほぼ直線にみえるようにな」ると思われます。
お父上は何故に出奔して、今もなお「溜息」をつかれているのか…。
親父には息子は三人いて
親父は先妻が生んだ長男はかわいがってたけど
後妻が生んだ次男と三男には大して期待もしてなかった
まあ、いろいろあって次男も三男も
アメリカに出奔するわけですわ
ただ、次男も三男もそれぞれアメリカで成功して
実は子孫は結構繁栄してるんですがね
ファミリーサーチとかいうアメリカの先祖調査サイトで
ガウスって検索すると子孫がぞろぞろでてきます
まあ親父は自分が天才すぎたんで
息子はただ(世間的なレベルで)数学ができる
とかいうんじゃ満足できなかったんでしょうね
知らんけど・・・
長男
https://de.wikipedia.org/wiki/Joseph_Gau%C3%9F
次男
https://de.wikipedia.org/wiki/Eugen_Gau%C3%9F
三男
https://de.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Gau%C3%9F
なるほど、本当にあのガウスの話ですね。なんとなく歴史上の昔の人物と考えてましたが、以外と現代に簡単に繋がってしまいますね。「ヴォイニッチ写本」のヴォイニッチの妻の父がブール代数のブールだった時には驚きましたが、ガウスの子孫の事を考えると驚くことではない気がしてきました。