オッベルはドアを開けた。
警官は驚いたような顔つきでオッベルを見た。
オッベルはパジャマの上にガウンをはおり、長靴をはいていた。
「ほんとに象を飼ってらっしゃるんですか?」
「ああ」(オッベルと象)
ぼくは記憶をたどりメモをつける。
最初に会った人、最初に出かけた場所、最初に食べたもの、最初にした悪いこと、
最初に飼った生きもの、最初に死んだものを見つけた時。
メモは、ぼくの『最初』で溢れる。(永訣の朝)
「日本文学盛衰史」で数々の明治の作家を独自のフィクションで描いた高橋源一郎だが、今度は宮沢賢治と来たかあ。正直、大正の作家たちを描く続編を期待しないではなかったが、今回は宮沢賢治、いやミヤザワケンジをフューチャーしたまったくのオリジナル短篇集だった。
「ミヤザワケンジ」と表記される事の意味は実際に読んでみればすぐにわかる。どの作品もタイトル以外はことごとく原型をとどめていない。おそらくはどの作品を選んでもよかったのではないかと邪推したくなるほど過激に違うのだ。
もちろん宮沢賢治の詩情とミヤザワケンジ(高橋源一郎)君の詩情が違うことくらい一目瞭然。誰だって知ってるだろう。だが、これはまぎれもなくミヤザワケンジ君による宮沢賢治へのトリビュートアルバムである。その証拠に目次に冠されているのは章立てではなくアルバムのA-1,B-3といった曲番号なのだ。
つまり言ってみればミヤザワケンジ君は、宮沢賢治の同名の作品をBGMにしながら全く新しい創作を試みている。
たとえば「注文の多い料理店」では、AVのアシスタントが監督に言われるままに原作を探しに何度も何度も本屋に足を運ぶうちに、書店員の女の子たちと仲よくなるが、可愛い子には必ずブスの子がついてきて悩む。
「セロ弾きのゴーシュ」では浮浪者仲間の間でも謎の最古老ゴーシュにまつわる噂について語られる。ゴーシュはセロを弾く事でその存在意義があり、その存在意義はセロを弾くように促した声(神?)がもたらしたものだと神話のような手つきで語られる。
「飢餓陣営」では自殺する事を共有した4人の若い男女の死んでいく姿を淡々としかし生々しく実況し、「二十六夜」ではアトムに始まる数々のヒーローたちの老後の姿を痛切に描く。
いずれも原作とは無関係のようなストーリー展開であるが、言ってよければ著者の「文学」に対する誠実な姿勢がどの作品からも立ちのぼってくる。
ここで語られるのは、宮沢賢治の作品ではない。可能性としての宮沢賢治なのだ。
だから執拗に語られる年老いたアトム、用済みで記憶も機能も失ったアトムのイメージは、おそらく痛ましいまでに「自分を勘定に入れずに」身近な人々の幸福を思い描いた宮沢賢治自身のイメージなのかもしれない。
そして「永訣の朝」で世界の終わりを思い描くバーのマスターや、「ブリシオン海岸」では世界の始まりを思い描く学者が登場し、過剰な言葉で人類の過去と未来が夢想される。
それは宮沢賢治の作品同様、幸福なのか不幸なのか、生なのか死なのかわからない境界にたたずむモチーフに似ていなくもない。
そして本作品の中でもっとも長編である「水仙月の四日」にいたっては、まさに「生」と「死」が出会う瞬間の戦慄を描ききっていて、短編集を締めくくるのにふさわしい力作となっている。




コメント書き込みボタンを押しても反応が鈍いときがあって、よく何度も押して同じコメントを残していかれる方がいるので今回もそれかなと思いきや「その感じですよ」を「その感じ」に変更されていると気づきました。
気をつかっていただき恐縮です(笑)。
いずれにしても共感してくださる方がいると感想をひねり出した甲斐があったというものです。
今後もよろしく。