2007年05月24日

真鶴 川上弘美

 京極夏彦「嗤う伊右衛門」読了後に引き続いて本書を読んだ。「類は友を呼んだ」のだろうか。怖い話だ。まさか憑き物につかれる話だとは思わなかった。見かけで判断しては間違うことになる。

 そしてある意味で本書の方が「嗤う伊右衛門」よりも怖い小説かもしれない。「嗤う伊右衛門」の方は京極作品にしてはめずらしく登場人物すべてが〈まとも〉だ。もちろんまともだなどといっても、善人も悪人もヤクザな人間も執念深い人間も出てくるわけだが、どの人物も壊れてはいない。

 一方、本書の主人公は壊れている。いや壊れる一歩手前にある。夫が失踪し、以来実家で母と高校生の娘との三人暮らしを続けるヒロインの壊れ加減を端的に象徴するのが、彼女の一人称で語られる文体だ。

 短い文章がいくつも積みあげるように続いたり、多少長めの文章でも妙な位置に読点が多用されるので文章がぶつぎりになっている。これは彼女の内面が、深く潜行しようとして叶えられず、意識の表層を浅くなぞっているかのようだ。さらに言えば浅いうえに横へ横へと拡がっていくこともできず、ただ自分の意識と無意識の境を皮殻一枚隔てた距離でうろうろと低徊している感じがする。

(P.7) 海はつまらない。波が寄せるばかりだ。中くらいの岩に座って沖を見た。風が強い。飛沫がときおりとどいて濡れる。立春はとうに過ぎたというのに、寒い日だ。船虫が岩の下に入ったり出たりする。

(P.48)百といっしょならば、人の多い、まんじゅうなど売っている、くらべて平坦な土地の、熱海のほうが心さわがないような気がしたのだ。


 もともと短い文章を積み上げていく文体は著者の得意とするところだが、今回の作品に限って言えば、著者は意図的に読者の不安を逆なでするかのような文体を用いている。

(P.4)東京の、会社に今夜は泊まりになると言っていた。

(P.65)礼の、日記が、ある。今も、本棚の表、辞書に並べて置いてある。月に一回ほどは、取りだしてめくる。


 内容をわかりやすく伝えたり、語り手である主人公の内面により感情移入させたいのであれば、このような文章は書かれないはずだ。「東京の」や「礼の」「日記が」の後におかれた読点によって、読者は意識の流れを分断され、脅かされ、落ち着きを失う。

 主人公の心情を読み取るより先に、彼女の意識のいたるところにポッカリ開いた落とし穴に引きずりこまれる。読点は彼女の無意識へとつながるべく仕組まれた陥穽なのだ。そういった独特な工夫が、この文体にはある。

 それだけではない。著書はことさらに古風で物腰の柔らかな和語動詞を多用している。「古道具屋中野商店」や「センセイの鞄」でも浮世離れした登場人物に合わせて古風な言い回しにこだわった著者だが、世知辛い現代人にはあまり聞き慣れない和語動詞が今回は鼻につくくらい頻繁に使われる。

(P.5)青茲は言って口をたわめた。

(P.9)わたしによびかける声の、底が甘くほとびていて、

(P.179)いっせいに礼の死を肯(がえん)じはじめている。

(P.192)うべなっているのだか、いなんでいるのだか


 これらの表現では、一見すると語り手の繊細な感情が強調されているようにも見えるが、一方で語り手が対象に対して〈よそよそしさ〉や〈仰々しさ〉を解き放つ事ができない心象をあらわしている。「古道具屋中野商店」の語り手が店主を「悠揚せまらぬ」などと形容した、あの間延びした暖かみは感じられない。

 さらには、語り手がよそよそしさをあらわす余裕がなくなるほどせっぱ詰まった気分に至ると、身も蓋もない直接的な表現があらわれる。「難い(かたい)」「易い(やすい)」「にじむ」「近い」「遠い」などがそれだ。これらの表現は、主人公のその場その場の強迫観念からくる気分に左右されていて、口あたりのよい表現の見かけほど理解しやすいわけではない。娘の百(もも)がある時期まで「近かった」が今は「遠い」と感じる主人公のナイーブさは、世の母親の感覚と共通する部分をどこか逸脱している。

 こういった文体が最初から終盤まで続き、本書は主人公・京(きょう)の非常に緊迫した内面が一貫して表現されている。そして真鶴だ。真鶴には、東京から熱海や箱根に至る手前に位置する半島を抱える地名であること以外になんら特別な意味はない。京がきまって呼び出してしまう女の憑依者が、そう彼女に説明している。しかしほんとうにまったく何もないわけではないだろう。著者には真鶴に対するこだわりがあるはずだ。

 憑き物の女が真鶴に行け行けと京にさかんにうながすように、真鶴にいるときに女がとりわけ饒舌に自らの過去を語るように、真鶴は死者と生者が交信をする特異な場所として描かれている。そのイメージは死者が〈この世〉を旅立つための〈船〉が、7月の2日間だけのお祭りの華やかさの後に呼び込まれるものらしい。

 実際に行われる「貴船神社の船祭り」は、国の重要無形民俗文化財に指定されるほどの由緒あるお祭りだそうだ。著者は、このお祭りを一種の精霊流しに見立てて、失踪した夫・礼(れい)が確かに死んでいて〈あの世〉に旅立つ船にのろうとする場面を、京に幻視させようとする。それには熱海でも箱根でもない伊豆でもない、真鶴という地勢が必要だったと思える。

 身近な母親の老いてゆく姿も気づかず、自分から離れていく一方の娘には不安を隠せず、失踪した夫への未練は捨てきれず、心と体の空虚を埋めるべくしてつきあう恋人には身勝手な態度をとり続ける。いつどこで破滅へと向かってもおかしくない張りつめた緊張感は、台風を迎えた真鶴で憑依した女と一緒になってみるまぼろしでピークを迎える。自殺するのか、家族や恋人を道連れにするのか。恐ろしい想像に読者である僕は身構えて読み進む。

 ところが〈あに図らんや〉と言えばいいのだろうか。これを境に事態は動き始める。憑き物はおよそ憑き物らしくなく、京を正しい道へと誘(いざな)うガイドとしての役割をまっとうする。もしくは話す相手も見失った京に唯一の友人でありカウンセラーとして役割を果たす。そして京は、礼の姿を見つけるのだ。真鶴の、岬の、船着き場の、あの船へと乗り込む列の先頭の方に…。

 東京に戻った京にはすでに憑き物はいない。礼との交信が果たされたいま憑き物の女もまた存在意義を失い姿を消す。そこには残された京と残された年老いた母。そして親離れしようとする愛しい娘がいる。

 
ねえ、おかあさん、死なないで。ゆるく投げつけるように、思う。


 そうしてようやくといっていいほど長い長い闇を抜けた彼女は、いま女三人で暮らすこの家が「こんなに光がさす家だったろうか」と余裕ある独白を吐く。ここには、いつもの著者が醸し出す暖かで伸びやかで安らかな光が満ちあふれている。
 
↓クリックの応援よろしく!
banner_04.gif
人気ブログランキング
posted by アスラン at 13:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/42762234
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック

林家正蔵さん、所得隠し謝罪「うっかりミスですみません」
Excerpt: 落語家の林家正蔵さん(44)=本名、海老名泰孝=が東京国税局から襲名披露の祝儀約2200万円の所得隠しを指摘された問題で、正蔵さんは16日夜、都内で記者会見を開き「うっかりではすまないミスを起こしてし..
Weblog: 35歳女ビルオーナーのダイエット日記
Tracked: 2007-05-24 13:47
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。