新しく目にとび込んでくる景色をどんどんその写真の中に加えていって、最後にはその写真の中の人間達がしゃべったり歌ったり動くようにするわけさ、動くようにね。
すると必ずね、必ずものすごくでっかい宮殿みたいなものになるんだ、いろんな人間が集まっていろんな事をやってる宮殿みたいなものが頭の中ででき上がるんだよ。
最初に読んだのはたぶん高校2年の頃だったろうか。
長男の特権であるかのようにうかうかと日々を過ごしてきた兄の決して数多いとは言えない蔵書に何故かこの単行本があった。
当時、時代の寵児扱いされてマスコミに取り上げられる事の多い著者とその作品だったから、僕も颯爽とした、でもキザったらしいタイトルは聞き知っていた。
ただ何故兄が読んでたのかは分からない。単なる流行りだったのかもしれない。安部公房や石川達三の文庫などもあったから、兄の前の世代への、全共闘世代への憧れがあったのかもしれない。
いずれにせよ僕には関係のない話だ。ベトナムも学生運動もフラワームーヴメントももはやなかった。ただTVのドキュメンタリーと浅間山荘とよど号と、そして兄の買ったシングル盤の中にしか。
その時は正直サッパリ内容がわからなかった。起承転結が明快で、人がいてドラマがあってモラルがあるような、要は「文学」みたいなものを読んでいた頭でっかちの受験生には荷が勝ちすぎた。
特にドラッグをモラルの中心に据えた、言わばアウトサイダーたちの物語には、衝撃と嫌悪だけがあった。そう、主人公リュウも取り巻く人々も、ドラッグと腐った残飯と汚物にまみれたアパートの一室を徘徊するゴキブリそのものだった。
だからなおさらラストの美しさが、美しい言葉が納得できなかった。
コレデナニカオワッタノカ?
当時の僕にとって小説は物語であり終わるものだったのだ。
今回読み直してみて、あっさりするほど嫌悪感がなくなっていた。同時に衝撃もない。ドラッグがサブカルチャーと言う言葉で飼い殺しにされて随分になるからかもしれない。
ただここに描かれているのはカルチャーではない。その後矢継ぎ早に産み出される村上作品には、著者の絶え間なき好奇心を反映したあらゆる同時代テーマが盛り込まれる事になるが、サブカルチャーにつきまとう「なんでも有り、とにかくやってみよう」式の経験主義はない。
作中、リュウは仲間のオキナワに「インドに行っていろいろと見てくるんだろう」と突如言われて憮然として否定する。
「ここで十分さ。ここで見るんだ、インドなんか行く必要ないよ」
村上龍には対象へのセンチメンタルな視線は存在しない。あらゆるムーブメントに過度に依拠する事がない代わりに、無邪気な好奇心を頼りにすべてを見ようとする。すべてを並置してコラージュして、そこに産み出される砂上の「宮殿」を作っては壊すだけの繰り返しだ。
だから村上龍を一言で説明するとするなら、「圧倒的な過剰さ」だと思う。
何が過剰なのか。
言葉だ。言葉だけが彼の依拠する原理そのものなのだ。
例えば、言葉の隠喩や象徴を多用する事で独自の文体と世界観を提示して見せた村上春樹には、村上龍の持つ過剰さはない。センチメンタルな視点を手放さない村上春樹は、その視点と文体に共感した圧倒的な読者と、同じ文体を自分のものにしたチルドレン世代の作家を生みだした。
しかし村上龍は何かを暗喩で表現することは少ない。喩える前に過剰な言葉で書き綴ってしまうからだ。センチメンタルを許さない彼の原理は、しかし孤高の表現者としての立場を明確にしてしまう。彼の文体は模倣できても彼の過剰さを継承できる作家はひとりも現れていない。
この作品の出だしはその後の村上龍作品には見られない文体の吃音がある。登場人物の会話だけからなるシークエンスは、時に誰の会話か分からなくなり時に舌足らずだ。それはあたかも著者が自らの中にこもる過剰な言葉を吐き出すすべを見つけられずにつまずいているかのようだ。
再読した際に衝撃も嫌悪もなくなったと書いた。残ったのは透明な美しさだけだ。
エンディングでリュウが手に入れたのは「限りなく透明に近いブルー」という言葉だった。それは同時に村上龍という存在が過剰なる言葉を吐き出す文体を手に入れた瞬間だったように思う。
(2005/06/08読了,村上龍自選集1より)




「クリトリスにバターを」が原題でした。
小説の持つ独特の表現を実感した一冊でした。
アスランさんは、たくさん読まれてますね。
また、お邪魔します。
原題聞いた事があります。それもたぶん高校生か大学生の当時にです。結構有名な話らしいですね。雑誌で読んだのかもしれません。
当時としては無茶なタイトルなので(今でも無茶か)、変えさせられたのでしょうか。
一般受けしないタイトルでしょうが、内容にはマッチしてますね、こちらの方が。
これからもごひいきに。
お褒めいただき恐縮です。素直にうれしいです。