2007年04月25日

リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その2)

 その1とくればその2、その3がどうしたってなくてはならない。そもそもタイトルをこのように決めたのは、リュパンと以下の本のタイトルにひっかけたのだ。

 レイ・ブラッドベリ「ウは宇宙船のウ」(創元推理文庫、大西尹明・訳、初訳1968年)

 ブラッドベリはそんなに読んでないが、SFに全然関心がなかった頃から唯一と言っていいほど読んだことのあるSF作家だった。といっても彼が書く作品はSFというよりは叙情的な郷愁に満ちたファンタジーといった方がいいのではないか。

 〈SFらしからぬ〉というとSF好きから不見識を叱られそうだが、僕のつたない知識からしてSFらしからぬ作風が気に入っていた。

 とは言えやはりそう多く読んでいるわけではなく、大昔に見たフランソワ・トリュフォーの映画「華氏四五一度」の〈本を焼かれる〉という近未来の設定に子供ごころに衝撃を受けて、高校になって読んでみようと思いたった。それも原書でだ。

 無謀きわまりないとは思わなかった。そのころはぺーパーバックスで容易に入手できたし、読んでみて分かったのは、映画でストーリーを知っているせいもあってそれほど分かりにくくなかったのだ。

 その余勢をかって「何かが道をやってくる」も原文で読んだ記憶がある。最後まで読んだかどうかは定かでない。サーカスが出るお祭りで怪物に遭遇するという、今で言えばホラーであり、強烈なノスタルジーに包まれながらも、夕暮れに取り残された幼い日の心細さをよびさまされる作品だった。

 そして昨年の「サウンド・オブ・サンダー」の原作がブラッドベリの短編と知って、この機会に読んでみようと思った。さらにタイムリーだったのは原作の短編「雷のとどろくような声」が入っている前述の短編集が、自宅最寄りの図書館でリサイクル図書として放出されていたことだ。早速引き取ってきたのは言うまでもない。

 最初の短編は『「ウ」は宇宙船の略号さ』だ。はて?これが書名と同一名の作品なのだろうが、なぜ微妙に変えているのだろう?同じにするという決まりはもちろんないが、だいたいにおいて短編集のタイトルとなっている表題作というのは代表作であることが通例だ。第一、同じ名前にすると読者に覚えてもらいやすい。その意味では短編のタイトルの方は書名よりも少々野暮ったいが、意味がより分かりやすい表現にはなっている。これについては後ほど詳しく考察しよう。

 この短編は、中学生である主人公の〈ぼくら〉が毎土曜日に宇宙船空港まで宇宙船を見に行くという場面から始まる。さっそく著者の少年時代の記憶と、宇宙時代が到来した健やかな近未来とがクロスオーバーする作品で、ブラッドベリ作品特有のノスタルジーが巻頭から漂ってきた。ところがその懐かしい気分が持続しない。訳がおかしいのだ。

 なんとなく気の利いた掛け合いをしているはずの主人公たちの会話が今ひとつずれている感じがする。意味が焦点を結ばないのだ。そのうち文章に奇妙な癖があることがわかってくる。

 たとえば一人称の〈ぼく〉や〈ぼくら〉で語られる文章に、まさに頻繁に〈ぼく〉〈ぼくら〉が現れる。以下の文章は、数えると句点にたどり着くまでに486文字もあるというワンパラグラフ・ワンセンテンスの驚異的な1文の一部だ。まずこう始まる。

(P.15) ぼくら二人は、みんなといっしょに大声をあげ、みんなといっしょに笑うかっこうはしたが、その最中でもぼくら二人、つまりレイフとぼくとは、じっと声を殺していて、モノレールの気筒の音がしだいに小さくなって停止すると、ぼくらは大声をあげて笑いながら駆け足で車外にでるようすをしたが、…


 いくら原文どおりだとしても、日本語は主語が文章を越えて伝播していくことができる言語なのだから、解れば省略できるし省略した方が日本語らしいということが訳者には分かってないのだろうか。

 この程度なら目くじらたてる程ではないと思う人もいるかもしれない。では以下の文はどうだろう。

(P.16) ぼくは息を止めた。どうやらぼくは、その宇宙船が、コンクリートで固めた牧草地に姿を現し、そのうしろから、げんごろう型のトラクターと大型の気筒とがついて行くのを見て初めて、ぼくはもう一つ息をついたらしいが、…

「どうやらぼくは」はどこにかかるのだろう。延々宇宙船などの記述に引っ張っられたあとの「見て初めて」がそれだ。にもかかわらず、テンでつないだ次の節が「ぼくは」で始まる。

 冗長なのは言うまでもないが、「どうやらぼくは」が「見て」に到達するまで距離がありすぎて、訳者はその存在を忘れてしまったのだろう。いや単純に冗長な文体がお好みだったか。

 さきほどの500文字もあるワンセンテンスには終盤にこんな表現もある。

(P.15) …、あの大宇宙船が、遊星間大サーカスのテントみたいなプラスティック製の格納庫から出てきて、きらきらと輝く滑走路を発射地点のほうへ移動していたが、そのうしろから巨大な〈発射台〉が有史以前の爬行鳥が群がっているといった形でおともをし、…

 この部分だけならなんとか判るなどを思わないで欲しい。これがワンセンテンスの1/5に満たない部分なのだ。前半はいいとして、「そのうしろから」で始まる後半が特に変だ。かかる言葉とうける言葉が入れ子になっているため、「〜が〜が」という不格好な訳文になっていて、2番目の「が」が出てきたところでいったん立ち止まらされる。

 …の爬行鳥が→群がって
 …〈発射台〉が→おともをし

という構造だ。だとすると「発射台が」と「おともをし」を近づければスッキリするはずだ。

 …、有史以前の爬行鳥が群がっているといった形で、そのうしろから巨大な〈発射台〉がおともをし、…

 ところがこの訳文のたちが悪いのは、「そのうしろから」の「その」で指示される実体が前方の節に出てくる点だ。かなり遠くにある「あの大宇宙船」という表現がそれだ。つまり「あの大宇宙船のうしろから」という意味なのだが、訳文のままでも「その」が出てくるタイミングがずいぶん遅いため、間に出てくる「滑走路」だとか「発射地点」などが「その」の候補になって読者をとまどわせる。

 おまけに「その」の実体である「あの大宇宙船」にも「あの」という指示語がついている。こちらは実は同一センテンス内には実体はない。何個か前のパラグラフに出てきた「宇宙船」の事を指しているのだが、そこに出てくる宇宙船にも「そんな大きな宇宙船」とまたもや「そんな」という指示語が出てくるしまつだ。いやはや、いったいこの文章はどうなっているのだろう。

 500文字からなるワンセンテンスは、英文の構造をそのままの語順で訳そうという訳者の野心的な(!)試みなのかもしれない。しかし無謀きわまりない試みであり、日本語として破綻していることは明らかだ。

 さて中学生の〈ぼく〉は、「月曜日の意味論の試験にしくじった」と独白している。近未来の少年たちはさぞかし難しいお勉強をさせられているとおどろかされるのだが、原文がどうであれ訳者の言語感覚がこれまでみてきたとおりであるならば、単純に「意味論の試験」という訳も信用しようという気にはならない。

 その直後に、短編のタイトルどおりのセリフが出てくる。それは宇宙船のことで頭がいっぱいで勉強に身が入らない〈ぼく〉と、それを問いただす先生との会話だ。「きみのぐあいが悪い原因」がどういうことなのか問いただす先生に対して、つぎのようなやりとりがある。

(P.19) 「意識的なものですよ、先生。でも、単純じゃありません。多触手状(マルティテンタクル)のものです。でも、かんたんにいえば―宇宙船なんです」
 先生はにっこりと笑った。「『ウ』は宇宙船の略号だね?」
「だと思います、先生」


 これだけだ。そして、ここは重要なシークエンスのはずだ。なにしろタイトルと同じ台詞が出てくるのだから。でも意味がわからない。なんどか考えたのだがどうしても判らないのだ。

 もし〈ぼく〉が最初に「かんたんにいえば―『ウ』なんです」と言ったならば、先生が「宇宙船の略号(の事)だね」とにっこりとするのは判るような気がする。二人だけに通じる符号がそこにはあるからだ。でも〈ぼく〉が言ったのは「宇宙船なんです」という言葉であって『ウ』ではない。

 冒頭に触れた書名と短編名との違いがヒントになるかもしれない。書名の「ウは宇宙船のウ」というのは、原題「R IS FOR ROCKET」の訳だ。正確に訳せば「Rはロケット(ROCKET)の略号だ」という意味のようだ。だからROCKETを宇宙船と訳してRをウに変える工夫は日本語訳としては好ましい。

 書名と短編名とどちらが原題の意として正確かと言えば短編名の方だろう。何故なら書名の方は「イロハのイ」という表現と同様の意味にもとれるからだ。すなわち

 (A)ウは宇宙船を表す略号である
 (B)ウは宇宙船の最初の文字である

という二通りの解釈が生じる。「イロハのイ」という時には、「イ」が「イロハ」を表すわけではなく、「イ」で始まるありふれた単語(イロハ、インク、イチジクなどなんでもよい)を示す事で「イ」が確実に相手に伝わるわけだ。もちろん原題も本文での使われ方も(A)であって(B)ではありえないので、(A)の意味に限定した短編名の方が正確な訳だ。ただし本のタイトルとしてのセンスから言えば、(B)の解釈が生じる事に目をつぶってでもインパクトのある「ウは宇宙船のウ」を選んだ事はうなづける。

 とはいえ短編名の方にも問題は残る。「『ウ』は宇宙船の略号さ」の最後の「さ」は何なのだろう。「さ」などと軽口を叩いているのは誰なのだろう。〈ぼく〉だろうか?でも本文では先生のセリフなのだ。では著者だろうか?いや訳者の独断ではないのか?邪推すれば「略号だ」では書名に比べてあまりに堅苦しいので「さ」をつけて軽さを出したのではないかと想像できる。しかしあまりいい考えには思えない。

 本文に戻ろう。訳はどうであれ状況から判断すると〈ぼく〉が「意識的なものだ」とか「多触手状のものだ」とかあれこれ言い訳をした挙げ句に、最後に「宇宙船の事が気になって何も手に付かない」と白状しているのは間違いない。それに対して先生は理解を示してにっこりと笑う。そこで「R is for Rocket?」とたぶん原文で語りかけている。

 だとすると、Rと言ったら「Rock」でも「Rabbit」でもなく「Rocket」に決まっているという気分なんだねと、先生はやさしく〈ぼく〉に語りかけているみたいだ。

 実はこの場面がこういう意味だとわかったのはアンチョコを見たからだ。JRBFC(日本レイ・ブラッドベリファンクラブ)の掲示板には以前から大西尹明訳のひどさが指摘されていたらしい。そして「ウは宇宙船の略号さ」についての改訳案も掲載されている。詳しくは読んでいないが、先生と〈ぼく〉との場面だけは気になって改訳案を拾い読みしてみた。例のセリフはこう訳されている。

 「Rを見れば、ロケットのことしか思い浮かばないってことかね?」

 ようやく胸のつかえが降りた気がした。しかし「ウは宇宙船の略号さ」は創元推理文庫の「ウは宇宙船のウ」にしか収録されていないため、この短編集で読むしかない。ただその他の短編の多くは昨年刊行された、

 レイ・ブラッドベリ「太陽の黄金の林檎」(ハヤカワ・ミステリ、小笠原豊樹・訳、初訳2006年)

で読めるので、そちらを読んだ方がよさそうだ。創元推理文庫でも昨年「ウは宇宙船のウ」の新版が刊行されたが、大西訳のままなのは残念だ。

 とここまで書いてきて、さきほどの掲示板からの引用部分を確認していたら、実は「ウは宇宙船のウ」の新版は大西訳に手が入っているそうだ。それもかなりの改訂がなされているらしい。しまった!訳者名が変わらなくても翻訳は変わるとはうかつだった。さっそく入手するとしよう。

 レイ・ブラッドベリ「ウは宇宙船のウ」新版(創元SF文庫、大西尹明・訳、2006年)

(参考)
 リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その1)

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posted by アスラン at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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