2007年04月13日

本多勝一集19 日本語の作文技術

 昨年末に著者の「中学生からの作文技術」を借りて読んだ際に本書の存在を知った。どういうことかと言うと、朝日文庫から出版されている「日本語の作文技術」と「実戦・日本語の作文技術」の2冊を、「実戦…」の方を解体・分配することで1冊にまとめあげたという事情が冒頭に書かれていた。そしてそこからさらに中学生向けに〈かかる言葉とうける言葉〉と〈テンの打ち方〉などにしぼって要点を尽くしたのが「中学生からの…」の内容だと書かれていたのだ。

 うかつにも本書の出版を知らなかったので、さっそく図書館から借りてはみたものの四六判456頁2段組の堂々たる内容なので、じっくり読むには2週間という貸し出し期間は短すぎた。どうせなら買ってしまおうかと、神保町に出た折りに探してみたが、本多勝一集そのものが容易に見あたらない。

 ウェブで正規の書店を検索すると本書の在庫はないという。ならば古本の検索をかけてみると、やはり19巻は見つからない。これほどまでにないとなると著者の方で本書が不満なためにあえて絶版にしたのだろうかと疑ったが、もしそうならば「中学生からの…」の冒頭で経緯を書く手間を惜しむ著者ではないだろうと思いいたった。

 とすればやはり本多勝一集そのものが入手困難な売り切り本だったのだろう。つまりこの手の個人全集(全集と称していないからすべての著作を網羅したものではないだろうが)は個人が買うというよりは、図書館や学校など公共機関が買う事をもくろんで部数を限定して印刷している可能性がある。よっぽどの話題作でもなければ次に刷られるのはずっとあとの事だろう。ましてや朝日新聞社出版局が版元だとすると商売気のないことこの上ない。当分は入手は無理か。

 というわけで仕方がないので「中学生からの作文技術」を購入して手元に置く事で我慢した。さらに本書の読了までには、立川と川崎の図書館を交互に利用した。

 さて、本書の置かれた現状を説明したら、あとはそれほど書くことはない。だいたいは「中学生からの作文技術」でコンパクトにまとめられた内容が著者の主張のほとんどを占めているからだ。ただし、読後の感想にも書いたが本当に著者の技術論をものにするためには繰り返し繰り返し文章を書いては推敲する実戦が必要だし、さらには多数の実例(悪い例も含めて)が必要だ。それには本書を繰り返し読むに限る。

 とくに悪い例という意味で、「実戦…」の方で取り上げられた裁判の主文の例以上のものは見あたらない。今でこそ本書のような主文を書く、浮世離れした裁判官はいなくなったと信じたいが、裁判官の卵たちの前で講演をした著者が示した悪文は相当なもので、〈かかる言葉〉と〈うける言葉〉の関係を読み解くだけでも十分に悪文の悪文たる根拠がはっきりとして、読者である僕らは唖然としてしまう。なにしろ複雑な係り受け構造が二重、三重に入れ子になり、そのような入れ子を抱えた構造がさらに重文としていくつも繋がっていくという、およそまともな人間ならば書く気も読む気もしない文章だったのだ。

 そのぶん、著者が主文のかかりうけ構造を分析して見事に推敲していく過程はミステリーの謎解きを読んでいるようで爽快だ。

 裁判官の文章力を揶揄するだけならば笑いとばせる気がするが、国語教育の現場に悪しき権威主義が横行している様を知らされるにいたっては暗澹たる気分だ。著者は〈テンの打ち方〉がほぼ2つの原則で必要十分であることを、文部省が出した読点の打ち方に関する指針を使って検証していく。そこにも「そこに句読点を打て!」という著書に書かれたような理論的な整合性が伴わない行き当たりばったりな記述が多いことが著者の手際で判明していく。

 さらには大久保忠利という国語教育者が自著でデタラメな読点の説明しているのを徹底的にやりこめる。単なる理論の欠如と笑えないのは、大久保という教育界では大御所と持ち上げられる人物の思い上がった口調だ。要点を言えば自分には文章の能力もあるし理論的な知識も豊富だ。だから無知な人をみると知識を伝授してあげたくなるが、そういう人は理論や用語を知らないので僕が言ってる事が分からない。本当に残念だ、ということを平気で聴衆の前で講演していたらしい。

 そういう人物の主張などバッサリと著者に切ってもらうに如くはないが、そういう人物の主張をありがたがって聞く教育者たちが大勢いるからこそ、今日にいたるも教育現場における作文の技術論は語られないままであるようだ。

 もう一つ思わずなるほどと思ったことが書かれている。それは、〈翻訳調〉と言われる文章の正体を著者の作文技術に沿って説明している箇所だ。

 AがBをCに紹介した。

という文章は

 「Aが」&「Bが」&「Cに」→「紹介した」

という係り受けとなるが、〈かかる言葉〉の3つは日本語の構造からすると対等で、どの順番に並べても構わない。

 しかし一般に上記のような順になるのは、ひとつには著者が係り受けの原則の一つに挙げている〈大状況から小状況へ〉と書く場合に上記の順序が座りがいいという事も多少はあるかもしれない。だが一番の理由は、英語の構造が上記の順序を強いるというところにあるのではないだろうか。

 A introduced B to C.

のように、S+V+OやS+V+O+Oという文型をそのまま日本語に〈直訳〉するから、さきほどのような語順が当たり前のように定着してしまった。

 ところで「中学生からの…」の書評でも書いたが、著者はさきほど対等だったはずの3つの〈かかる言葉〉を修飾語をつけて長さを変えると対等ではなくなることを明快に説明している。だとすると、さきほどの直訳は3つの長さが短くてほぼ同じであるからこそ成立するが、長さが変わって対等でなくなった場合には語順をどうしたって変えねばならない。

 「Aが」
 「私がふるえるほど大嫌いなBを」
 「私の親友のCに」


というように変わったとたんに、〈長い方から先に〉という著者の原則に従って、

 私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCにAが紹介した。

が分かりやすい文章となる。ところがいわゆる翻訳調というのは、語順を英語のままに直訳するところから生じているのだと著者は言う。それが以下の文章だ。

 Aが私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した。

 もちろんこれは象徴的な事例だ。これほど単純な話ではないだろうが、しかし英語から日本語へと訳すという事に関しては、言語の構造が天と地ほど違う事を意識しないで〈タテのものをヨコにする〉だけですます翻訳が分かりにくい日本語を生み出す事が、著者の指摘でよく分かった。いや直訳というのは〈タテのものをタテのままに〉訳すことだ。言語同断だ。

(参考)
 中学生からの作文技術 本多勝一(その1)
 中学生からの作文技術 本多勝一(その2)

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posted by アスラン at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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