2011年12月06日

グラスホッパー 伊坂幸太郎(2004/11/21読了)

 村上春樹を最近読みだすまでは、〈春樹チルドレン〉という言葉の意味がわからなかった。今も正直よくわからないけど、この小説に限って言えば何故か村上春樹を強く意識した。

 著者・伊坂の長編小説「ラッシュライフ」と同じように、今回もそれぞれの物語を抱えた主人公たち一人一人の視点で、同時進行のドラマが始まる。やがて一つに絡まる事を予感させながら、まるで映画を観ているかのように一つ一つのシーンが無造作に切り替わっていく。ただし「ラッシュライフ」では並列に進行するドラマをさばく手際に関心させられたが、今回は少々勝手がちがった。

 何故かなぁと考えたが、おそらく展開するストーリーのひとつひとつがあまりに隠喩的だからなのではないだろうか。なかなか話の先が見えてこないじれったさがあり、しかも話が一向にミステリーらしくない。らしくないのは、「蝉」だとか「鯨」といった村上春樹ワールドならば馴染み深いようなキャラが、それぞれに何かの役割を作者から受け持たされているからだ。ミステリーと言えば言えるかもしれないが、SF的な世界観が隠喩の裏に隠されているともとれる。そして、最後の最後にならないと隠喩の意味は分からない。

 一方で春樹作品の語り手である「僕」に相当する人物には、「鈴木」というきわめて平凡な名前が与えられている。鈴木は、不在の妻の言葉に従って物語の展開をうながす狂言回しの役を引き受けている。まるで、村上春樹の作品で名前も与えられずに無造作に登場する「僕」のコピーである事を、あえて隠す事なく表明しているかのようだ。

 いや、そんな単純な事ではないかもしれない。この「僕=鈴木」の仕掛けには、もっと伊坂流のレトリックの存在が感じられる。ちなみに「グラスホッパー」は角川書店のサイトでも立ち読みできるので、ちょっと調べてみよう。ああ、なるほどなぁ。作中の「鈴木」を「僕」に置き換えたところで、なんの違和感も感じられない。一人称単数と三人称単数の厳然たる違いがあるはずなのに、すんなりと置換が可能だ。要するに村上春樹の「僕」は実は一人称ではないという事なのだろう。それをさっさと「鈴木」というありふれた記号に置き換える事で証明してみせた伊坂にとって、この作品はお遊びであると同時に、一つの実験でもあるようだ。

 この小説の圧巻は、残り三分の一くらいになって訪れる。互いに引き付けられていく神(著者)の意志または悪意が感じられるようになるからだ。ラストの一種独特の爽快さは著者ならでは、だ。それは、言ってみれば村上春樹が30年かけてようやく手に入れる事ができたものだ。それを春樹チルドレンの一人がやすやすと手に入れてしまっている。そして、それが若さというものかもしれない。
(2005年5月24日初出)
posted by アスラン at 19:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私は村上春樹は全然肌にあわないのですが、伊坂幸太郎はチルドレンって言われてるんですか。
他にはどんな人たちがチルドレンなんですか? 
Posted by yeastcake at 2005年11月07日 23:49
yeastcakeさん、コメントありがとう。

どんな人たちという正確なグループ分けがあるとは思えないけど、確か僕が読んだ書評か文芸誌の対談かなんかで挙がっていた名前は、阿部和重、大崎善生、そして伊坂幸太郎だった。本多孝好もそうだという話もあります。

 ちなみに僕は伊坂が村上春樹の影響を直接受けているようには思えません。ただしこの作品だけはあきらかに村上作品がなければ書けない気がします。

 それともし伊坂を判断するなら本作は妥当でないないと思います。彼の作品の中でも異色作でしょう。
 
Posted by アスラン at 2005年11月08日 00:22
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