2013年07月02日

新潮文庫の100冊(2013年)

結婚する前の事だ。仕事は自分の思い通りに充実感を伴いながら忙しくなっていき、だが一方で仕事だけでは満たされない日常を解決するために、週末は映画館のハシゴにいっそうの拍車がかかっていった。ハシゴして映画を見る時間は確実に孤独であり、寂しさが癒える事などないのだが、何にもかえがたい時間が僕の中に蓄積されていった。

 そんな時、神保町の書肆アクセスという地方出版物の専門店で栃折久美子という製本工芸(ルリユール)を生業とされている方の「ワープロで私家版づくり」という本に出会って、みようみまねで素人の手帖作りの日々が始まった。本の装丁を目指すというより、毎年面白みのない会社用の黒手帳を購入するのではなく、自分の好きなレイアウトのスケジュール手帳を作る事が年末年始の恒例行事となった。

 ある年のテーマとして、12ヶ月分のお気に入りの本を選定して、その中から自分の心をわしづかみにした一節を抜き出して、見開きに一月単位のスケジュールの欄外に刷り込んだ。自分の楽しみでもあったし、誰かに見てもらって、その誰かとその言葉を共有することで、少しでも自らの身勝手な孤独を和らげたいという下心もあった。といってもそんな手帳に関心を示してくれる人など、そう多くはいなかったのだが。

 だから、今年から始まった「ワタシの一行」という企画を見て、とってもうらやましく感じた。そう、まさしくかつての僕がやりたかった事が本格的な規模で形になっている。それも、数々の本好きの人たちが、それぞれに魅力的な言葉を紡いで、一冊のかけがえのない本を推している。もちろん、ついに引退した松井秀喜が「甲子園が割れた日」を推して、5連続敬遠の「あの夏」を振り返る言葉にも感動したが、それ以外にも女優(北川景子や栗山千明)や歌手(JUJU)、アイドル(中川翔子)といったアーティストたちが、テレビで見せる素の姿とは違って一冊の本に対して饒舌ですばらしい言葉を用意している事も楽しい。

 でも、なによりも僕にとって僥倖だと思えたのは、講談社からお引っ越しを決め込んだ小野不由美の出世作「十二国記」シリーズの中から、評論家の北上次郎さんが「月の影 影の海」を選んでとびきりにイカす言葉を添えてくれた事だろう。雑誌「本の雑誌」で同シリーズの「図南の翼」を推しまくった北上さんも、まさか本シリーズが、巡り巡ってラノベから出世しまくって新潮文庫に仰々しくも収まる事を予想してはいなかっただろう。感無量などとはいわない。代わりに「胸打たれた言葉」として北上さんが選んだ言葉が「−許す。」だ。北上さんの言葉を信じて「図南の翼」から始めてずっと北上さんの言葉の赴くままに読み継いできた僕としては、もう何も言うことはない。

 そうそう。今回の大幅な変わりようは徹底していて、例の新潮文庫ならではのスタイリッシュな限定カバーも姿を変えた。今度はみずみずしい夏をイメージしたフォトデザインがプリントされたカバーに変わったのだ。これも相当に驚かされた。スイカの瑞々しい赤に何粒もの黒い種がはまり込む写真などは、他の花火やトウモロコシや金魚やかき氷などと並べば、なんということもない夏の風物詩だが、「江戸川乱歩傑作選」を当ててきたところに、何かしらエロティックな隠喩を想像せずにはいられない。何度も読んだ文庫なのに、また欲しくなってしまった。

 表紙からついに黄色とパンダキャラが消えたということは、いつ何時にもこの十年以上も変わる事なく動く事のなかった大きな山が、向こうから降りてきたという事でもある。新潮文庫が久々に本気になったという事だろう。これで、ナツイチや角川文庫とのガチンコ勝負が始まりそうだ。また夏の楽しみが増えた。
posted by アスラン at 20:18| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 夏の文庫フェア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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