そんな彼を見守ってきた将棋雑誌の編集者が、あの本における著者・大崎善生の立ち位置だった。肩入れしてきた青年が志を果たせず疲れ切って表舞台から去ろうとしている。その姿に編集者自身もまた、寄り添うように疲れている。
本書の文体は「聖」の激しい人生とは裏返しに淡々としている。センチメンタルな感情に溺れたいのに、溺れきれない中年の寂しさが感じられた。だから…。
正直、村上春樹の「羊をめぐる冒険」に出てくる主人公「私」を思わせる男たちを、主人公にした短編を読まされる事に違和感があった。大崎善生ってこんな文章を書くのか。いったい何歳なんだ?と。
村上春樹の描く「私」と著者の描く「私」たちとは似ているようで一点だけ違う点がある。村上の「私」は仕事に疲れてはいない。歳をとらない。どんなに「自分は時代に置き去りにされた」と語っても、眼の前にある「青春の残酷さ」を手放さない。
一方で本作の「私たち」は明らかに疲れている。彼らは人生を一度リセットする必要に迫られた中年であり、恐らくは等身大の著者自身を投影した存在である。彼らが振り返る若き日の自分は、センチメンタルそのものだ。美しいもの、何か美しいものであったはずのものだ。そして永遠に失われてしまったものだ。
失われたものを振り返る手つきは、どこか甘くどこか苦い。しかしそれは著者にしかわからない美しさであり、著者自身の心のうちにしかない輝きではないだろうか。
(2005/5/12初出)



