2007年03月04日

思想のアンソロジー 吉本隆明

 すごく雑然とした感想を書いてみる。

おそらく本書は、ふたつの読み方ができる本だ。

(1)著者が推薦する古典や近代の文章に触れる。
(2)著者の思想の核心もしくは核心といった大げさなものでない<好み>を味わう。

 もちろんアンソロジーを編んだ時点で著者の思想からくる選別が働いていると考えれば、二つの読み方はそれほど違いがないかもしれない。ただ読み進めていくと、日本の思想を概括するといった性格は本書にはまったくなく、常日頃から著者が関心を抱いてきた文章の気になる部分を抜き書きしたという印象を受ける。文章によっては抜き出した箇所に格別強いこだわりもないかもしれない。さらには古典としての善し悪しという評価ともかかわりない選び方をしているのが特徴的だ。

 小林秀雄「信じることと知ること」の解説で、小林が一貫して手放さなかった批評の方法を「経験は経験そのもので、反省的な解釈や論理づけとまったく違うもので、解剖の余地などないそのこと自体を考えるべきだ」というようなものだったと著者は感じている。そのうえで次のように書く。

 この考え方は、文明や科学の進展ということを、思考の範囲外に追いやってしまうので、停滞感の袋のなかに、もがくような息苦しさに陥ることがある。しかし強固な精神の実在論といえる。近代批評の祖たる所以である。


 なるほど著者らしい感想だ。詩的な比喩を用いているが、思考の末に追い詰めた言葉づかいになっている。僕はと言えばベルグソン論「感想」や「本居宜長」を読んだとき、対象を味わい尽くすまでグルグルと周りから飽きずに眺めては堂々巡りする小林秀雄に、息を潜めてつきしたがっている自分を感じた。あれがまさに〈停滞感の袋〉だった。と同時に一読者としてはどこか心地よい批評的体験でもあった。モノの真贋を確かめては経巡り続ける精神の持続そのものが小林秀雄という存在であり、著者は小林のたどり着いた位置をちがった意味で手にいれることにあがき続けたと言っている。

 藤田まことや千石イエスの言葉を取り上げて「おや?」と思わすが、現代の文章についてはまとまった取り上げ方をしていないのでちょっと物足りない気がする。時間があれば他にも取り上げる現代の思想はあっただろうが、著者には<老い>という現実が立ちはだかっていてそれがかなわないのは残念だ。なかでも藤田まことが出てくるのが唐突と感じられるかもしれないが、意外というわけではない。藤田の言葉にならって「恥ずかしながら一生物書きです」と言ってみたいと言う著者に、批評家としての矜恃が感じられる。

 著者は太宰治の一つのエピソードを語る。太宰治が<なぜ作家になったか>という学生からの問いかけに「物書きにしかなれなかったから」と答える。「じゃあ、僕にもその資格がありますね」という学生の甘えた口ぶりに「君はまだ何にもなってないじゃないか」と突き放す。このエピソードが好きだという著者だが、僕は太宰治の言葉と藤田まことの言葉を結びつけるこの解説が好きだ。

 文章としてはとるに足らずとも書き手の思想が出ている文章に著者は惹き付けられる。否応なく読者である僕も立ち止まる。僕は高校の頃に岸田秀の「ものぐさ精神分析」を読んで以来、吉田松陰という人物に周囲の状況が読めない甘えの人間というイメージを持ち続けてきた。しかし著者が指摘するように、吉田松陰の文章をよむ限り「きちっとした」人物のように感じられる。本書のなかでもとりわけ印象深い文章だ。

 吉備真備「乞骸骨表」は、公職を去る際に提出したいわゆる辞表だが、「一身上の都合で」という表現をすでに古代から使っている事に著者は注目する。また様々な武家の規則を取り上げて、日本人の深層にひそむアジア的な生活様式の陰影を読み取っている。御成敗式目に代表される武士の規範・規則集などには現代人の目から見るとつまらない規則が多く書かれていたりする。こういった細々とした<家訓>や<家法>のなかに、中国の儒教思想が倫理的な規約として溶け込んでいるところをいくつかの文章から著者は示唆してくれる。

 本居宜長が「物のあわれ」を説いて、仏教的な教訓や儒教的な勧善懲悪を読み取る姿勢から物語を解放したことは画期的だと著者は言う。この洞察は鋭い。小林秀雄は「本居宣長」の中で、尊敬する折口信夫から「宜長は『源氏(物語)』ですよ」と言われたがその真意についてはよく分からないと書いた。おそらく小林秀雄は「物のあわれ」の近代的な意味に気づいていなかった。著者は、「悲劇の解読」の小林秀雄に関する章で同じエピソードをとりあげていたと記憶する(いや「源実朝」だったかもしれない)。そのときは正直言って折口の真意も小林の戸惑いも著者の断定もよく分からなかったが、今回の短い解説で著者が考える本居宣長の先見性に対する評価の姿勢がよく分かった。

 面白いのは、こういう洞察力の天才を示した宣長が「神話などは記述そのままで理解すべきで、比喩として読むべきではない」と言った事がどうしても信じられないと書いているところだ。小林秀雄は、まさに宣長のこういうところに宣長の思想の核心を見ている。つまり著者が言っていた「文明や科学の進展ということを、思考の範囲外に追いやって」まで、小林秀雄は宣長の精神の動きをそのまま体験しようとする。どちらが正しいかではない。批評の本質の違いに過ぎない。しかし著者と小林秀雄をセットで読む事が刺激的な読書である事は言っておきたい。

↓クリックの応援よろしく!
banner_04.gif
人気ブログランキング
posted by アスラン at 03:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。