2007年03月01日

名探偵たちのユートピア 黄金期・探偵小説の役割 石上三登志

 巻頭でまず「探偵『小説』の話をしよう。『探偵』小説の話ではなく」と著者は書いている。カギカッコの使い方が独特だったので何を強調しているのか一瞬分からなかった。その後読み進めていくうちに言わんとしてる事がわかってきた。そしてちょっと困った事になったぞと躊躇が芽生えた。

 著者はネタバレを辞さずして、探偵小説の面白さを解剖しようとしている。しかも僕を含めて多くのミステリーファンが愛する<黄金期の探偵小説>をだ。通例、ミステリーの書評はネタをあかさない。だから本当の面白さやつまらなさを伝えきれないという思いが書き手に残る。大抵は文体やら設定やら背景やら人物描写について誉めたりけなしたりする。これが「探偵」についての小説の話だ。しかし本当に評価したいのは探偵が<いかなる謎をどのように解決したかの物語(小説)>の方だ。このことを指して巻頭で著者は宣言しているのだ。

 さっそく「緋色と赤の距離−アーサー・コナン・ドイル」で、ドイルの「恐怖の谷」の解決に触れるとある。ホームズものならば全部読んでいるはずだから問題ない。だが他のラインナップが気になる。章題から作家を拾ってみる。

アーサー・コナン・ドイル
E・C・ベントリー
A・A・ミルン
ノックス
S・S・ヴァン・ダイン
エラリー・クイーン
イーデン・フィルポッツ
ハリントン・ヘキスト(誰だ?)
F・W・クロフツ
ジョルジュ・シムノン
アガサ・クリスティ
ディクスン・カー
ダシール・ハメット
ウィリアム・アイリッシュ
エリック・アンブラー
江戸川乱歩
横溝正史

 これを眺めてちょっと安心する。ヴァン・ダインやクイーン、ドイル(ホームズもの)ならば問題ない。クリスティやカーで取り上げるのは有名な作品だろうから読んでいる可能性が高いので、これも大丈夫だろう。

 一発屋としてとりあげたベントリー、ミルン、フィルポッツなどは、「トレント最後の事件」や「赤い館の秘密」、「赤毛のレッドメーン」に決まっている。ならばこれも問題ない。あっ!「トレント」くんは読んでなかったか。

 こまったのはクロフツだ。実は「樽」を含めてほぼ全作読んでいない。しかも「樽」の文庫(新訳)が出版されたのをいい機会に主要作品を読もうと意気込んでいるところだ。シムノンやハメット、アイリッシュは微妙だ。おそらく積極的に読むつもりはない。でも出来れば読んでない作品のトリックや結末は知りたくない。

 そこで他にも僕と同じような<躊躇>を味わう人もいるかもしれない。以下に解決に触れたと断わっている作品を抜き出してみる。

コナン・ドイル「恐怖の谷」
E・C・ベントリー「トレント最後の事件」
J・D・コール&M・I・コール「百万長者の死」
エラリー・クイーン「Yの悲劇」「レーン最後の事件」
クリスティ「アクロイド殺人事件」
イーデン・フィルポッツ「赤毛のレッドメーン」「闇からの声」「密室の守銭奴」
ハリントン・ヘキスト「怪物」
F・W・クロフツ「マギル卿最後の旅」「ポンスン事件」
ジョルジュ・シムノン「男の首」
コナン・ドイル「まがった男」
G・K・チェスタトン「木曜日の男」「折れた剣」

 読んでいくと分かるが、「触れる」と断わっていない作品も多数取り上げていて、文脈によってはネタバレに限りなく近づいている感触がする。地雷を踏まないように時に慎重に、時に早足で駆け抜ける細心が必要だ。僕はと言えば、結果的にクロフツの評論で一頁読み飛ばしただけで、のこりは読んでしまった。おかげでハメットやシムノン、アイリッシュなどの未読作品の結末を知ってしまったが、あまり惜しくない。ハメットやアイリッシュは謎解きに主眼がないと著者の文章でわかるからだ。なにより大傑作「幻の女」だけは読んであるし。

 しかしアイリッシュは謎解きが主眼ではない作品(過程のサスペンスを味わう作品)という意味でネタバレにあたらないと思ったのだろうか、物語の結末を明かしてるにも関わらず前もって<ことわり>を入れていない。やはりこの本は地雷が多そうだ。気をつけるべし。

 興味深い内容をいくつか挙げてみる。「緋色の研究」でデビューしたドイルが、長編「緋色…」や「恐怖の谷」「四つの署名」でなぜ繰り返し秘密結社やギャングを描いたのか。「緋色…」で不評だった〈謎解き〉と〈伝奇物語〉の二部構成を「恐怖の谷」で再び試みたのは何故か。これについては、後段が西部劇を下地にしているのだという指摘は面白かった。

 つまりは「血の収穫」で西部劇を現代的に焼き直したハメットのようなハードボイルド作家たちが興味を抱いた部分と、ドイルの書きたかった冒険小説に対する欲求とは同じところに収斂していく。だから一見すると古くさい<伝奇小説>に見える「緋色…」とアメリカ・リアリズムの代表作「血の収穫」とは通底しているのだ。<緋色>と<赤(血)>」の距離は思いの外近いわけだ。

 こういった新たな発見は、著者も言っているように作品や作家に溺れている当時では気づきにくいものだ。時間が経って自らの作品の興味も動いたり広がったりしている。その上で再び古典的な作品を歴史的な視点も加味しながら同時的に読んでいくと面白い発見がおこる。

 例えば、本格推理小説が黄金期を迎え、ピークを過ぎたあたりからリアリズム小説であるハードボイルド作家たちが台頭してきたというように長い間考えられてきたが、実はハメットなどはクイーンやクリスティと同時期。いやヴァン・ダインなどよりもデビューは早い。つまり本格ミステリーもハードボイルドも平行してそれぞれのピークを迎えた。ただ本格の黄金期が先に凋落していっただけの事なのだ。

 では何故クイーンは息の長い作家活動を続けられたかというと、悲劇四部作では推理と変装が得意な古きタイプの探偵を早々に葬り、国名シリーズの終わりとともに〈謎解き〉からも微妙な距離を取るように変わっていったからだ。クイーンは〈国名シリーズ〉以後、推理や論理を追求するよりも、それらをもたらす人間の〈理性〉の方を重視したという指摘はなかなかうがった考えであなどれない。

 さらには「クロフツがアリバイや時刻表トリックの作家だ」というのが俗説だと断定するに至っては、「おいおい、そうなのか」と今まで読まなかった事を後悔してしまった。著者によれば、確かに「樽」には「時間に関する圧倒的な錯綜ぶり」が見られるが、小説として見れば見事な「警察小説」「集団小説」だとしている。おまけに以後の作品も、アリバイは物語を描くための小道具にすぎない。つまりはクロフツは面白い!

 さて本書は試みとしては総じて面白いのだが、著者のアプローチや文体には不満が残る。以前「ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18」というオムニバス評論集で著者のヒーロー論(「女嫌いの系譜、又は禁欲的ヒーロー論」)を読んだとき、これはまともに読めないなと感じた。ごりごりのフロイト論者で、エディプスコンプレックスなどを単純に呑み込んだ上でヒーローの性格を精神分析していた。どうも眉唾にしか思えなかった。本書でもそういう記述に突き当たる。<誰しもエディプスコンプレックスを持っている>みたいな書き方をされると鼻白んでしまう。だいたいが著者の論の進め方は、本格ミステリーの<謎解き>に模して一見論理的のように見えるかもしれないが、実は<大いなる印象批評>と言っていいものだ。

 もともと雑誌の連載のために、黄金期のミステリーをたっぷりと再読したと著者は言う。クイーンの評論を書くのに長編を全作読み直したそうだ。そのうえで若き日に読んだ作品と探偵、作家自身についての印象を修正してゆく。つまり印象が先にあって、辻褄はあとから付けていく。

 批評家・柄谷行人がどこかで、<直感>もしくはインスピレーションが先にあって、意味付け(辻褄)は後から考えればよいと言っていた。確かにこの方法によって意外性に富んだ彼の評論が生み出されるのかもしれない。しかし同じく批評家の福田和也が柄谷についていみじくも分析していたように、きらびやかで精緻な論理にめまいのような恍惚を感じるけれども、そこに書かれている事はデタラメで何一つ事実と違う、というおかしな事態になってしまう。

 もちろん本書では精緻な論理などはない。新たに得た印象をどこまでもどこまでも広げていくだけだ。だから最初の印象に対して論拠となる物証を求めて作品を食い散らかす結果となる。最初の印象に共感できる場合はそれでもいいのだが、最初の印象に違和感がある場合には著者がどれほど論拠を挙げていっても論理で納得させてもらえない不満が残る。つまりは辻褄合わせにすぎないんじゃないかと思ってしまう。

 また文体もかなり読みづらい。翻訳なども手がける著者が採用するのは、いわゆる<翻訳調>と呼ばれる文体だ。ただの翻訳調ではない。しばしば批判の的になる<直訳調>と言われる文体を多用する。最初のうちはこのようにしか書けないのだと思っていたのだが、後半の「エリック・アンブラー問答」などの文章では使われていないから意図的に使用しているらしい。一例を挙げよう。

 ドイルから本格的に始まった、主としてイギリス型の「謎とき」探偵小説…理知的な「探偵」が「論理」や「推理」で「事件」を解決するそれへの、アメリカ的、あるいは「小説」的なアンチテーゼとして生まれた、あの「ハードボイルド・ミステリ」…タフな「探偵」が「行動」で、場合によっては「暴力」で事件を解決するあれは、あきらかに「西部小説」を母体としている…これはすでに常識だからなのだ。

 テン(読点)が多用されてどういう係り受け関係なのか見えにくくなっているし、リーダー(…)も多用されるから挿入の範囲が分かりにくい。しかも「…を解決するそれへの」とか「…を解決するあれは」というのは、まさに関係代名詞の構文を直訳した下手な翻訳に現れる文体だ。「〜するところの…」というやつだ。

 なぜ日本人である著者がわざわざ日本語の文章を<直訳調>にするのか分からなかった。読み進めるうちに分かったのだが、この文体からは著者の感情の高ぶりというものが伝わってくる。要するに<面白い!>とか<つまらない!>などの感情の起伏をこの直訳調の文体にのせているのだ。講談師が息せき切って話すような文章の勢いに乗れる読者ならば、もしかしたら著者の文章のまずさも気にならないのかもしれない。しかし「日本語の作文技術」の著者・本多勝一に言わせれば<書き手が笑っている最低の文章>という事になりかねない。面白い事を伝えるのに書き手が笑っていてはいけない。読み手が白けてしまうからだ。

参考
 ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編 (その3)
posted by アスラン at 17:52| Comment(0) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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