2011年11月16日

日本文学盛衰史 高橋源一郎(2005/05/04読了)

 あれからまたぶっ倒れてしまった。今度は熱は出ないが体がダルダル〜。
寝れば寝るほど体が重くなる。これが肉体疲労というものか。それほど無理をしてたという事だな、冬からこっち。

 そんな時、漱石の「修善寺の大患」や源一郎の「原宿の大患」を読むのは当を得た所作と言ったところだろうか。などと熱に浮かされたような事を言っても仕方ない。熱ないし…。

 二葉亭長谷川辰之介の葬儀から始まる。二葉亭四迷は、著者曰く「文学の『精神』と『文体』の両方を作った男」だ。当然ながら、そこには彼の業績から恩恵を受けた作家多数が列席する事になる。

 漱石は、初めて会う事になる鴎外に「娘たちにたまごっちをせがまれてるんですが、手に入りませんか?」と声をかける。すると鴎外は「娘の茉莉に聞いてみましょう」と生真面目に答えるのだ。一方、啄木石川一は朝日新聞からもらった月給を、その日のうちにAVや女子高生との援交に費やしてしまう。田山花袋は、ついにアダルトビデオの監督を依頼されて断れない。

 以上の文章は決して荒唐無稽なナンセンスではない。「文学がこんなにわかっていいのかしら」を書いた著者の、まさに計算された戦略なのだ。

明治文学は退屈だ。それは決して作家の責任ではなく、世界が縮んでしまったからだ。


 高橋源一郎が繰り返す「退屈」という言葉は、だから決して当時を生きた人々を貶める言葉ではない。明治文学を再生するにはどうしたらいいか。それには明治でもあり平成でもある共時的な時空間に、すべての作家と作品を移動してしまえばいいのだ。そうすれば、

なんと啄木の苦闘は美しいのか。
花袋の遅れた才能は悔しいのか。
早すぎた透谷の天才は悲しいのか。
独歩の文体創造の瞬間が感動的なのか。
藤村の一人勝ちはいやみったらしいか
美妙の早枯れは哀れなのか
清白に夜雨とは何者なのか


がわかるというものだ。

そして何よりも

 なんと、明治の文学を読みたくなる本なのか、こいつは!
(2005/5/6初出)
posted by アスラン at 12:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Posted by takoyo at 2005年05月08日 03:36
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