2007年02月20日

夜露死苦現代詩 都築響一

 フジテレビで放映中の「ヒミツの花園」というドラマ。釈由美子が主演という以外に内容は知らない。彼女を取り巻く世代も風貌も違った個性的な男性陣との心あたたまるドラマ、のような気がするが当たっているだろうか。だとするとこれは70年代に人気を博した榊原ルミ主演の「気になる嫁さん」とかのテイストなのだろうか?違う?まあ、見てないからどうでもいいや。

 ドラマの話は実はどうでもよくて、釈を取り巻く男性で小劇団出身ふうの個性的な俳優さんについて触れたかったのだ。名前は知らない。いずれ貴重なバイプレイヤーとして活躍する予感を感じさせるので、取りあえずは放っておこう。

 肝心なのは「めざましテレビ」の取材で最近ハマっているものとして「点取占い」を挙げていた事だ。そうか、こういう人がコレにハマるんだな。なんかこの人は街を散策してビビッとアンテナに引っかかるものがあると興味を持って楽しめる人じゃないかなぁと感じた。それは自分に似ているからそう感じるのかもしれない。

 この占いが本書で紹介されている。占いといってもゲームの一種でもあり、いろんな言葉に点数が付いていて幾つか引いて点数を加えて吉兆を判定する。書いてあることは「(近いうちに)いいことがある」「(悪いことがありそうなので)これこれをしてください」みたいな通常の占い(おみくじ)とはまったく異なっている。

 例えば「なわとびは下手です」という唐突な宣言だったり、「皆がよろこぶ事は何ですか」という問いかけだったりといろいろだ。思わず誰が下手なんだよとか聞いてどうするのとか、ツッコミをいれたくなる。いや、あまりの脈絡のなさに一瞬固まってしまう。

 種明かしすると、これはかつて駄菓子屋で売られていた遊びで、駄菓子屋向けの玩具を作る会社の社長自らが数百におよぶ文面を一人で創作したらしい。だからなわとびが下手なのは、やっぱり書いた当人(社長)なのかもしれない。

 著者は点取占いの<遊びとしてのつまらなさ>を指摘しながらも、作者の人柄が透けて見えるような素朴で雑然とした文面に惹きつけられる。その文面には単に面白いというだけでは足りない<何か>が存在している。それは言ってみれば現代詩としか名付けようのないものじゃないか?そう著者は考える。

 そんな著者の目には、点取占いの他にも意外なところに<現代詩>が潜んでいるように見える。それは例えば、ある寝たきり老人が絶えずつぶやく独り言だったりする。日々面倒を見る看護師が書き留めた老人の独り言は文法も文脈もメチャクチャであるにも関わらず、文体は不思議な魅力を持ち、予期せぬ一片の真実を浮かび上がらせる。これに<胡桃の城の山頭火>と言い得て妙なタイトルを付ける著者が考えているのは、シュールレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンが主張した<自動筆記>の現代版だ。

 すると著者の目の付け所の一端が見えてくる。プロとも言うべき詩人が作る現代詩を、もはや誰も読まないような現代において、詩だと意識する事なく無作為に発信された言葉の中にこそ<詩>が隠されている。そのとき<詩>が本来持っているはずの、物語を経由せずに直接大衆の感情に訴えかける力が、実に分かりやすい形で提示されているではないか。

 そうした著者のまなざしから見いだされた<現代詩>は、男性器と女性器を本尊とした小さな神社の参道に飾り付けられたお色気俳句だったり、寝たきりの息子を抱えて餓死の道をたどった母の壮絶な日記だったり、暴走族が学ランなどに刺繍する一世一代の「愛羅武勇」だったり、はたまた分裂症の青年が紡ぐ「言葉のサラダ」だったりする。つまり著者の言う<現代詩>の分かりやすさの一端には、人間の無意識が生み出す予想外の言葉や、本人が意図せずに剥きだしとなった深層心理が立ち現れる。

 それを面白いと一言で言ってしまえば、対象となった人々や著者自身にも失礼かもしれない。しかしここには人間という個々の精神の、意外ではあるが<分かりやすい>あり方がいくつも紹介されているのだ。それゆえに、どのエピソードも僕らの心情にダイレクトに響いてくる。

 もう一方で、著者のアンテナに引っかかってくるのは、プロが生み出す伝統芸のようなものだ。例えばアメリカの他民族社会という状況が生み出したヒップホップという現代詩を奏でる若きスーパースターたちや、分速360字で歌謡曲を言葉で語り尽くす玉置宏、見せ物小屋に人を呼び込む口上など、いずれも言葉のシャウトから生み出される白熱したライブ感覚に、著者は<現代詩>の存在を感じている。

 どのエピソードも面白かったし、独自の視点で素材を見いだす著者のセンスには感心させられた。文句の付けようもないところだが、ちょっとだけ引っかかる事がないではない。それは著者の考える<現代詩>の分かりやすさについてだ。著者はもちろん詩人ではない。デザイン畑の人間なので、本当のところを言えば「詩とは何か?」という事に関して何か言いたいわけではないだろう。だからここで言う<現代詩>というのが<詩のようなもの>という意味であるならばそれほど問題にするには当たらない。

 しかし、先ほどの二極の分かれた<現代詩>、すなわち詩人でもなければ玄人でもない人々の無意識から生み出された言葉と、その道のプロと言われる人々から生み出される話芸としての言葉との間には、素人の素人らしい面白みの欠けた言葉とプロの手あかの付いた言葉とが山ほどあるはずだ。となると、その境を決めるのは何だろう。街中にごろごろとしている看板に踊るへたくそな言葉も<現代詩>になりうるのではないだろうか?または、日本のヒップホップは名ばかりのJ−POPに過ぎないと揶揄する著者には、もはや埋もれてしまった歌謡曲という日本独特の文化の堆積がJ−POPという状況を生み出したとは見えないのだろうか?

 いや、何よりヒップホップがアメリカの社会状況が生んだ<現代詩>と見えるならば、J−POPは歌謡曲という精神の意識下で生まれた素人たちの<現代詩>なのではないか?いちゃもんをつけているわけではない。ただ、著者の言う<現代詩>の分かりやすさの中に、J−POPが外され、相田みつをが取り上げられるところに一抹の危うさを感じるのだ。ひょっとして著者には資本主義社会が生み出す大衆向けプロパガンダに対しての反感があるのではないか?

 だとすると、詩人がわかりにくい詩を経由して表現せざるをえない状況をどう考えるべきだろう?以前、荒川洋治「詩とことば」を読んだ時に、彼は次のような意味の事を書いていた。

 現代詩とは、いや詩とは極めて個人な内面を反映したものであって、だからこそ読者の心を不安にさせずにはおられないものだと言う。ならばそうそう詩は読みやすいものであるはずがない。「相田みつをの詩は読みやすいよ」という世間の言葉を、あれは一言で言い切った意見みたいなもので詩というほどのことではないと片付けていて面白い。(「詩とことば」の読後感想から)


 相田みつをの詩が体や心に悩みを抱えた大勢の人々に切実に訴えかける力を持っているという現実をどう考えているのか。相田みつをの詩に力づけられる人々に<あれは詩でもなんでもないよ>などとどうして納得させられるのかと、著者は詩の分野の専門家たちの不見識を問いただす。だが相田みつをの<分かりやすさ>とは有無をも言わせぬ正論であり、「平和」とか「自由」とか「愛」という言葉を旗頭にして何かを語る時の、否応のない押しつけに感じる事に、著者は気づいているだろうか?

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posted by アスラン at 03:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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