小林信彦が「坊っちゃん」を題材にして小説を書いている(もしくは書いた)と聞いてぜひ読んでみたいと思った。あの小説を「うらなり」の視点で描き直すという事も聞き及んで、一体どんなストーリーになるのだろうと興味津々だった。
読み出して、まず舞台が昭和9年の東京で、いまや老人となったうらなりこと古賀と、山嵐こと堀田との再会場面から始まることに意表を突かれた。時代は明治ではない。しかも舞台は松山でもない。これは一体どういうことだろう。
なるほど、うらなりは赤シャツたちの画策で住み慣れた故郷を後にしたし、山嵐は主人公とともに赤シャツと野だいこに鉄槌を下して松山を去る。邂逅するとすれば東京しかないのかもしれない。
それにしても松山ののどかさもなければ、登場人物たちの若々しさもない。「坊っちゃん」を青春小説と見なすのにはもちろん異論があるだろう。だが、無鉄砲を繰り返す主人公も、正義漢をきどる山嵐も、奸計に甘んじるうらなりも、そして財力になびくマドンナまでのすべてが典型的なタイプキャラクターにも関わらず、そのことに読者が寛容でいられるのは、若さゆえのあやまちが爽快に思える一種の青春小説として多くの読者に受け入れられたからだろう。
しかし、タイプキャラであったはずの人物が生身の人格を与えられ、さらには明治を遠く置き去りにした昭和になってなお、過去を引きずったまま生きているとしたら、そのことに僕らは寛容ではいられない。僕らはそれを醜悪と呼ぶ。
だから、この小説は一人称話者の心情を反映した沈鬱な雰囲気を全編に満たしたまま語られる。これはもちろん作者が考えた「坊っちゃん」の爽快さへの批評に他ならない。
所詮「坊っちゃん」の爽快さというのは、江戸っ子気質の無鉄砲さと後先考えない思慮の足りなさを体現した一青年に対する理解がなければ成り立たない。ましてや作者(漱石)に松山という風土を貶める意図はなかったにしても、明らかに都会(東京)から来た人間の思い上がった考えが地方(松山)の土地柄や人柄を見る眼差しに反映している。
ならば「坊っちゃん」の爽快さをそのまま許容できるかどうかは、まさに松山から姫路へと地方で生きる事を強いられた人物の内面で語らせてこそ公平だと言えるのではないか。著者は、あえて醜悪と後ろ指さされるのを承知のうえで、かつて一方的にうらなりと名づけられた男に遅ればせながら当時を詮索させる。
「彼岸過迄」で<探偵>が重要なテーマだったが、本作でもうらなりは山嵐を通じてあの頃の事情を聞き出そうと探偵の真似事をする。当時は細かい事情を知らされず、また知る事を潔しとせずに彼は松山を去ってしまった。今となっては当時の事は山嵐に聞く他に手だてがない。
そもそもうらなりにしてみれば、山嵐は当時から自分のために力添えしてくれたと恩義を感じているが、一方で御しやすい人物でもあるため探偵するにはもってこいの人物だと考えてわざわざ会う事にした。しかし山嵐と言えどもあまり詳しい事情をもたらす存在には描かれていない。マドンナのその後があまり幸せな人生と言えない事がうらなりにとってせめてもの良い知らせと信じて話すが、うらなりにしてみれば幼なじみの性格も考え方も最初から十分承知していた。
強いて言えば、今の彼女があの頃の無頓着さそのままに幸せになっていて欲しいと願っていたのに、現実は異なり彼女の無頓着ささえも月日は醜いエゴに変えてしまっていた。うらなりは決して積極的に物事を変えたがる人物ではないが、著者が描きたかったポイントの一つは、美女(マドンナ)に惑わされた挙句に見限られた軟弱な男という世間一般の見方から彼の名誉を回復することだった。
さらにもうひとつのポイントは、もちろん坊っちゃんの一方的な思い上がりを挫く事だ。実は、終盤で坊っちゃんとうらなりの再会(対決)場面がクライマックスとして用意されているのかと思ったのだが、それはない。そのせいで最後までうらなりの沈鬱な低奏音は途切れることがない。そして唐突に作品は終わる。
「坊っちゃん」の主人公に意趣返しのように<五分刈り>というあだ名を付けていたと、著者はうらなりに告白させている。大人げないと坊っちゃんの素行は陰で冷たい視線を投げ掛けていたくせに、あだ名の意趣返しは大人げなくはないとでも言うのだろうか。
しかし著者はうらなりに五分刈りに対する深い思い入れを与えてはいない。要するにうらなりにとっては、五分刈りはホンの一時期関わりをもっただけの無用の人物に過ぎない。ただ、何故彼があれほどまでに自分の境遇に同情し、肩入れしようとしたのか、うらなりには現在にいたるまでよく解らない。
この二人の心情のすれ違いは、互いのタイプキャラクターの性格の曖昧さを照らしだすが、同時に作者・漱石と無数の読者とが共有してきた通念の曖昧さをも浮き彫りにする。
五分刈りのうらなりに対する肩入れは、うらなりにとって一言で言えば「いらぬお節介」にすぎない。正直言えば人生のたそがれを迎えるまで五分刈りの事を気にとめた事もない。そもそも理解不能な人物だったのだと納得するだけだ。
そう考えると、うらなりと五分刈り(坊っちゃん)との再会場面がないのもうなづける。著者はうらなりという一種陰気な人物を、坊っちゃんという一種爽快さを体現した人物との安直な対比から解放したかったのだ。
マドンナの件で優柔不断な人物像からうらなりを解放し、さらには五分刈りを登場させない事で「とるに足らない人物」と位置づける事が、うらなりの人生そのものを回復する有効な手段となる。だが、こうまでうらなりをクローズアップする動機が著者にあったのだろうか。
あとがきにかわる製作ノートのような文章が巻末に掲載されている。そこで著者は、漱石作品の中でも「坊っちゃん」を評価しない理由を書いている。特に主人公の一方的な行動や考え方にフォーカスが当たってばかりで、うらなり側の視点が不足しているのが同じ作家として「坊っちゃん」を心から楽しめない理由のひとつに挙げている。ただうらなりを主人公に据えた作品を書くというのは、たまたまの思いつきだったようだ。
この最後の打ち明け話にも似た文章を読んで、そうか、うらなりは著者自身なのかもしれないと思った。この文章の一人称話者である著者と、それ以前の「うらなり」という作品の話者とは、語る口調も陰鬱な雰囲気も共有しているように感じた。文章巧者の著者が素人読者にそう感じさせるような迂闊な作り損ないをするはずがない。とすれば僕が感じたのは、うらなりの資質に共振する著者の資質だ。
日本橋の老舗和菓子屋の息子に生まれた著者が、同じ江戸っ子の漱石の分身の心情を理解できないとは思えない。ならば思いつきではあるにせよ、著者には坊っちゃん(漱石)のようにメインストリームを歩んできたものに対する反感があり、本書を書かせるに至ったのではないだろうか。
人気記事
2007年01月30日
この記事へのトラックバック




ところで、この本は私に向いていると想われますか?読みたいような気もするのですが、誰かに肩を押されないと決心がつきそうにないのです・・・・。
おお、今年は今のところいい勝負みたいですね。頑張ろうっと!
ところで「うらなり」ですが、漱石好きならば読んで損はないと思います。ちょっとあっけない終わり方でもうちょっとうらなりのその後を読みたい気がしました。
たぶんあっという間に読める分量なので、オススメしてもいいかなと思ってます。