2007年01月25日

バッテリー あさのあつこ

 読みにくいな。雑念が入る。

 すでに「バッテリー」は読み終えて「バッテリー2」を借りて読み出したところなのだが、あんまり楽しくない。文庫で第4巻まで出ているから借りられる時にどんどんと借りて読み継いでいけば、あっという間に読み終えてしまうだろう。そう思ってた。かなり人気があって、それも少年少女たちだけでなく大人にもファンがいる作品だと聞いているので、なおさらあっという間に読めるくらい面白いのだろうと思っていた。だから正直読みにくい本だと知って自分でも意外なのだ。

 著者のあさのあつこは、本当に少年少女の内面にフィットした小説を書きたいと思っていたとあとがきで書いている。近年多発する少年犯罪の影響で、若い母親たちが自分の子供の心のうちすら見えないとうろたえる会話を耳にしたのが「バッテリー」を書くきっかけだと言う。若い母親たちの会話の何に苛立ったかと言うと、少年たちをいつまでも子供扱いしかできない彼女らの不見識と、子供らしくない様々な感情をもっていると気づいたとたんに一人の人間として扱う事もできない未熟さに他ならない。

 そんなもんじゃないだろう。すべての少年少女が心の闇を抱えているのではない。ましてや自分の育てる子供にさえ疑心暗鬼するとは、一体少年の心をなんだと思っているのか。そんな事も分からずに子供を育てているのかといういらだちは、男の子二人を育てる著者自身が母親として自らに問うてきた信条ゆえのいらだちだ。

 だから本書は、息子達にあてた格別な思いを結実させた物語とも言える。もしくは子供を徹底的に子供を扱いする大人たちには手頃な、素直すぎる良い子たちが精一杯努力して成長していくという従来からよくあるパターンの物語に対して、作家として出した答えとも言える。

 ならば、少々ひねくれていて冷めた目で大人達を見つめる少年が主人公の物語があっても、もちろん構わない。もちろん構わないのだが、それが中学生や高校生ならまだしも中学にあがろうとする小学生だというのなら話は別だ。そんな小学生が本当にいるだろうか。

 いや、世知辛い世の中になると同時に、子供にとっても情報化時代の恩恵(または弊害)は多分にあるだろうから、子供が大人の生き方を批評する事がかつてよりも多くなってきていることは確かだろう。大人が言い訳をしなければならないドラマが増えている事も確かだ。しかし、それもこれも思春期という神話が生きているからだ。

 良い子すぎる少年たちが友情とチームワークを育んで勝ち上がっていく「キャプテン」のような漫画が従来のスポーツドラマの典型だとすると、最近の「メジャー」のようにかなり型破りで気ままで時としてチームワークからは逸脱するような主人公が出てくるのが今時の典型だろう。

 素朴さがなくなったのは今の世の中を反映した少年少女の生き方だからやむを得ないにしても、「メジャー」に代表される今時の少年少女は、型破りではあるが大人とうまく折り合いを付けられるくらいには物わかりの良さを持ち合わせている。これが真の少年の心情を言い当てていないというのなら、スポーツをテーマにした物語の主人公の生き方そのものが嘘くさいと言うしかない。

 「バッテリー」の主人公の二人の少年・巧(たくみ)と豪(ごう)は、大人に対する批評(批判)を身につけているだけでなく自分自身も人に頼まない大人ぶった処世訓を身につけている。

 例えば、母方の祖父がかつて高校野球の監督をしていた頃の教え子を打席に立たせて、主人公の少年・巧が投手としての実力を見せつけようとする場面がある。巧は「どうして大人って鈍感なのか」と心の中でふてくされる。

 どうして鈍感なのか、あれほどさっき投球練習で人並み外れたストレートを見せつけているのにもかからわず、まだ子供だと侮っている大人とは一体なんだと。

 それは同時に、同じ鈍感さを共有している父や母に対する苛立ちにも繋がっている。だからこそ、巧は親にも自分の内心を素直にさらけだす事ができないし、素直さを求めてすりよってくる父母の下心が見えすぎるほどに見えてしまい、結局は心を開こうとはしない。

 この考え方そのものが「やはり子供だ」と言ってしまえば話はつまらなくなってしまう。そうではなく、このニヒルでシニカルな考え方は直感的で頭の回転が速い天才型の人間にはありきたりの思考であって、こう思考する限りすべては自分ひとりで背負い込むしかない。大人も子供も区別はないのだ。

 僕が冒頭で雑念が入って読みにくいと書いたのは、まさにこの少年の設定なのだ。これが本当に一人の少年として真実を突いていると言うのなら、なんと自分の少年時代の愚かしかったことか。周囲の物事の何もかもが見えるとおりにしか見えなかった自分が情けなくなってくる。自分の「素直さ」が大人から見た都合のいいものだと気づくのは高校生になってからだ。それまでは、ただ自分ひとりでは不安で不安でしょうがなかった。あれは一体なんだったのか。

 そんな事にいまさら動揺させられるのは、生き方の核となる部分はおそらくこの時期に形づくられるとうすうす分かっているからかもしれない。このとき、もし巧や豪のように物事が見えていたら、もし人に頼まない自立心を身につけていたら、自分はもう少し確固たる生き方を歩んできたのではないか。そんな馬鹿なことを考えた。この歳にもなって、まったくアホだ。

 しかし、このアホな雑念に理由がないわけではない。著者が描きたかった少年少女の真実には、巧のようなキャラクターが是非とも必要だったのだ。そうでなければ、子供を侮って裏切られるあの未熟な親たちにはびこる世間一般の少年に対する偏見に打ち勝つ事はできない。著者は偏見に充ち満ちた少年時代に巧という強烈なキャラクターを放り込みたかったのだ。

 だから敢えて言おう。彼は少年ではない。少年の皮をかぶった青年、いや一個の人間なのだ。だとすると僕の雑念も説明されるし解消される。圧倒的な存在感をもつ人間の前には、平凡な人間は愚かに恥じ入るだけだから。

 しかしもう一言付け加えるならば、巧は著者の母親や作家としての視線から生み出されたキャラクターというだけではなくて、著者自身が生きた少女時代のシニカルな感情が入りこんでいるはずだ。そうでなければ、巧があれほどに少年らしくないはずがない。

 イチローも中田秀も巧のようではなかった。事実を確かめたわけではない。かつては少年であった僕の確信である。

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posted by アスラン at 12:49| Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。
なんとなくマーサミーツボーイズを検索してて飛んできました(笑)すごくいい読み方をしていますね。あなたがまるで登場人物のように巧に翻弄されている様が面白かったのでコメントしてみました。
Posted by かとう at 2007年02月04日 07:56
かとうさん、コメントありがとう。

翻弄されました(笑)。
バッテリー2が途中で返却になってしまったんですが、いずれ再チャレンジしたいと思います。

それにしても「マーサ・ミーツ・ボーイズ」の方もごらんいただいたようで、こちらの方が嬉しいですね。僕の好きな映画です。
Posted by アスラン at 2007年02月05日 02:52
五年前くらいの深夜のBSでやっていて、当時中学生だったんですけど、初めてまともに恋愛映画を見まして、見事ポッターに落とされました。ほとんど恋愛モノは見ないけど、自分史上では一番好きです。
Posted by かとう at 2007年02月05日 10:00
中学・高校の時期に出会った恋愛モノの映画っていうのは、大げさにいうとその後の自分を決定してしまうくらい大きな意味をもつことがあります。

大げさに言わずに小声で言うくらいにしても、映画好きを決定的にしたのは僕の場合は高校生当時に見た「フォロー・ミー」という恋愛モノでした。

別に「マーサ・ミーツ・ボーイズ」ととりたてて関連はないですが、<恋愛する>ということが<同じ時に同じ場所で同じものを見る>ということと同義だということを、この二つの映画は教えてくれます。
Posted by アスラン at 2007年02月15日 02:34
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