2007年01月14日

ひとかげ よしもとばなな

 テレビで「この小説のタイトルを見て何かお気づきになったでしょうか?」みたいな紹介をしていた。その時、僕は本作が著者の『とかげ』という作品のリメイクだと初めて知った。『とかげ』?読んだ事あっただろうか?牧瀬里穂主演で映画化された作品がそうだったっけ?相米慎二監督の?いや市川準か。いやいや、あれは「TSUGUMI」だった。結局「とかげ」は読んでいない事が読み出してからすぐにわかった。

 本文の前に著者が用意した「はじめに」は、前作に思い入れのある人の「なぜ、書き直したの?」という非難ともとれる意見に先手を打って答えたものだ。しかし僕のようにそもそも前作を読んでいない人間には、一部の熱狂的なばななファンの詮索も、それにたいする著者の予防線も意味がない。著者は前作を読み返して「なかなかいい作品だな」と思ったと書いている。その上で、いまの著者は、若いときに書いたこの作品は「(主人公の)私の職業意識が甘い」し「ふたりの過去の体験が誇張されすぎている」のが気になったのでリメイクを決意したと正直な気持ちを告白している。しかしこれも、僕にとってはとりあえずこだわる必要もないことだ。

 ただしこの著書には、あえて前作『とかげ』とリメイク版『ひとかげ』を比べ読みしてくださいと迫る仕掛けがある。『ひとかげ』に続いて『とかげ』が収録されているのだ。つまりは僕のように前作を読んでない人間にとっても二つの作品でどのように話が成長したのかに無関心ではいられない仕組みになっている。

 オリジナルとリメイクを一緒に収録するのは、もちろん著者の意向というよりは出版社の戦略だろう。ただ、この戦略によって2つの作品の違いを意識するだけではなく、「吉本ばなな」から年齢を重ねて妻となり母となった今の「よしもとばなな」とでは、何が変わったのかを意識せざるを得なくなる。

 まず冒頭の一行がこう変わる。

 この文章の中で彼女をとかげ、と呼ぶ。(『とかげ』)

 私の心の中での彼女の名前は「とかげ」だ。(『ひとかげ』)
 

 何気ない変わり方をしているようだが、決定的な何かが変わっている。なんだろう。

 まず文体の違いだ。『とかげ』の方は、これから語られる物語がとかげと呼ぶ女性についてだという事を、多少突き放した感じで客観的に説明している。一方『ひとかげ』の冒頭では、「私」のとかげに対する思い入れが「とかげ」という名前に込められている事が、読者に分かるような表現に変わっている。客観的な冷静さは薄まり、多分に「私」の心情が表に出ている。

 この文体のシフトは『とかげ』と『ひとかげ』の全体にわたって見られるもので、結果として二つの作品は骨格が同じでありながらだいぶ違った印象を与える事になる。

 この選択は作家よしもとばななによって意識的におこなわれたものであり、作家吉本ばななの痕跡を意図的に消してまわる行為といっていい。これは「はじめに」で著者自身が指摘している若書きの未熟さを、成熟した今の著者が修正したと言えなくもないが、実は文体に成熟は見られないのだ。

 変な言い方だが、文章は『ひとかげ』の方が下手になっている。吉本ばななの文章は「癒し」のテーマを扱っているため、一見すると感覚的で誰でも書けそうな文体だと思う人もいるかもしれないが、実際には父ゆずりと思えるほど論理的な思考で生み出された文体である。端正という表現は著者の文章には似合わないが、著者は強い意思で選択した表現を用いて整然と文章を組み立てている。

 もちろん学生の頃から習作を行なってきたために、短編作家のように表現を作り込んだり磨いたりする習性が身についていたのかもしれない。初期の作品には、時代の雰囲気にマッチした柔らかさ・しなやかさと、強い意思で選び取った骨太の思想とが同居していた。その奇妙なアンバランス、もしくはミスマッチが作家吉本ばななの持ち味だったと思う。

 ところが最近のよしもとばなな作品、例えば「デッドエンドの思い出」とか「王国」シリーズなどを読んでもそういうミスマッチは感じられなくなった。作家として安定したという事かと思っていたが、どちらかというと妻や母になり、生き方の問題が著者の中で自然と変わっていった結果なのかもしれない。そのゆるやかな変化の中で、今の文章からは以前のような骨太さはなくなった。

 文体は著者の信条に合わせて変化を遂げて、きちっと言葉を選んで作り込むという事にこだわらなくなったような感じがする。文章が下手になったと言ったのはこのことで、スピリチュアルなテーマが多くなった事と無関係ではない。「王国」のヒロイン・雫石ではないが、頭で考えるより先に見えてしまうことがあり、見えてしまう事より先に感じてしまうことがある。ならばじたばたせずに感じたままに書けばいい、とでもいったような無造作な文章になった。

 作家としてのテーマも文体も今の時代にマッチしている事は言うまでもないが、「キッチン」「白河夜船」などを愛する僕としては「吉本ばなな」らしさが薄まったことが残念ではある。しかし強い意思だけは文章から相変わらず感じるのが救いだ。願わくば、それが作家としての「かたくなさ」になってしまうことだけは避けて欲しいものだ。

 ところで『とかげ』はJRの車両の中吊りに掲載された「中吊り小説」だったそうで、短編と言っていい。今回のリメイク版『ひとかげ』は、登場人物の心理描写を詳細に描き出すために中編になっている。文体のゆるみと同時に、中編に物語を広げたために文章の切れ味は失われたが、一方で「とかげ」にしても「私」にしてもキャラクターの造形がふくらんで、二人の運命的な出会いが必然である事がより分かりやすい形で提示されている。好みは分かれるかもしれないが、『ひとかげ』の方が主人公たちに感情移入しやすい分好感がもてる。

 最初に冒頭の文を引用したが、もう一度ここで引用しよう。

 この文章の中で彼女をとかげ、と呼ぶ。
 そう呼ぶのは、彼女の内ももにちいさなとかげの入れ墨がしてあるからではない。(『とかげ』)

 私の心の中での彼女の名前は「とかげ」だ。
 そう呼ぶのは、彼女の内ももに小さいとかげの入れ墨がしてあるからだけではない。(『ひとかげ』)

 
 ドキッとさせられる。なぜ彼女を「とかげ」と呼ぶのかについて、前作では「内ももにとかげの入れ墨があるわけではない」と詮索好きな読者の不用意さをピッシャリと封じている。しかしリメイク版では入れ墨があるにはあるが、「それだけで」とかげと呼ぶのではないと書く。ここだけ読むと前作では「私」が「とかげは入れ墨をするような女性ではない」というモラルに囚われているが、本作では一転して「入れ墨という見かけだけで判断するな」という別のモラルを持つように性格が修正されたように読めて、一瞬ドキッとさせられるのだ。

 しかしその後、僕は誤読していたことに気づく。どちらの作品でも、とかげは「とかげの入れ墨」を内ももに入れている。『とかげ』の冒頭の表現が誤読を誘う舌足らずな表現だったのだ。

 『ひとかげ』では、「私」が内ももをちらっと見て気にかけていたことにとかげが気づいていたと言う台詞がある。だから『とかげ』『ひとかげ』のいずれにしても冒頭で著者が書きたかった事は、とかげの入れ墨をしている女性を、そのことだけで安易に「とかげ」と名付けたりはしないという事だった。「とかげ」という言葉には、は虫類の眼差しを持つ女性の孤独な寂しさへの理解と共感が込められている。

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posted by アスラン at 02:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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