2007年01月08日

中学生からの作文技術 本多勝一(その1)

 本書は、著者の労作である「日本語の作文技術」だけでなく「実戦・日本語の作文技術」を合わせた内容から、「中学生向けに骨格だけ再編した」そうだから、既に上記の2冊を読んだ人にも読んでない人にも大変お徳で便利な作文指南書である。

 本書の成立経過は、律義な著者らしく「おことわり」と題して本文の冒頭に詳細に書かれていて、実はもっと紆余曲折がある。僕が読んだ前述の2冊は、「日本語の作文技術」を土台にして「実戦…」の方を解体・分配してまとめた上で、「日本語の作文技術」のタイトルで本多勝一全集第19巻に収録されている。本書を読んで初めてこの全集の存在に気づいた。あらためてこちらも読まねばなるまい。さっそく図書館で予約したので手元にあるが、読み応えがあって楽しみだ。

 本書は「骨格だけ再編した」から「特に新しい部分などない」と著者はことわってはいるが、元々文庫2冊分ぎっしりと内容が詰まっていた著作だ。著者の性格からして無駄な事は何一つ書かれていないから、本書もただ単に抜粋しているわけではない。いやむしろ「骨格」を露にした分だけ、著者の狙いどころが見通しやすくなっている。

 悪い点もないことはない。見通しはいいが、本当に著者の主張を理解して技術が身につくまでには、ドリルのような反復練習が欠せないはずだ。それには本書の例だけでは不十分かもしれない。ならば本書を片手に実戦を積むか、あるいは引き続き文庫版2冊か全集を読んで勉強するのがいいだろう。

 もっとも、タイトルにあるように「中学生向け」に書き加えた部分があり、「何一つ新しいことがない」わけではない。冒頭で、著者が小学一年の頃に書いたという技術習得以前の文章を例示しているし、国文法で議論の多い「主語・述語」や「修飾・非修飾」は使わずに「かかる言葉・うける言葉」という用語を使う理由をいつになく優しく解きほぐしてくれている。これは中学生でなくともありがたい配慮だ。

 著者の主張する作文技術は決して複雑なものではない。いたってシンプルだ。しかしこのシンプルさは論理的な思考に裏打ちされたシンプルさであって、理詰めに慣れてない人は少々戸惑うかもしれない。

 「日本語とテンの打ち方」の著者は、本多勝一の作文技術を「理系の技術だ」と指摘しているし、他にも「理屈に偏り過ぎる」と書く本もある。また、斎藤美奈子は、自著「文章読本さん江」の中で著者の過剰な理詰めの文を「くどい」と切り捨てている。

 しかし、これらの指摘はあまり宛てにならない。そもそも本多勝一は理系畑の人間ではない。論理の展開にしても、理系らしく余分なものは一切排除しているというわけでもない。要するに「理屈っぽい」とか「くどい」と言うのは著者の粘着気質からくるものだ。著者の文体は、辛抱強く丹念に対象をとらえて離さない不断の努力によって生み出されている。前述の指摘のいずれもが著者の文体からうける印象を述べたに過ぎない。

 あの粘り強い文体がなければ、明快な単純化は生まれなかったはずだ。なのに、著者の成果を頂戴するだけ頂戴しておいて、安易に「著者の言わんとするところを言い換えるならば…」みたいに、さも足りないところは補足しましたと読者に錯覚を抱かせるのはフェアではない。斎藤美奈子にいたっては、文章読本でもない「日本語の作文技術」をあえて読本としてあげつらっているが、言いがかりも甚だしい。

 一方で、著者の作品は本書を含めて「わかりやすさ」を旨として書かれているという指摘もある。誰にでも習得できる作文技術について書いている著者だけあって、自らの文章にも厳密に技術を適用して「読む側に分かりやすい」文章を心がけている。

 だが、「わかりやすい」文章で著者の思考の流れが明確になり、著者の主張の一つ一つが明快になればなるほど、僕には逆に引っかかりが多くなる。一言で言えば、理詰めで展開された正論と著者個人の単なる嗜好とが、時としてないまぜに現れるのだ。こういうところは「殺す側の論理」「殺される側の論理」を以前に読んだ時に強く感じたし、違和感を感じるところでもある。

 でも、それはまた別の話だ。違う折りにでも一度書いてみたい。本書では、「中学生向け」に書かれているために、その傾向は最低限に抑えられている。

 では、著者の作文技術について紹介しよう。著者の作文技術のエッセンスは、3つのパートからなる。すなわち、
・かかる言葉とうける言葉
・かかる言葉の順序
・テンやマルの打ち方

である。だが重要なのは、これらが独立しているのではなく依存関係にある点だ。例えば「テンの打ち方」と「語順」は同時に考えるべき問題であり、語順によってはテンが不要になる場合が少なくない。ここら辺の案配を理詰めで分析したのは著者が初めてで、ほぼ独創と言っていい。

[かかる言葉とうける言葉]

・「文」は「かかる言葉」と「うける言葉」で成り立っている。
・「かかる言葉」と「うける言葉」は近いほどわかりやすい。
・「美しい水車小屋の娘」は「水車小屋の美しい娘」のほうが誤解されない。


 「かかる言葉・うける言葉」というのはいわゆる係り受けの事だ。これの便利な点は、日本語のほぼすべての文章の骨組みを文法的な身構えなしでかみくだくことができるという点だ。

 「花が咲いた。」(「花が」→「咲いた。」)
 「日本語の作文技術」(「日本語の」→「作文技術」)

 括弧内に書いたのが、<かかる言葉>→<うける言葉>という係り受け構造だ。言葉の繋がりも意味の繋がりも自然と流れるのが「係り受け」の特徴だ。

 ところで、これを少し複雑にすると次のようになる。

 「キレイな花が咲いた。」(「キレイな」→「花が」→「咲いた。」)
 「美しい日本語の作文技術」(「美しい」→「日本語の」→「作文技術」)

 ここでは「花が」が「うける言葉」になり、続いて「かかる言葉」にもなっていく。ここら辺までは問題ないだろうか。いや、ちょっと問題がないではない。後半の例は「美しい日本語」なのか「美しい作文技術」なのか、ちょっと考えただけでは分かりにくいとは思わないだろうか。この問題を説明したのが本書の「美しい水車小屋の娘」の例だ。

 「美しい水車小屋の娘」という言葉はドイツの詩人ミューラーの詩の邦訳だが、「日本語の正書法」という本の中で著者・小泉保が正しい日本語の例として取り上げている。これを著者は不十分な表現として以下のように指摘する。

 著者と「正書法」の著者の方法論は実は噛み合っていないところがあるのだが、そこが核心部分なので詳しく追ってみよう。

 小泉氏は、

 (小泉a)「美しい」→「水車小屋の娘」

という係り受けなので日本語として正しいし誤解もないと主張するのだが、本書の著者は、上記の解釈を認めない。

 (本多A)「美しい」&「水車小屋の」→「娘」

というのが正確な解釈だと主張する。その上で、「美しい」が「水車小屋の」を飛び越えて「娘」にかかろうとする語順を問題にする。もちろん「かかる言葉」が飛び越える事自体は、日本語にとって日常茶飯事の現象だ。

 (1)二階建ての水車小屋の娘
 (2)髪の長い水車小屋の娘
 (3)美しい水車小屋の娘

 (1)では飛び越えはないが、(2)は「髪の長い」が「水車小屋の」を飛び越えて「娘」にかかっている。しかし意味的に「髪の長い」が「水車小屋」にかかる事は考えられないので、このままでも特に誤解は生じない。この例の場合は、本多理論でも小泉理論でも結果は同じだ。しかし3番目の例になると食い違う。それは何故か。

 それは「美しい」が直後の「水車小屋」にかかる解釈があり得るからだ。つまり双方の論法で解釈すると、

 (小泉b)「美しい水車小屋の」→「娘」

 (本多B)「美しい」→「水車小屋の」→「娘」
 
となる。実は解釈論からすると、いずれの論法も一理あって甲乙はつけられない。ただし「正書法」の著者は(a)の解釈ができる事に満足して、(b)の解釈が同時に発生することに目をつぶってしまった。文章として正しいとは言え、誤解を生む表現である事は間違いない。

 本多理論の優れている点は、作文技術として文を改良できる点にある。(A)のかかる言葉の「美しい」と「水車小屋の」の順序を入れ替えて、

 (本多A')「水車小屋の」&「美しい」→「娘」

とすれば、全く誤解がない「水車小屋の美しい娘」という表現ができあがる。要するに「かかる言葉とうける言葉を近づける」という原則にしたがったわけだ。小泉理論では、改良について何ら積極的な指標を与えてくれない点に弱点があると言える。

[かかる言葉の順序]

・かかる言葉の順序には、四つの原則がある。
・「節」を先にして、「句」をあとにする。
・同じ「節」(または「句」)では、長い方を先にする。
・長さが同じくらいのときは、大きい内容の方を先にする。
・「長さ」も「大きさ」も同じときは、前後の言葉のなじみ具合で配置を変える。

 特に重要なのは最初の2つの原則だと著者は言う。

 日本語は元々語順に関して融通の利く言語で、

 「Aが」&「Bに」&「Cを」→「紹介した。」

という係り受けを文章で表現する際に、

 (4)AがBをCに紹介した。
 (5)BをCにAが紹介した。
 (6)CにAがBを紹介した。


のいずれも日本語として正しい。数学の順列で考えれば全部で6通りの表現が可能だ。ただし、この3つのかかる言葉にそれぞれ修飾語がつく場合には事情が変わる。

 「Aが」
 「私がふるえるほど大嫌いなBを」
 「私の親友のCに」 

を組み合わせると先ほどの(4)〜(6)は、

 (4')Aが私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した。
 (5')私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCにAが紹介した。
 (6')私の親友のCにAが私がふるえるほど大嫌いなBを紹介した。


となる。他にも3通りの表現が可能だが、(5')が分かりやすいのは実感できるだろう。これは「かかる言葉は長い順に並べる」という著者の原則に従っているからで、

 「私がふるえるほど大嫌いなBを」&「私の親友のCに」&「Aが」→「紹介した。」

 という並べ替えをした結果、読みやすく分かりやすい表現になった。

 もちろん、機械的な操作で簡単に読みやすい文章が必ずできるわけではなくて、状況に応じて先に挙げた4原則を使い分けていく事が重要だ。

 例えば前述の(3)の例などは、「美しい」という形容詞が、「水車小屋」にも結びつく事、つまりなじみ具合いがよい事を考慮して語順を変えたとも言える。4番目の原則に従った改良というわけだ。

 なじみ具合いがもっと深刻な例として以下の文章がわかりやすい。(著者が挙げた新聞記事の文を変更した。)

 (7)自分の生命を敬愛する太宰治に捧げた。

 これは、

 「自分の生命を」&「敬愛する太宰治に」→「捧げた。」

 という係り受けになるが、「生命を」と」敬愛する」のなじみ具合いがいいため、

 「自分の生命を敬愛する」→「太宰治に」→「捧げた。」

 とも読める。たぶん「捧げた。」まで読んで勘違いに気づくだろうが、本多理論の原則に従って改良すれば、

 (7')敬愛する太宰治に自分の生命を捧げた。

となり、分かりやすく誤解のない表現になった。

 さて、次はいよいよテンの打ち方についてだが、長くなったので次回にまわそう。

(参考)
 中学生からの作文技術 本多勝一(その2)
 本多勝一集19 日本語の作文技術

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posted by アスラン at 03:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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