2012年08月21日

将軍家「将棋指南役」−将棋宗家十二代の「大橋家文書」を読む− 増川宏一(2012/8/19読了)

 冒頭からさりげなく驚きのエピソードを披露してくれる。30年以上前、棋士たち数人が高名な天麩羅屋で食事をしていた。若手が「先生」と呼びかけているのを聞いた女主人が「いったい何の先生でしょうか」と問いかけてきた。将棋の棋士だと答えると、実は私どもの先祖も将棋指しだったという意外な答が返ってきた。棋士が名前を聞くと即座に「大橋」だと応じた。棋士は全員驚いた。いや、驚愕したと言っていい。

 将棋を知らない人には何のことかさっぱりわからないだろう。将棋を習い始めると、入門書の最初の方に駒の並べ方が紹介されている。別に書いてある順序で並べなくてはいけない規則はないが、「礼に始まり礼に終わる」という日本古来の文化でもある将棋では、プロ棋士はかならず礼儀として「正式な並べ方」で駒を並べていく。並べ方には大きく「大橋流」と「伊藤流」の2種類がある。この大橋と伊藤というのが、江戸時代を通して将軍から扶持をいただく〈御用達町人〉という身分をもった将棋家であった。今の近代将棋のルールに残る「二歩打ち」「打ち歩詰め」などの禁止を規約として定めたのも大橋宗家だ。

 棋士たちが驚愕したのは、明治になって徳川から明治政府へと政権が委譲されたのに合わせて大橋家は絶えてしまったと長く信じられていたからだ。しかし、大橋家は十二代当主が亡くなり跡取りがいなくなって宗家断絶はしたものの、家系は途切れることなく今に残っていた。しかも、その天麩羅屋の女主人は大橋宗家に伝わる文書、いわゆる「大橋家文書」を大切に保管していたのだ。まるで小説のようにドラマチックなエピソードではないか。おかげで将軍のおかかえ騎士だった「将棋家」というものがいかなる存在で、どのように将棋を後生に伝え残してきたかがわかるようになった。

 それにしても、いわゆる実力名人制になってからの「近代将棋」の流れは数多くの文献に書かれているが、徳川がめしかかえた名人の歴史が、この文書入手以前には推測の域を出なかったことは驚きだ。今年は将棋名人が始まって400年目の記念の年だと言われるが、30年前の奇跡的な出会いがあった事は「将棋の神様」がどこかでイタズラを仕掛けたかのような、楽しく素晴らしいエピソードだ。

 この大橋家文書を紐解いて、著者は僕らにわかりやすく「宗家」の暮らし向きやお勤めを教えてくれる。時代劇などに出てくる将棋宗家は、将軍の前で対局を行う「御前試合」を定期的に行うかのようなイメージがあったが、実のところ将軍がお目見えするなど滅多になかった。一年に一度、宗家たちは登城して将棋を指す「御城将棋」という慣例があった。これが彼らのお勤めらしい唯一のもので、それ以外は将軍家の催す冠婚葬祭には列席しなければならなかったので、将棋指しとしてではなく、御用達町人としての諸事に忙しかった。

 さきほどの御城将棋さえも欠席することがあったようで、ずいぶんゆるやかなおつとめだった事になる。こう書くと宗家の価値は下がる一方だが、もちろんそうではない。宗家が御城将棋を勤め、江戸詰の武士が将棋に関心を持ち、それを郷里に持ち帰って広めるという事が将棋をポピュラーな遊芸に育て上げる事に一役かった。やがては庶民の間でも流行し、明治に宗家が断絶する頃にはとうの昔に彼らの存在意義は失われていた。

 この本では、そんな宗家がどんなに苦労して生計をたてていたかという実情が描かれていて面白い。
posted by アスラン at 19:53| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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