2012年06月01日

不可能、不確定、不完全−「できない」を証明する数学の力− ジェイムズ D.スタイン(2012/4/5読了)

 こういうタイトルが目に付くと、ついつい内容をよく確かめもせずに借りてしまうのが「僕の悪いクセ」。読んだあげくに「借りて読むほどの中身だったか」と、後悔しないまでもがっかりさせられることはよくあることだ。ただし、通常の小説などと違ってノンフィクションは事実を元にしているので、出来不出来を選別する基準が少しだけあまくなる。

 数学や自然科学を一般人向けに解説する本と謳っている場合にはなおさら、歯が立たないとなると、自分の方に楽しめるだけの素養がたりないのだろうと逆に引け目を感じてしまうのが関の山だ。後悔どころか自分の不出来を恥じてしまう有様なのに、書店や図書館で同じような本に出くわすと、性懲りもせずにまた借りてしまう。まさに「こりない奴」なのだ。

 さて、ではこの本はおもしろかったのかと言われれば”Yes”だろう。「不完全」がゲーデルの不完全性定理であり、「不確定」がハイゼンベルグの不確定性原理であり、そして「不可能」がアローの不可能性定理をそれぞれ指している。いずれの定理(原理)もできることを証明するのではなく、「できないことを証明する」という点に、素人さえも引きつける怪しい魔力がある。

 数学の起源から「できない事の証明」は物議を醸し続けてきた。その代表が「角の三等分(の作図)」である。あるいは「立方体の倍積問題」であり、「円と同面積の正方形(の作図)」であり、「五次方程式の一般解」であった。その後、数学の分野ではゲーデルが、物理学の分野ではハイゼンベルグが、経済学の分野ではアローが、それぞれ「できないこと」の究極の証明をもたらした。

 これらのエピソードを次々とつないでいったのが本書だが、実はそれぞれのキーワードである「不完全・不確定・不可能」に直接関わりのあるエピソードばかりを綴っているわけではない。「できない事を証明する」ことができる数学の潜在的な能力が、現在あるいは将来にどんな成果をもたらすことになるかを分かりやすく語ってくれる。数学の奥深さがよく分かる。

 しかし、その一方で「できない事を証明できる」ことに対して無批判でもいられない。今なおなおざりにされている数学基礎論の視点から、果たし「できないこと」が現代数学のまな板に載せる事が可能なのかをあらためて問題にする。それは「排中律」の問題である。

 「できない」を証明できるためには、「できない」が「できる」の否定で表現できる事を前提にしなければならない。つまり「排中律が成立する」という前提を受け入れなければならない。これこそが数学基礎論に関わる大きな問題である。一般人の感覚では「Aである」と「Aでない」という二律背反である事は常識だが、数学としては簡単に原理として鵜呑みにする事はできない。そもそも数学基礎論の世界では数学的帰納法を認めるかどうかで意見が分かれる。つまり一つ一つ数え上げて正しい事が証明されない限り、nで成立するとn+1でも証明したから、無限に証明できた事にしていいのかいけないのかが「数学の基礎論的危機」の一部を構成する。当然ながら数学の分野では「できないことの証明」は排中律の是非を棚上げする事でかろうじて成り立っている。

 そんな興味深いエピソードを読みながらも、僕が考えていたのはハイゼンベルグの不確定性原理のことだった。最近の名古屋大学の小澤正直教授の成果で、ふたたび「不確定」というキーワードの持つ意味も変わろうとしているのではないだろうか。
posted by アスラン at 12:55| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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