2012年06月04日

蝋人形館の殺人 ジョン・ディクスン・カー(2012/4/13読了)

 新訳になって「蛍光灯下の蝋人形館」というようなイメージが湧いてきた。かつて創元推理文庫の旧訳で読んだ際は、何かうらさびしくみすぼらしい蝋人形館の地下にある通路の一隅で殺人がおきて、そこにはおどろおどろしい蝋人形たちがあたりを固めていた。

 と書き出して平気でいたが、amazonの商品リンクを付けようと検索をかけたり、図書館の検索システムで旧訳の出版年を調べたりしようと思って、ようやく自分の間違いに気づいた。この「蝋人形の殺人」という作品は、早川書房のポケミスで出版されて、その後ハヤカワ・ミステリ文庫に未収録のまま今に至っている。アンリ・バンコランシリーズの全作品の収録に力をいれている創元推理文庫が、今回「初の文庫化」を果たしたというのが正しい。すでに早川が文庫化をはたしているようになんとなく思っていたから、「初の文庫化」という文言は「創元推理文庫にとっての」という限定が入るのだろうと思い込んで、創元推理文庫担当者の意気込み過多におもわず失笑してしまった。とんでもない、自分の方が勘違いをしてました。申し訳ない。では、もう一度最初からやり直そう。

 今回の文庫化による最新の訳文で読むと、なんとなく「蛍光灯下の蝋人形館」というようなイメージが湧いてきた。かつて早川ポケットミステリの訳で読んだ際は、何かうらさびしくみすぼらしい蝋人形館の地下にある通路の一隅で殺人がおきて、そこにはおどろおどろしい蝋人形たちがあたりを固めていた。

 しかし、創元推理文庫の新訳ではそれほどの恐怖を感じない。明晰な新訳で現代調の文章に書き改められたせいでもあるだろう。それとも、かつての若者を熱中させ、かつての若者が年老いるように古びていったレトロな意匠のポケミスが醸し出す〈時代の雰囲気〉に僕自身がのまれていたのかもしれない。蝋人形館の隣には、仮面をつけた男女が一夜限りの欲望を満たす秘密クラブへとつながる通路が続く。そこは、蝋人形館とは打って変わって滑稽なほどに部屋数が多くて、まるで日本のラブホテルに似てもいる風景が広がっている。

 読み進めていけばいくほど、アンリ・バンコランというキャラクターは溌剌とした名探偵にはほど遠く、まだそれほど老いたと言える年齢でもないのに<老獪>という一語がふさわしい人物に感じられた。世間からメフィストフェレスに例えられるとおり、悪魔と契約した彼の精神と肉体は暗黒の世界に引きずり込まれる一歩手前の人間らしく、陽気と陰気のはざまを綱渡りしながら、出くわした猟奇殺人の捜査を楽しんでいる。

 そのせいか、予審判事という身分でありながら警察以上にでしゃばりな彼の行動は、ほとんどたわけた暴走以外のなにものでもない。捜査を一任したはずの警部にも肝心の秘密クラブを捜査することを控えさせたり、重要な手がかりを隠したりしてはばからない。これも古き良き時代の本格ミステリーの約束ごととして、読者は大目に見るにしくはない。

 しかし最後の最後に勝利の栄光を勝ち取るのはアンリ・バンコランそのひとである。おそらくは若い頃にパリの怪しげな魅力にとりつかれた当時の著者にとっては、お手本とすべきポーとドイルという二大巨匠が生み出した名探偵以上に、大都会の暗黒面に通じる悪魔的な探偵を必要としたと考えればいいのだろう。バンコランは若きカーのお気に入りの人物だったはずだ。

 ワトソン役であるジェフ・マールは、クリスティが生み出したもう一人の名探偵ポワロと事件をともにするお人好しの青年とは好対照をなす。ばか正直に他人の言葉をまにうけたり、美しい独身女性をみるとすかさずなびいてしまう事はないかわりに、正義よりも冒険のためにあえて火中に飛び込む無謀な若さを持ち合わせているところなどは、あくまでバンコランの老獪さとバランスをとるための人物配置だろう。だが、ジェフの行動の中途半端でお粗末なところはヘイスティング大尉と好一対だ。

 終盤にきてジェフは、秘密クラブに潜入して暗黒街のボスの犯罪の動かぬ証拠を盗み聞きする役をかってでるが、途中でばれてあやうく捕まりそうになる。実はここで得られた手がかりは真相に近づくものとは言えず、ジェフの大冒険のあいだにバンコランは真犯人と対峙して、さっさと真相を突き止めてしまっていた。つまり秘密クラブの捜索のくだりは、あまりに動きのない中盤からクライマックスに至るまでの著者なりのサービス精神の現れであり、結末までのつなぎの意味しかない。

 そして肝心の犯人は?というと、とびきり意外な人物だ。解説でも意外だと指摘されているが僕自身も異論はない。異論はないが、「意外」すぎて実は驚きも少ないというのが正直なところだ。僕の第一声は「えぇー、なにそれっ!?」という感じだった。カーの長編の多くは犯人を当てようとしても無駄だ。ほとんどの作品が読者にとって「意外な犯人」だからだ。

 そしてそのうちの何割かは、犯人の名前があかされても「それって誰だっけ?」という事態になることも少なくない。容疑圏内ぎりぎりの人物がいきなり第一候補に躍り出る。今回もそのタイプだ。トリックもない。本作の特徴はというと、やはりタイトルにあるとおり「蝋人形館」のもつ毒々しい怪しげな魅力に尽きる。それに重ねてスキャンダラスな秘密クラブを蝋人形館と隣り合わせに配置するというのが、ゴシップ好きの読者の下心をあおる趣向であって、それ以上でもそれ以下でもない。
posted by アスラン at 10:54| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わたしも同意です
面白くはあったけど、中位の出来というかんじでした
Posted by とし at 2012年07月07日 16:15
としさん、コメントありがとう。

ああ、いいコメントです。

「面白くはあったけど」

そう、これで面白くないならば無駄なつきあいをしないで済むんですが、前半の不可能犯罪の荒唐無稽さなどにひかれて、読まないわけにいかなくなるのが厄介な作家ですね、カーは。
Posted by アスラン at 2012年07月10日 19:19
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