2012年01月10日

飛蝗の農場 ジェレミー・ドロンフィールド(2011/12/23読了)

 「なんだ、これは?」

 そう書き出すのが、この本についての感想の言わば礼儀であるようだ。敬愛する翻訳家・越前敏弥氏の「訳者あとがき」でも、その後の解説でも、そろって「なんだ、これは?」と書き出している。

 そう書き出してからは、訳者と解説者は口を揃えて「なんだ、これは?」の「なんだ」について逐一解釈を与えては、作者の手際の良さと、この手のジャンルの過去から現在にいたるまでの作り直し(再生)としては他に比べようがない水準に達しているとほめちぎっている。しかし、そこには「これは?」にあったはずの読者の違和感はとうに失われている。

 僕は「なんだ、これは?」の「これ」にこだわりたい。本書はドロンフィールドという新進の作家の長編第一作にあたるそうだ。誰が読んでも新人が書いたとは思えないほど、堂々たる着想と、きわめて凝った構成を持つ作品であることは疑いようがない。しかし、いかんせん読者に不親切な作品である事もまた確かだ。

 たとえば作品が始まる前に挿入される登場人物のリストには、たった3人の名前しか挙げられていない。通例、ミステリーのお約束としてリストの中に犯人が含まれているのは常識だから、犯人当ての醍醐味を味わう作品ではない事になる。また犯人の候補(容疑者)だけでなく、主要な登場人物をリストに含める事もお約束の一つだから、無名の登場人物は除くと、やはり主たる登場人物はたったの3人しかいない事になる。ずいぶん退屈な設定だなというのが、読む前の正直な気持ちだった。

 ところが読み出してみると章が変わるごとに新たな人物が登場し、しかもその人物自身の一人称の語りでストーリーが書き継がれていく。つまり彼らはリストには登場しないが、主たる登場人物であるに違いない。こういう場合、ミステリーでは「あるトリック」を想定せざるをえない。それは、いわばお約束から演繹した読み方なので、あまりほめられた読み方ではないが、事態はまさしくそのように展開していくのだ。

 しかし、それにしてはトリックが想定した通りの内容であるからには、もう少し読者に「ああ、なるほどなぁ」と納得させるだけの説得力がないといけないのだが、作者の関心事はそこにはない。作者はトリッキーな謎を意表をつくように明かすタイミングだけにこだわっているようだ。しかし、その手際たるや、よくよく考えれば最初から終盤にいたるまで同じ事の繰り返しであって、さめた目で読んでみれば読者に対する誠実さに欠けているのではないかと思えてしまう。

 特に終盤の描き方は、スピーディな展開と、誰が真なる犯人なのだろうかと登場人物の一人(もちろんリストの3人の中の一人だ)が翻弄されるめくるめくサスペンスとで、読者をぐいぐいと引っ張っていくのだけれど、ここでまたしても飽くことなく作者は同じ事を繰り返す。いったい、犯人に翻弄されるこの登場人物はなんど同じ過ちを繰り返せば気が済むのだろうか。ここで醒めてしまうか、怒濤のごとき作者のマジックに感じ入るかで、結末の印象はがらりと変わってしまうだろう。

 「このミス」などのミステリーランキングの上位に挙がった当時(2003年)の熱がさめてしまえば、今この本がどの程度読まれているのか疑わしくなる。もし僕の読み方に異論がある方がいるとして(もちろん数多くの読者が「面白かった」と思っているはずだ)、何故「飛蝗の農場」なのかに、作者ドロンフィールドは一読者が納得できるような誠実な答を用意していたかを教えてはもらえないだろうか。
posted by アスラン at 12:39| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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