ところがそういうコーナーには玉石混淆と言うべきか、まじめな科学ノンフィクションと隣り合って怪しげなUFOの本や、人類は月に本当は行っていないという主張の本や、アインシュタインの理論は間違っているというセンセーショナルな真実(!)を論じた本が混じっているのだ。
先日読んだカーティス・ピーブルズ「人類はなぜUFOと遭遇するのか」は大変まじめな本なのだが、日本の出版社が勝手に付けた邦題を読む限りはかなり怪しげな本と思って敬遠する人も少なくないに違いない。(原題は「空を見よ! 〜UFO神話の年代記(クロニクル)〜」とでも訳せるか。こっちはユーモアに富んでる分、怪しげ感は減っている。)
つまりトンデモ本とそうでないまじめなノンフィクションとを選別するのにタイトルは当てにならない。例えば「アインシュタインの相対性理論は間違っていた」という本を実はちょっと前に図書館で見かけたときは読んでみようかなと思っていたのだ。もちろん相対性理論が本当に間違っていると主張しているのならトンデモない話だが、こういう扇情的なタイトルをあえてつけて地味な内容のまじめなノンフィクション本を売ろうとする事は「人類はなぜ…」の例を挙げるまでもなく出版業界ではありふれたことだからだ。残念ながらこの本は、本書でトンデモ本として取り上げられていた。
最近書店で気になっているのは「なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか」(ハヤカワミステリ文庫)だ。タイトルが「誘拐されるのか」ではなくて「と思うのか」に周到に表現を迂回しているところをみると、アブダクション(宇宙人に連れ去られる事)を現象としてではなく心理的問題として分析しようとしている本だと思われる。ただし、ミイラ取りがミイラになるのたとえ通り、途中で著者が宗旨替えしていないとも保証の限りでない。よほど注意して読まないと僕自身もミイラにさせられてしまうかもしれない。
本書で初めて知ったトンデモ作家と著作については、それなりに楽しんで読んだが、やはり一番興味深かったのは誰でも知っているビッグネームの方だ。
UFO研究家の矢追純一は前々からあれは嘘と知って番組作りのために振りをしているのか、それとも本当に信じているのか正直分からなかった。しかし本書によると矢追さんのトンデモなさは本人の何事も鵜呑みにしてしまう天然ボケのような性格によるものだとわかる。海外に取材して、本国ではすでにニュースソースとしては信憑性に×が付けられているものをそのまま信じて日本に紹介してしまっていたり、宇宙人と関係する謎の潜水艇について自らの著書に書くにあたって、図がないと不体裁だと思ったのか旧日本軍の軍艦だか潜水艦だかの画をへたくそに引き写していたり。もうこのボケ方は一芸と言っていい。
それからやはり前々から「本当はトンデモないんじゃない?」と思っていたドクター中松さんや大槻教授などもトンデモ人物として堂々と取り上げられている。中松さんの方は、エジソンを超える発明数を誇ると以前から豪語しているが、実はこれは「発明数」であるところがミソで特許取得数ではないから、嘘を言っているわけではないが、エジソンを超えると言っても比較の仕方に無理があると暴露している。もちろん中松さんの人となりはみんなテレビで知っているし、例のフロッピー発明の事情についてはいまさら言う必要もないだろう。
大槻教授の方は「トンデモ科学(疑似科学)」を否定する主張の方はまあ共感できるとして、否定の仕方や論理に無理がある。なんでも自分の研究テーマであるプラズマ現象で説明しようとするし、現状の科学では対象としないような事についても科学的に間違っているの一言で片付けようとする科学万能主義者と言っていい。今やインチキの代名詞であるミステリーサークルまでプラズマで説明してしまい、自らのうさんくささを露呈してしまった。こういう人も「トンデモ」と呼んでいいと言われると非常に安心する。
さて、ビックネームの中には僕自身がかつてはまっていた一人がいる。かつてと言っても小学生の頃で、そのころは大人から子供まで誰でも一度は読んだり話したりした本の著者だ。著者の名は五島勉。本のタイトルは「ノストラダムスの大予言」だ。発表当時は、一方で大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」に象徴される科学に対する無邪気な楽観があるかと思えば、他方で水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの公害問題がクローズアップされて、高度成長期を謳歌する人々に将来に対する不安を抱かせる、そんな時代だった。
その頃空前のベストセラーを記録したのが「ノストラダムスの大予言」で、その中で書かれていたノストラダムスの四行詩と現代の歴史の数々があまりにも見事に符合しているのに、僕を含めて当時の多くの人が魅了された。もちろん当時から眉につばを付けていた識者は大勢いたのだろうが、子供の僕の耳には入ってこなかったから、面白がるという事と信じるという事が区別できない状況というのが僕の中で一時期存在したことは確かだ。符合とは作られるものであると知るのはずっとずっと後のことである。
五島さんの説では「1999の七の月に空から恐怖の大王が降りてくる」という詩を黙示録予言と解釈し、核の恐怖のことだろうと推理して終末が間近に迫っているという事実を提示して本は最高潮を迎える。あれから30年以上もたって1999年に再度ノストラダムスブームが来たのは記憶に新しい。もちろん何事もなく7月が過ぎ去り2000年を迎えて、ノストラダムスも五島勉も完全に過去のものになるはずだった。
ところが五島さんはブームと再ブームをつなぐ30年の間に何事もしてなかったわけではなく、聖徳太子が書いた予言の書「未来記」(またしても予言か)について解説している。しかも本書の会長曰く「未来記」という書を読んだ事もないのに本を書いてしまうところに五島さんのトンデモなさを見いだしている。確かに懲りない人だ。もしかしたらあと10年ぐらいしたら、またノストラダムスをひっさげて3度目のどじょうを狙うような気がする。その時は僕もしょうがない、またおつきあいしましょうか。
ところで本書では様々な本や人物がトンデモ本やトンデモ作家として紹介されているが、判定する側である「と学会」(「と」は言わずと知れた「とんでもない」の「と」)のメンバーは、会長であるSF作家の山本弘を始めとして「トンデモ本」に多大な関心を持って収集に努める雑多な愛好家たちから構成されている。だからと言ってはなんだが「トンデモ本」をその他の本から分類する明確な定義があるわけではない。
会長の山本弘氏が拠り所にするのは、20年以上前に書かれたマーチン・ガードナー「奇妙な論理」からの引用であり、これが定義と言えば言えるかもしれない。
・自分の主張(論理)を信じて疑わない
・自分の主張が認められないのが自らの誤りのせいだとは考えもしない
というある種の信念の人が生み出した思い込みの産物が「トンデモ本」である。
しかしここが一番肝心なのだが、
・思い込みがケタハズレで、ここまで来ればかえって面白い
と、まず学会メンバーどうしで思える事が重要であり、笑いとばせるような面白さに満ちてなければ、たとえ胡散臭い内容であってもとりあげるに値しないと会長も指摘している。従来からある「疑似科学」の言葉ではなく「トンデモ」を頭にかぶせる所以である。
すなわち仲間内のマニアックな共感を外向きに発信したのが本書であって、この手の本は一緒になって面白がれる資質や雑多な知識がないと意外と退屈な読書になってしまう。
僕自身も期待していたほどは面白くなかった。何故かと言えば「トンデモ本」すべてを同じ手つきでこけおろしているように思えるからだ。最初は笑えるがすぐに飽きる。何しろ「面白い」「笑える」事が唯一の統一的な基準であるからには、何故こういう本が存在するのか、またはなくならないのかは問おうとしない。
著者たちは「こんなトンデモない内容なのに売れているのだ」とたびたび首をかしげているが、まさしく僕ら読者の関心もそこにあるはずだ。これらの本がある一定の需要を満たしているとするならば、一体どんな人が買いどのように受け入れているのか。こんな素朴な疑問にも答えてくれないようでは、考現学の本としては片手落ちだろう。
それにしても本書で初めて知ったトンデモない人物や著作がたくさんあるが、笑い飛ばす本をだらだら読むより元々のトンデモ本を直接読んだ方が何倍か楽しそうだ。
(2006年8月21日読了)




「どうせ一度の人生、楽しいことがいっぱいあると思わなければ」ですかねえ。
一時マヤ関係の本を数冊一気読みしたことがあるのですが、トンデモ本も学術系?本も中庸系本もあり、まさに玉石混合でした。切り口でこうも異なるのだなあと、変なところで感心したのを覚えています。
かつてはUFOだってスティグマ(聖痕)だってネッシーだって地球空洞説だってミイラの呪いだって信じていた多感な少年時代が確実にあったんですよ、僕にもねw
ちなみにまだアップしてませんが、心の積ん読リストに「ナスカの地上絵」の学術本があります。読んでみたいのもそうですが、上空から実物を見たいですね。もっとも高所恐怖症なので永遠に叶えられない夢ですが。