2011年11月10日

アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス(2005/4/29読了、再読)

 本棚に文庫版の「アルジャーノンに花束を」がある。まだ未読だ。「アルジャーノン」が未読なのではなく、文庫版が未読なのだ。


「アルジャーノンに花束を」は同名の中編がまずあって、後に著者ダニエル・キイスが書き足して今の長編に仕上げた事はSFファンには周知の事実だろう。SFファンでない僕が知っているのは何故かというと、会社の同僚からの受け売りである。彼女から単行本を借りて読み(読まされ)、さらにSFマガジンに掲載されたという中編もバックナンバーを借りて読んだ。

 中編は感動的なドラマはそのままに長編ほどのコクが無くてあっさりとした感じだ。残念ながら訳者が違うせいなのか、翻訳の雰囲気がずいぶんと長編とは異なり、セリフも口調も違うのどこか興ざめしてしまった。翻訳とはまことに恐ろしい。

 で、僕には単行本の長編を読んだ時の感動が鮮やかに焼き付いている。その後に単行本を再読したが、感動作のクライマックスは、一気に読める場所と時間を選んだ方がいいようだ。朝の通勤電車の中で、「知力が戻ったチャーリーが元の職場に戻って若い職人にいじめられる場面」にたどり着いたところで、電車を乗り継ぎで読書が途切れてしまったのだ。時間を置いて再び続きを読んでも、なかなか気持ちが盛り上がらず悔しい思いをした。

 という話を同僚の女性にしたら、「まだ泣けるじゃない」と言われた。僕は「へっ?」とうめいた。

 「アルジャーノン」を勧めてくれた会社の同僚とは、最初の読後に「号泣しました〜」と感想を話して「アルジャーノン」談義に花を咲かせた筈だったのに、どこで泣けたのかは確認し合わなかったのだろうか?それとも泣き所を僕だけ間違えてるんだろうか?

 僕は、以前と同じ知能に戻って以前と同じパン屋の下働きに戻ったチャーリーが、案の定以前のように馬鹿にされるシーンで、かつて兄貴分と慕っていたが実はからかいの張本人だった同僚のギンピイがチャーリーをかばうタイミングでドッと涙が溢れて止まらなくなったのだ。

 チャーリーが愛した女教師の教室に再び教えを請いに行くシーンも切ないが、それでもチャーリーも彼女も救われる事はないだろう。チャーリーを救えるのは、同僚の彼、ギンピイしかいないのだ。知能が低いと笑い、高くなったと恐れ、再び元に戻ったチャーリーを前にして初めて自分の無理解を恥じた彼の善意こそがチャーリーを救うのだ。

 著者の狙いがそこにある以上、エンディングでチャーリーが一言「アルジャーノンの墓に花束をあげてください」と言う場面はエピローグに過ぎないと思う。なのに、会社の同僚は、最後の最後に、この一言で泣いたのだと言う。ちょっとショックだった。泣き所が違う事がではなく、彼女が最後のセリフでようやく泣いたとするなら、僕の号泣の立場がないからだ。

 何故、彼女はアソコで泣かない訳?

 実はパン屋に戻って新入りにいじめられるシーンも、女教師アリスのクラスに顔を出すシーンも、ラストの「アルジャーノンの墓に花束を…」のセリフの数ページ前に過ぎない。だから、どこで泣こうが大差ないと思う人もいるに違いない。だが、僕にはそんな粗雑な考え方はできない。特にあの作品の終盤は作者と読者のガマン比べと言っていいほど、怒濤の如く「泣き所」が並べられるからだ。

 チャーリーが自らの知能の後退を理論付け、アルジャーノンの死に自らの運命を見た時点から、チャーリーの冷ややかなモノローグに支配されていた緊張感は頂点に達する。作者も読者も、解放される瞬間を固唾を呑んで探り合うのだ。

 日一日と急速に知能が失われていくのを著者の巧みな文体の変化で見せつけられても、読者は涙をかろうじてこらえる事はできるだろう。また、パン屋の下働きに逆戻りする残酷さに哀れを感じる事はあっても、僕らは泣く事はできまい。いじめられる過酷さには思わず目を背けたくなるだけだ。

 ひょっとするとギンピイの心変わりも予想できた事かもしれない。だが、チャーリーをいじめる新入りにかつての自分の姿を重ね合わせて怒るギンピイの義憤に対して、新入りをかばうチャーリーの無償のお人好しには、ギンピイのみならず読者の誰しもが不意打ちを食らわされないだろうか。誰もチャーリーのお人好しを笑う事はできないのだ。

 この瞬間に、チャーリーが無為に元に戻っただけではない事を読者は気づかされる。知能が高い時には、チャーリー自身気づかなかった大切な物を手に入れて戻ってきたという事に、僕らは不意打ちされるのだ。それがチャーリーだけでなく、読者も、作者さえ、救われる瞬間だとしたら、チャーリーの次のコトバは、読む者の胸を限りなく撃たないだろうか?

ともだちがいるのわいいものだな…

(2005/4/29初出)


[追記(2011/11/10)]
 「アルジャーノンは何処で泣くか」というタイトルで、このブログに記事を載せてから6年も経ってしまった。びっくりすることでもないかもしれないが、自分としては意外だったのは、いまだに文庫版「アルジャーノンに花束を」を読んでいないという状況だ。相変わらず本棚の手前に置かれているのだが、あれから引っ越しをして蔵書の量も数倍に増えてしまったせいで、やはり読むに至っていない。この記事を改めてアップしたのを機に、文庫版をやっつけてしまおうか。まあ、特に単行本版と変わるところはないと思っているのだが、間違えても電車の中でクライマックスの高まりを邪魔されないようにしなくては。

 ところで、この「何処で泣くか」というエッセイ(のつもりだった)は、「その3」まで書いて尻切れトンボで終わってしまった。「続きを書け」と会社の同僚からせっつかれたのだが、諸事情でついに果たせなかった。もう時が経過しすぎて、この続きは書けないのだが、「何故泣き所が食い違うのか?」という点を話しているうちに、男の視点、女の視点で「泣ける場所」が食い違うという事はあるかもしれないと思った。

 その最適な例が、映画「フィールズ・オブ・ドリームス」の終盤に関する侃々諤々だ。僕は文句なしに、最後に「それを作れば、彼が来る」という啓示の真の意味がわかるラストのキャッチボール(観た人ならば分かるだろう。これ以上はネタバレだ)の場面でドッと泣いた。これは、そういうドラマだから当然だと思っていたのだが、女性陣(「アルジャーノン」を勧めた同僚と他一名)には、その直前のムーンライト・グラハムが夢をほんのちょっとの差でつかみ損ねて去って行く後ろ姿に泣いているのだ。もちろん名優バート・ランカスターの圧倒的な演技も影響しているだろうが、女性陣が泣いたのは、やはり若きムーンライト・グラハムの夢を追いかける初々しさに、共感してきたからこそだろう。そういう見方もあるのだと思い知らされた例だった。
posted by アスラン at 12:59| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして

追記から更に3年…しかし、興味深い内容で、コメントしたくなりました。私も若い頃中編を読み、映画も見たのですが、やっと長編の文庫版を今日読み終えました。

そして、泣いた場所…私は妹との再会の場面です。
互いに誤解したままの記憶だけだった二人が、和解して許し合う。これだけで、手術した甲斐があったと感じるのは私だけでしょうか?精神遅滞に戻ったチャーリーではあるが、母親と妹への感情は少しは変化しているんじゃないかと一人で考えます。

もう一つ心に響いたのは「おまえはかしこくなってともだちをいっぱいつくるんだよ」という手術前の言葉です。

男女の違いだけでなく、誰のどの部分に感情移入するかは、その人自身の人生と密接に結びついていると思います。

ネズミの墓への言及で泣くのは、本人の意識や、人との繋がりの変化ではなく、たった一匹の「病気仲間」という状況を感じ取ったからではないでしょうか?
どこにも感情移入していない人は、そこの最後で泣くのかもね。
Posted by kimi at 2014年07月08日 16:46
kimiさん、コメントありがとう。

「誰のどの部分に感情移入するかは、その人自身の人生と密接に結びついている」

けだし名言ですね。その通りだと思います。
となると「『アルジャーノンに花束は」は何処で泣くか」などという問いかけ自体がおこがましいわけで、一読者にすぎないおまえ(僕の事です)が決めつける話ではないだろうという結論になりますね。

でも、あえて言うと、僕はどんな映画を見ても登場人物に即座に感情移入してしまえる人間なので、そんな人間が『アルジャーノン』を読むと、感情表現が出来ない主人公が超人的な知性を獲得して、さらに感情を抑えた人間になる事によって、いつまでも感情の移入先がないという究極の状況を強いられた読者(僕も含めて)が、どこで「泣くのか」がとっても気になったわけです。

もちろん、どんな人生のドラマにも感情移入しない人でも、最後の最後に用意された、死んでいった小さなネズミに送る主人公の言葉には抗えないでしょうね。
Posted by アスラン at 2014年07月11日 12:48
アスランさん、お返事ありがとう。

あのあと、ちょっと家族とも話しました。
これを勧めてくれた息子は、チャーリーが父親を訪ねて、名乗れずに帰った所だったそうです。

夫は、大昔読んだ中編で心に残ったのはやはり最後の台詞だったそう。

息子の分析は、最後で泣ける人は、主人公の目だけで物語を眺めた人。それ以外の場所で感動した人は、様々な登場人物に感情移入できる多面的な見方をする人ではないか?と・・・
確かに、彼も私もトルストイやチェーホフ等の群像劇が好きです。

そして考えていたら、最後の言葉…チャーリーはネズミへの友情で言ってるように見えて実は違うんじゃないかという気がしてきました。
ネズミと同じように加速度的に認知が衰えて廃人同様になって若死にするチャーリー自身の未来を重ねさせる、作者の狙いと思うのは考え過ぎでしょうか? あの裏庭のお墓は、自分のお墓でもある、と・・・
Posted by kimi at 2014年07月11日 18:08
kimiさん、再コメントありがとうございます。

気の抜けたビールのような返信になって申し訳ありません。この夏は兄の一周忌の仕切りがあったり、子供の弁当作りに追われたりと、もろもろいろいろありすぎて、なかなかブログへ力を注ぐことができなくなっていました(単なる愚痴です、すみません)。

人それぞれ「泣ける場面」が違うという事も驚きなんですが、kimiさんのご家庭の皆さんが本作を読んでしかもちゃんと内容について話し合えるという事自体に感動しました。

息子さんの意見には同感です。僕は映画好きでもあって、映画を見てると、場面場面で様々な登場人物にすぐに感情移入してしまう傾向があります。なので、主人公だけでなく、登場人物側からの視点でも心が動いてしまうので大変です。

最後の言葉に関する作者の狙いについては、再読したときの宿題にさせてください。文庫版をぜひきちんと読み終えて、キイスさんへのお弔いとしたいと思いますので。
Posted by アスラン at 2014年08月27日 17:13
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/234491497
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。