当時NHK教育テレビでやっていたNHK人間大学で、森本哲郎が「蕪村の風景」というタイトルで与謝蕪村の俳句を紹介していた。僕は「菜の花や 月は東に日は西に」程度しかしらないこの作り手が、叙情や叙事に優れた句を残している事をこの番組で初めて知った。
正岡子規は「芭蕉より蕪村」と言い立てて芭蕉を徹底的に批判する一方、蕪村の写生に対する先見性を見てとった。しかし森本哲郎がガイドする蕪村はもっと多才な芸術家というイメージだった。なにより、嵐で日本列島が揺れているという現代人でなければ思いつかないような俯瞰の視点で詠んだ句がある事に驚かされた。
一方、芭蕉と言えば「古池や…」や「五月雨や…」など口に出る句はいくつもあるのに、その実、作品集を読んだことなど一度もないのだ。
切り抜きの話に戻るが、現存する「奥の細道」は芭蕉の弟子たちが原本を引き写した書写本だけだったらしい。この時見つかった自筆本には一度書いた文の上に紙を貼り推敲している箇所が74ヶ所も見つかった。有名な「月日は百代の過客にして」の書き出しも一ヶ所推敲の跡がある。
これほど文章にこだわった芭蕉は、奥州への旅から二年以上経ってから「奥の細道」を書き上げた。構想を温めていたというより忙しくて書けなかったのだ。ここで著者・嵐山光三郎によって描かれる芭蕉は俳人というよりは、蕉門という一座を率いる座長と言った方が当たっている。とにかく50歳にして亡くなる晩年の芭蕉は、一座(蕉門)を率いて句会を開いては俳諧連歌を執り行ったり、スポンサーである地方の名士に請われて旅に出て宗匠として俳句の指導をしたり、旅先で俳句を詠んだりの日々だった。
俳諧連歌というのは、和歌の連歌形式から来ている。一定の形式に従って、参加者一同でお題を決めて句を詠み継いでいく。次々に前の句の内容を受けながら一つの場面の描写にこだわったり、ストーリーを想像しては思い思いに展開していくといった趣向が求められ、滑稽な表現や洒落た表現を即興で作り上げていく。一つ一つの句の出来もさることながら、連歌全体の完成度が評価される。
もちろん参加者である蕉門一人一人の力量が問われるのは言うまでもないが、全体の流れを決めて連歌の出来をコントロールしていくのは芭蕉である。芭蕉が座長のようだと言ったのはそういう意味である。芭蕉は連歌の演出家兼詠み手である。だから芭蕉が詠む句が冴えないと連歌の出来も冴えない。
江戸時代に流行した俳諧連歌は、和歌の連歌のような伝統的な芸術形式に、庶民の生き方や心情を持ち込む事で、より滑稽で洒脱な文芸運動となっていた。本書で初めて知ったのだが、何番目の句では月を詠まねばならない月を詠んだ句は連歌全体で三句までとするなど、連歌にはかなり厳密な決まり事があるようだ。この決まり事によって詠む方は最後まで緊張感が途絶えないし、連歌を読む方はスリリングな展開が期待できる。言わば当時の庶民にとっては、ゲーム感覚を取り入れたエンターテイメントであったわけだ。
晩年の芭蕉は俳諧の世界で名声を確立していたが、エンターテイメントの世界からは時代遅れとなっていた。芸術性の高さにこだわる「蕉風」という句の詠み方は、派手好みで面白さを優先する江戸の庶民にはうけなかった。うけたのは芭蕉の一番弟子・其角であり、世間では其角が蕉門を引き継ぐ後継者と見なされた。
しかし芭蕉の死後、蕉門は分裂する。著者はこの辺の事情を生々しくルポルタージュするのだが、要するに蕉門には芭蕉の崇拝者はいても蕉風を受け継ぐ者はいなかった。そもそも蕉風とは何かは、天才芭蕉以外に誰も分からなかったのだ。「不易流行」という言葉を芭蕉は好んで使ったが、何が「不易(変わらないこと)」で何が「流行」か、どこまで流行を取り入れてよいか、芭蕉の説明を聞いても弟子には一向に分からなかった。要するに芭蕉のセンスの中にしか答えはなかったのだ。
その上、芭蕉の後継者だと思っている弟子たちが多すぎた。一言で蕉門といっても弟子の氏素性はさまざまである。武士もいれば町人もいる。藩の医者だったのに仕事そっちのけで芭蕉を自宅に泊めた事で失職した男もいれば、犯罪者もいる。なにより「おくの細道」の旅に同行した曾良は幕府の隠密だった(らしい)。旅はスパイ活動の方便であった。
ここでもこれらの弟子たちをかろうじてとりまとめているのは、芭蕉の座長的性格にあると言える。著者が芭蕉を悪党呼ばわりするのは芭蕉の人となりにも作品の作り方にも山師的なところが見え隠れするからだ。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」という句も何か深遠な思想を秘めているかのように解釈されてしまうが、芭蕉が詠んだこの古池には江戸の大火で焼け出された際に見つけた古池で、深遠な静けさに満ちているというイメージとはほど遠く、よどんだゴミの浮いた池だと著者は断じている。「死骸も浮いていたかもしれない」とまで言い切る。そこで詠んだ芭蕉の個人的な感想は、句の体裁に封じ込められてしまっている。
また当時の為政者、五代将軍綱吉が始めた生類憐みの令に追従するかのように、生き物を詠んだ句には憐れみをかけた句が多いというのが著者の独創である。まあ山師的な性格に満ちている著者がそういうと本当に芭蕉が山師に見えてくるから不思議である。
芭蕉は旅先で体調を壊し、さらに病気をおして大阪まで出張って二人の弟子の仲裁をして果たせず、そのまま病気が悪化してついに亡くなった。二人の弟子のけんかは、大阪での俳諧の覇権争いである。仲直りさせるために彼ら二人を加えた句会を開き、芭蕉は体調が悪いにもかかわらず句会の盛り立て役をかっている。
普通なら二人の弟子が、いやその他の弟子達が恐縮して芭蕉の体を思いやるところだろう。それができない、いやしないところに芭蕉と蕉門との関係を著者は見て取る。蕉門は芭蕉ひとりのものではない。芭蕉が力をなくせば取って代わるべきは自分だと思っている弟子が多くいた。弟子たちは、後にこれほどまでに芭蕉が有名になることを想像できなかったのだ。
芭蕉はその時の句会で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という句を詠む。弟子の一人に「なほかけ廻る夢心」とどちらがいいかを問うが弟子に答えられるはずもない。そのまま詠んだ句を、数日後に死出の旅に向けて芭蕉が弟子たちに辞世の句にするように伝えたとされる。
この本のおかげで、芭蕉の名を不動のものとした「奥の細道」が読みたくなった。近所の書店で買い求めた角川文庫の「新版・奥の細道」は、新たに見つかった自筆本で分かった事も注釈に入っているようで楽しみだ。
僕は初めて芭蕉の旅に出る。
(2006年7月17日読了)



