2006年07月24日

何故二人は同じ本が読めないのか?(1)

 一時期いわゆる出会い系サイトでメル友探しに熱中していた。独身時代にはそれなりに趣味と実益を兼ねた相手を探していたのだ。もちろんこの場合の実益というのは変な意味ではなくて、正しい意味での「出会い」を期待していたわけである(いまから考えるとやっぱり変な意味ととられても仕方ないか)。しかしどうしても僕の場合、映画や読書というコアな部分を切り捨てる事ができないので、素晴らしい趣味友は見つかるのだがそれが恋人や結婚相手へと結びつく事は結局なかった。

 結婚してから何が変わったと言って、日がな映画を観まくるような時間がとれなくなったことが大きい。年間200本に迫るくらいの映画を映画館通いして観ていたライフスタイルを諦めねばならなかった。もちろんレンタルして観るという選択もあったかもしれないが、映画館で観るという部分にこだわりがあったし何より自宅で2時間まとまって個人的な時間を作る事が難しくなった。

 自ずと思い切った選択を取ることになる。つまりは映画という趣味を切り捨てて、読書一本に絞ることにした。どんなに仕事が忙しかったり日々の生活の煩雑さに追われていようとも、隙間を埋めるように読書する事ができるからだ。しかも身近に素晴らしい図書館が二つもあり、僕の目の前にはたとえ不老不死となろうとも読み切れないほどの蔵書がウェブを介して立ち現れてきた。

 以来ここ数年は読書スタイルも変化している。図書館で借りられる本、借りやすい本を中心に考えるようになったからだ。

 読書を趣味の中心に据えた事によって僕にはちょっとした好奇心がわいてきた。つまりは読書というのは至極プライベートな好みを反映したものであって、単純に言ってしまえばその時その時で読みたいものを読んでいるだけだ。それが世間一般の好みからはずれていようがお構いなしに読むことだってある。ならば好きなものを好き勝手に読んでいればいいはずだが、読書を趣味にした時点で姿勢が少しだけシフトする。少しだけだが決定的なシフトだ。

 映画のことを考えてみる。映画を年間20本しか見る暇がないとする。ならば自分の好きな俳優が出ている作品や前評判が高くて面白そうな作品を迷わず選ぶ。50本は見てもいいとなると、ちょっとだけ冒険する。これははずすかもと思えるような地味な作品を見に行ったり、マニアックな作品に手を出してみる。

 100本以上見てもいいよと言われたとする。ならばならば企画ものやナイトショーに通い、サイレントや60年代ハリウッド映画、好きな監督作品すべてを見まくる。200本いやいっそ好きなだけみなさいというならば、もう手当たり次第に見る。機会があるなら普段はぜったい見ない甘ったるい青春モノや大味なハリウッド超大作もカルト映画もおバカなラブコメも苦手なホラーもアクション物も観るだろう。

 そうしてみると50本映画を観てた時と200本近く観てた時とでは映画に対する考え方見方が変わってくる。自分が観たい映画だけを観るのではなく映画の奥深さを知るために観る映画が増えてくる。奥深さというと誤解されそうだが、要は食わず嫌いでこれまで観なかった映画も観ることで自分の視野を広げるということだ。そこには「おバカなラブコメ」とか「苦手なホラー、アクション物」という決めつけはあってはいけないのだ。

 独身時代は貴族ほどの金持ちではなかったがそれなりに使える金があったので、好きな本を好きなだけ買っていた。買う本は自分の好みにフィットした本ばかりだ。それはミステリーだったり評論だったり言語論だったりノンフィクションだったり明治文学だったりする。買いためては積ん読にまわるわけだが、それでもいつかは読むぞとばかりに身の回りに自分の好みの本がならぶ。確かに500冊や1000冊は簡単にたまってしまうが、そこに並んだ品揃えはいくぶん他の人よりバラエティーに富んでいるとは言え、たかが知れている。

 昔長期入院を余儀なくされたときに、見舞いに来る人には食べ物や花ではなくて本を持ってきてくれとお願いした事がある。それも僕の趣味ではなくてそれぞれ自分の趣味にあった本を指定した。日頃読みそうにない本が集まることを期待したのだが、予想以上に自分が読まない本ばかり集まって閉口した。例えば明智光秀を主人公に据えた歴史小説やドレス・コードのガイドブック、「あるある大辞典」、世界遺産の本などなど。日頃綿シャツとジーンズで会社に通うおしゃれっ気のない人間にドレス・コードの本は面食らった。世界遺産の本はそれなりに好奇心がくすぐられて楽しめたが、歴史小説は老後の楽しみとばっさり切り捨てていたので、これまた少々気の重い見舞いであった。

 このとき思ったのはうかつに「あなたの好きな本はなんですか?」などと聞いてはいけないという事だった。たとえばの話、「あなたの好きな映画はなんですか?」と聞いて「タイタニック」と答えられたら僕はそれ以降、その話をどう終わらせようかとばかり考えてしまうだろう。好きな本にしてもそうだ。年間4,5冊しか読まない人から「バカの壁」は面白かったと聞かされたからと言って、そうそう楽しい話が聞けるとは思えない。

 しかしもう一方で思ったのは、やはり自分の好みというのはごくごく狭いものであり、広げる気になればもっともっと広げる事はできるという事だった。ただし、それなりに条件はある。本当に関心の持てない本はやはり読めない。つまり読書が共通の趣味でない人からうかつに聞いてはいけない理由はそこにある。聞くとしたならばやはり読書の達人、いや達人というより単に本好きの人たちから「面白い」本を聞くべきなのだ。

 再度メル友の話に戻すと、本当に狭い好みを共有したければ「好きな作家、好きな小説」でプロフィールを検索してメル友になりませんかとアプローチを掛ければいい。しかしここに問題がある。好きな作家を村上春樹とすればそれなりに返事はあるものだが、夏目漱石とすると返事は少ない。ディクスン・カーだとかエラリー・クイーンとするとなお少なくなる。サイモン・シンなどと書いたって無意味だろう。

 もう一つの問題は例えば村上春樹や吉本ばなな(よしもとばなな)のようなビッグネームが好きだと言って「私もです」という相手が見つかったとして、自分の狭い好みを広げる何かが付け加わる可能性は多くない。相手の読書の好みが自分以上に狭かったり、逆にビッグネーム以外は全く好みが合わなかったりするからだ。

 では夏目漱石だとかエラリー・クイーンのような極私的な好みが合ったら嬉しいかと言えば、そもそも根っこの好みが同じどうしが出会ったわけだから、相手の好きなものは全部とは言わないがかなりの確率で気に入りそうだ。それが悪いわけではもちろんないが、好みを広げる可能性はやはり少なくなってしまう。

 幸い、僕には現在、極私的な好みが合うだけでなくこれまで読んだことがないが読みたくなる作家や本を紹介してくれるメル友が一人いる。お互いの読書を刺激し合える数少ない存在だ。このメル友さんに出会うまでは、幾多のメル友との不完全燃焼なメールのやりとりがあったことか。要は村上春樹(なんども引き合いに出してスマン!)の話をするために、大半が好みの合わない本の話を聞かされる羽目になり、こちらも本当に好きな作家や本の話を切り出す流れができない。つまりは上で書いた「タイタニック」「バカの壁」型の人がいかに多いかという事だ。

 だいぶ話が回り道をしたが、二つの図書館で本を借りるスタイルが身に付いてきたら、図書館の数百万の蔵書がすべて自分の蔵書に思えてきた。そこには圧倒的な数の本があり、一度も読んだ事のない作家やジャンルの本がある。その本の大海原にこぎ出すにあたって、もっともっと自分の好奇心を満たす声が聞きたい。本好きの人たちの声が聞きたくなったのだ。その答えがチャットにあったと気づいたのは、もう半年も前になる。(この項続く)

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posted by アスラン at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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