ディクスン・カーの長編第一作である。前回読んだときに「すでに再読だと思うのだが…」と書いているが、犯人が誰かまったく記憶になかった。そして、今回読んだのだが、やはり覚えていなかった。不思議な事に、この処女作の原型となった「グランギニョール」も読んでいるのだ。それなのにと思ったが、「グランギニョール」は序盤こそ本書と話の展開が変わらないが、結末が全く違っている点を思い返すならば、カーの場合はトリックと犯人とは独立していて、相互に依存関係がないではないかと思いたくなる。
たとえば「密室」をトリックと思わなければ、犯人は存在しない。犯罪自体が不可能なのだから事件関係者はすべてシロとなる。だが、ひとたびトリックだと分かれば、とたんに誰もが犯人でありうるという事が、カーの作品では日常茶飯事として起こりうるのだ。
ただし今回のトリックは、さすがに何度目かの再読なので見抜いた。いや、正確には覚えていた。よく知られているおなじみの手品の仕掛けがすでに呑み込めている観客であるならば、マジシャンの動かす手とは逆の手の動きに注視するだろう。それくらい、本書で使われているトリックとは、今となってはミステリー初心者さえも知っているとしてもおかしくない。仕込みの瞬間に気づけたら、トリックの中身はすぐに想像がつくだろう。
でもそうであっても犯人とトリックとがリンクしているかは確実とは言えない。カーの作品では、動き出す人物とはカーの操り人形に過ぎず、いわば脚本に従う役者にすぎない。「夜歩く」のトリックのシンプルさは、これ以降のカーの作品の中でも群を抜いている。なんといってもアンリ・バンコランが、事件発生の初期段階でトリックを見抜いていたと大見得を切るくらいだ。事実、バンコランが手帳に書き込んだ「事件の概要」(自系列順に並べた事件のあらまし)をじっくり見れば、まさにカーの仕込んだトリックが透けて見える。
それでいて、再読でなければトリックはおそらく見抜く事はできまい。本当に手品のお手本のような作品だ。タネを目の前で見せておいて、うかつな読者ならば気づく事はできない。惜しむらくは、今となっては「この程度のトリックは朝飯前だ」と思うようなトリック慣れしたミステリーマニアが増えてしまったことだろう。
先日も、NHKで放映された「探偵Xからの挑戦状」を見ておどろくべきは、まさに素人探偵がホームズやポアロを上回る名推理を軽々と組み立ててしまう時代になってしまった。かつては並外れた技術という意味で使われた「ウルトラC」という言葉が、今や平凡な練習技の難度を指すようになってしまったように、読者の水準を上げてしまったのが、何を隠そうカーやクイーンやクリスティと言った「ミステリー黄金期の作家」たちであり、その後継者たちなのだ。
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2011年05月23日
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