2011年04月21日

六月六日生まれの天使 愛川晶(2011/1/30読了)

 叙述トリックの作品なのだが、書き方が読者に優しくない。記憶を失った主人公(女性)が、記憶が15分程度しかもたない謎の男の保護者になっている理由をさぐってゆく。少なくとも冒頭から謎に充ち満ちているが、あまり本気で謎におつきあいしたい気分にならない。そもそも記憶障害の若い男と、ごく最近(それも昨日から今日にかけて)記憶を失ったと思われる主人公の女性が同室にいる。記憶障害に記憶喪失。記憶にトラブルを抱えた人間が多すぎるのではないか。1人でも謎作りには十分なのに、記憶に問題を抱えているもの同士の会話は、それこそ不毛だ。いや、不毛というだけでなく、常識的に考えれば、誰か悪意ある存在が2人の記憶を改ざんしているのではないだろうか。すると、この小説はミステリーではなく近未来小説(SF)だったのだろうか。

 ミステリーのつもりで読んでいたのに「SFでした」と言われると正直がっかりする。その「がっかり」感を挽回するのは、すごく大変だ。しかし、読み進めていくと、どうやら記憶障害と記憶喪失が顔をつきあわせる事に違和感を感じているのは、きまじめな読者ばかりのようだ。作者は大まじめで、このあきれた設定でストーリーを押していくつもりだ。しかし、あきれるのは設定ばかりではない。

 主人公は少しずつではあるが唐突に記憶を取り戻していく。それも読者に何のことわりもなく記憶を取り戻してゆく。頭をぶつけたり、電流が走ったりする事もない。うとうととして、何気なくマンションの部屋を出たときに少し思い出している、というような感じだ。思い出したとも書かれず、思い出した事に当人は驚きもしない。当然ながら、読者も驚かない。ただあきれるばかりだ。読者はただでさえ作者のまずい設定とまずいストーリー運びに混乱させられているのに、これではゆっくりと落ち着いて謎について考える足場すら与えられない。

 これを意図的な仕掛けとみるか、ずさんな文章とみるかはいろいろと意見があるかもしれないが、僕はどうも作者の意図だとは思えない。なぜなら、謎解きがされて驚くべき(いや、末尾の解説によると「衝撃の」という形容がふさわしいのだと言うが)結末は、僕からすると肩すかしに終わってしまっているからだ。

 解説でわかるとおり、同業者のミステリー作家がテクニックをほめたたえると同時に、主人公の正体を見極められなかったと告白している。さらには「もう結末まで読んで何がなんだかわからなかった読者は…」と書くにいたっては、素人読者にはやはりわかりにく作品なのだと、解説者自身認めているようなものだ。

 こう考えるとクリスティ『そして誰もいなくなった』のシンプルかつ明快な謎解きが、いかにうまく読者を導いているのかがよくわかる。赤川次郎が、いつ聞かれても「クリスティのベストワン」に『そして誰もいなくなった』を推すのは、なるほどというしかない。

 それは「過不足のない、必要にして十分な描写」という赤川さんの表現で言い尽くされている。一方で、この作品の致命的な欠点は何かと言えば、「十分条件」が不足しているのではなく、「必要条件」が不足しているという点だ。要するに、何が謎なのかさえも読者にはわからないでストーリーは進行する。これはミステリーとして「読者に優しくない」。

 その上、途中で「ヤクザ同士のいざこざ」という伏線が見えてきた段階で、僕などは「ああ、そういう話なのか」と一挙に物語そのものへの興味を失ってしまった。主人公の記憶が失われた事情がどうであれ、そして記憶が回復することでどのような結末が待ち受けていようとも、ヤクザのいざこざがメインに居座るような物語はつまらない。登場人物にも人間関係にも、そしてメインストーリーにさえも興味がもてないとなると、これは致命的以前の問題を抱えたミステリーではないだろうか。
posted by アスラン at 13:09| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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