2011年04月03日

小林秀雄の恵み 橋本治(2011/3/15読了)

 500ページ以上もある評論だ。橋本治がいったい何者かをごく最近実感しだした新しい読者にとっては、これが「小林秀雄」について書かれた本というだけで読みたくなったわけではない。『本居宣長』を書いた小林秀雄がなにを考えていたかを書いているからこそ、読みたくなったのだ。


 それは『本居宣長』という大作で自分がうけとった小林秀雄という一批評家のなにかが、いったいに正しいものだったのかということの確認でしかない。もちろん、この「正しい」という表現は、「正答」とか「解答」などというものを意味しない。そういう意味での正しさなどないということを、僕らはとうの昔に小林秀雄自身に教わっていたはずだ。だからこそ、『本居宣長』を読むこと、あるいは『感想』という未完のベルグソン論を読むことが、いったどのような体験だったかをもう一度思い起こしたい。ただそれだけだ。そして、その答は、500頁近く読んだ本書の終わり近く、終章「海の見える墓」と題された文章に見つかる。僕は、ここから、あるいはここだけ読んでもよかったわけだ。

 橋本治は、「小林秀雄の思想とは何か?」という設問の形では彼の「思想」を取り出すことはできないと言う。彼の思想を言い切ってしまえば、「読むに価するものをちゃんと読め」であって、それは思想というよりも「方法論」でしかない。つまり方法論のみがあって答がないところに、小林秀雄という思想家をとおりいっぺんに理解することを非常に難しくしている原因があるというわけだ。

「小林秀雄とは何者で、どういう思想をわれわれにもたらしたか」をダイジェストにして紹介しようとすると、たちまちのうちに「小林秀雄その人」は姿を消してしまう。そのおどろくべき現実に直面させられたのは、橋本治だけではなく、僕自身もそうだ。いや、すべての小林秀雄の読者に思い当たることにちがいない。こうまで明快に自分の実感に突き当たらせてくれる橋本治という「こだわりの人」に、僕はあらためて感謝したい。こうまで粘着的な文章で、自らのトリビアな印象を合理的な解釈に移し変えていく力技をもった評論家を、最近ではなかなか見ない。

 それは、吉本隆明や柄谷行人、あるいは蓮實重彦といった、一度は小林秀雄の思想を原理的に受け止めた世代の批評家たちとは、あきらかに一線を画した合理主義者の文章だ。『考えるヒント』が、読者に「考えるヒント」を提供するだけでなく、小林秀雄自身が自らに問う「よくよく考えるためのヒント」でもあるという、著者の言うところの「独断」が、「小林秀雄の思想とはなにか」についての一種胸をすくような答になっていることに、僕は読んでいて思わずアッと声をあげてしまった。うならされたのだ。

 小林秀雄を「謙虚な人」と言う橋本治は、「謙虚な人」が謙虚であることを、わざわざ小林秀雄を体験した僕らに示してくれる「律儀な人」である。僕は律儀な人には素直に頭が下がる。もちろん、律儀な人に感謝して僕ももういちど『本居宣長』を読んで、小林秀雄の「謙虚さ」をあらためて体感しようと思う。
posted by アスラン at 03:05| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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