2011年03月28日

そして誰もいなくなった アガサ・クリスティー著/青木久惠訳(クリスティー・ジュニア・ミステリ,2011/3/?読了)

 ハヤカワ・ジュニア・ミステリのスタンス(果たす役割)は、原作のよさを損なうことなく、古典にも近いミステリー黄金期(1930〜40年代)の作品を今の10代くらいの少年少女に読んでもらおうとするものだろう。児童書と一線を画すのは、通常のジュブナイルのように子供にはふさわしくないエピソードを割愛したり、全体的に親が子供に買い与えやすいような配慮をほどこしたストーリーの改変といったものが、この本にはみられない点が挙げられる。

 たとえば女教師ヴェラ・クレイソーンは、家庭教師の勤め先の男性を愛するあまりに、結婚の障害となりそうな彼の甥を死に至らしめる。彼女にそうさせるのは色恋沙汰の末の、いわゆる「痴情のもつれ」にあるわけだが、この点は児童書には少々ふさわしくない。だが、想定する読者が、小学生高学年〜中学生であるならば、今どきの早熟な子供たちには毒にもならない。

 だから、これをジュブナイル(児童書)とみなしていいものかとよくよく考えると、少々疑わしい感じがする。ウェブで見つけたブログでも、本書を児童書のつもりで読んではみたものの、児童書の作家ではなくて、大人向けの翻訳を手がける訳者による〈本格的な〉児童書という点が、かえってあだになっているのではないかという指摘が書かれていた。どうやら、児童書のように話を要約することなく、全体的に原作そのままを子供向けの言葉遣いで翻訳しているというところが、本書のいわば「ミソ」になっている。そのことが、かえって児童書としては読みにくい出来になっているという事らしい。

 それだけでなく、想定する読者(10代の少年少女)のために、原作にはない解説文を挿入するという仕草が、いらぬお節介ではないかという指摘もあった。確かに、僕が今回ざっと本書を読んだ感触では、昨年出版されたばかりのハヤカワ・ミステリ文庫の新訳の文章と、それほど変わるところがない。もちろん、難しい表現をやさしく置き換えてはいるが、内容が改められているわけではない。そもそも、ハヤカワ・ミステリ文庫の新訳自体に「原作にはない、いらぬお節介な解説的表現が散見される」事が気になって、もしやと思ってこちらの訳文を読んでみようと思い立っただけの事なのだ。

 ハヤカワ・ミステリ文庫(新訳)とクリスティ・ジュニア・ミステリとに共通する翻訳家の青木久惠さんは、昨年の新訳を書くにあたって、こちらのジュニア・ミステリの訳を底本としたのは明らかだ。そして、当然ながら大人向けの翻訳表現に戻すだけでなく、子供向けの「お節介な説明」も邪魔にならない程度に残し、さらには、訳出が曖昧な部分の改稿をおこなったとみるべきだろう。というのも、このブログですでに書いたハヤカワ・ミステリ版「そして誰もいなくなった」で指摘したいくつかの訳が、ジュニア・ミステリと比べると変わっているからだ。

 もちろん良くなっているならば何の問題もない。改良が改悪になっていたならば、それはいただけない。いただけないだけでなく、何故にそんなことが起こりうるのかが納得できない。だって、ジュニア・ミステリの方の訳がわかりやすいのだから。そこで思い付いたのは、もしかすると、ジュニア・ミステリを書くにあたって青木さんが底本にしたのが、日本で唯一「そして誰もいなくなった」の翻訳を提供しつづけてきたクリスティ文庫(旧訳)の清水俊二さんの翻訳ではないかという推測だ。清水訳を参考にしながら、ざっと書き流した翻訳が本作で、さらにハヤカワ・ミステリ文庫の翻訳へグレードアップするために、不明な部分を正確に訳出しようとして、かえって分かりにくい曖昧な訳が混入してしまったのかもしれない。

 極論かもしれないが、今回読んだ感想としては、ハヤカワ・ミステリ版を読むよりも、ジュニア・ミステリ版を読む方が、青木さんの訳はしっくりとくる。読みやすいのも長所の一つだし、なにひとつ省略していないがゆえに、児童書だというあなどりは無用だという点も、僕がオススメしたい第一の理由になる。
posted by アスラン at 20:01| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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