2011年03月22日

Yの悲劇 エラリー・クイーン(角川文庫,2011/3/5読了)

 すでに何度も書いているが、僕とクイーンとの出会いは小学5年か6年のときの親からの誕生日プレゼントだった。僕の本好きを充分よくわかっていた母から、自宅前の商店街にあった行きつけの本屋で「好きな本を選んでよし」と言われ、なんとなくえらんだ本が児童書の「Yの悲劇」だった。今となっては、そのときの本には正しくたどり着くことも、また読むことも叶わないと思っていた。ところが一昨年、僕にとって〈記念碑〉でもあるジュブナイルが、なんとまだ購入可能であるとわかった。さらには立川市最大の書店の倉庫に眠っていた最後の在庫本を売りきる事に貢献することとなった。その顛末は、このブログに書いた(書評「Yの悲劇(秋田書店)」参照)。

 その本は、今読み返しても子供向けとは思えないほどに原作の良さを余すところなく伝えていて、当時の少年を虜にした理由がよくよく飲み込めた。このジュブナイルで感銘を受けたポイントを挙げれば、原作の特長がどこにあるのか言い尽くせるだろう。まず第一に「意外な真相」だ。多くの人にとって馴染みぶかいシャーロック・ホームズの諸作品がそうであるように、何よりも結末で驚かされるミステリーは、読者にとってわかりやすいポイントの一つだ。

 次は、ルパンや少年探偵団などにみられるように、隠し部屋や隠しとびらを見つけだしてお宝や謎のメッセージを探り当てるという冒険とサスペンスの要素が盛り込まれている点だ。探偵ドルリー・レーンが〈ある場所〉から発見した「書き物」は、まさに宝探しの醍醐味を読者に提供する。しかも、その発見は真相を明らかにするどころか、さらなる謎に満ちた混乱をもたらす事になる。

 そして最後は「圧倒的な推理による犯行の再現」だ。特に僕が打ちのめされたのは「マンドリンによる犯行」でもなければ「バニラのにおい」でも「すべすべした肌」でもない。エミリー婦人と娘ルイーザの寝室の床に残された、タルカム・パウダーを踏みちらかした足跡から、レーンが到達した帰結だった。現場に残された手がかりは何一つ隠さずに提示されたにも関わらず、読者は決して探偵のようには緻密な推理を組み立てることがかなわない。

 クイーンの代表作を伏線を追いながら再読すると、こんなにあからさまに手がかりが書かれているのに、なぜ初読のときに気づけなかったのだろうと思うことが往々にしてある。しかし、それはやむをえないことだろう。たいていの読者は、作者が望むようには頭をフル回転させて真剣にパズルを解こうなどとは思わない。作者の導くままに探偵と同じものを見聞きして、探偵が話す言葉に耳を傾け、そして驚く。それが何より心地よい。探偵は良きツアーコンダクターであるべきなのだ。その意味で、ダン・ブラウンの「ダヴィンチ・コード」などは現代ミステリーにおける成功例だと言える。

 その「ダヴィンチ・コード」の訳者・越前敏弥が、今回の角川文庫版の新訳を担当しているのは、まさに行幸というしかない。はじめこそ少々軽薄な文体になるのではないかと邪推したのだが、これまで読んだ「Yの悲劇」の翻訳よりもぬきんじて同時代の言葉で書かれている。しかもミステリーの(というよりもクイーンの)翻訳にありがちな「生硬で、ただ重々しく、時に気取った文章」が最小限に抑えられている。

 なにより読みやすい。例のジュブナイルからだいぶ時をおいて創元推理文庫版「Yの悲劇」を読み、1999年にあらたにハヤカワ・ミステリ文庫に収められた新訳を読んだときでさえも、翻訳に新鮮さを感じる事はなかった。しかし、今度の角川文庫版は新鮮な感覚を維持したまま読み通す事ができた。ハヤカワ・ミステリ文庫の宇野利泰の翻訳が500ページもあるのに対して、75ページもスリムになった越前訳の文体になんらかの秘密があることは間違いない。それについては最後に触れよう。

 「エラリー・クイーン論」の著者・飯城勇三が指摘したように、生涯にわたって「意外な推理」のミステリを書き続けたクイーンではあるが、ことドルリー・レーンシリーズに限っては〈意外な真相〉と〈意外な推理〉が絶妙なバランスで同居している。飯城の評論を読んだ後では、「Yの悲劇」がクイーンの代表作であるというだけでなく、今なおオールタイムミステリーの上位に(あるいは一位に)ランキングされる理由が理解しやすくなったように思う。

 飯城は次のようにエラリー・クイーンの独自性を分析する。

 クイーンのような「意外な推理」で勝負するミステリ作家はきわめて少ない。ほとんどのミステリー作家は、「意外な真相」派か「意外なトリック」派だ。「意外な真相」派の代表がクリスティで、「意外なトリック」派の代表がカーだろう。「意外な推理」派の作家が少ないのには理由があると飯城は言う。意外な真相やトリックは、作家がそうだと言えばそれだけで真実になる。「どうして?」ということは問われない。しかし「意外な推理」の場合は、読者を納得させるのに手間暇がかかる。推理自体が意外だと読者に感じさせるには、探偵が知りうるすべての手がかりを読者にも与えるという公正さと、手がかりから演繹する推理に凡人には思いつかない論理的な飛躍が求められるからだ。

 ミステリー作家の有栖川有栖が、角川文庫の「Xの悲劇」の解説で"1932年の奇跡"について語っていたが、まさに絶頂期であった年に書いた4冊の長編に含まれる「Yの悲劇」は、クイーン自らが「意外な推理」のお手本とすべき〈クイーンミステリー〉の金字塔なのだ。それでいて、ミステリーマニアにしかわからない難解な推理は何一つない。先に述べたように「毒殺犯と殺人犯が別にいるのか、それとも単独犯か」を、現場の状況から正しく推理する過程は当時の小学5年生にもわかった。強いて言えば、巻き尺を持ち出して「ある数字」を導き出す過程が面倒くさい事ぐらいか。当時も今も、ただ単に「解る」だけでなく推理の「意外性」に驚かされる。

 昔からマニアの間では「マンドリンが凶器に使われた理由」についての推理は日本人にはわかりにくいし、まして子供には理解不能ではないかという指摘があるのだが、それはマニアや評論家の無用な詮索ではないだろうか。マンドリンの推理は「犯人像を特定するための傍証」であって、それ自体、推理の核心部分ではないからだ。確かに非常に玄人受けする「意外な推理」ではある。大人になってから再読してみると、何一つムダにしないクイーンの手がかりの提示と推理にはうならされるばかりだが、単に作品を楽しみたいだけの読者には「マンドリンの謎」の面白さは気づきにくいかもしれない。しかし、それ以外に「意外な推理」は何段階も用意されており、必ずしも世に喧伝されている「マンドリンの謎」が「Yの悲劇」を代表する謎というわけではないのだ。

ハヤカワ・ミステリの1ページ19×42字=798字
角川文庫の1ページ=18行×42字=756字


 なんと1ページの文字数は、角川文庫の方が少ない。にもかかわらず、ハヤカワ・ミステリ文庫の宇野訳は500ページきっかりを費やし、角川文庫の越前訳は425ページしかない。つまり文字数を目の子で勘定すれば

 宇野訳 798×500=399000文字
 越前訳 756×425=321300文字

という結果になり、なんと越前訳は宇野訳のきっかり80%の文章で「Yの悲劇」を訳しきっている。いったいどうしたらできる芸当なのだろう。それを知りたければ、たとえば「第二場 ハッター家」の冒頭部分を比べてみればいい。

[宇野訳]
 狂ちがいハッター家…その異名がつけられたのは、かれこれもう、何年か前のことになる。当時、ハッター家のニュースは。毎日のように新聞紙上をにぎわせていたのだが、新聞記者のうちで想像力のゆたかな男が、子供のころに呼んだ『不思議の国のアリス』の連想から、そうした異名を思いついたのだ。おそらくハッター家にしいても、誇張がすぎると苦情を出したかったところであろう。いくら彼らが風変わりだったにしても、あの不朽の名作に出てくるハッターほどには狂っていなかったし。ばかさわぎのほうではむしろ反対で、その億万分の一のほがらかさも持っていなかったのだ。

 このように265文字で冒頭の1段落を訳している。それが越前氏の手に掛かるとこうなる。

[越前訳]
 いかれた帽子屋…。何年も前、ハッター家にまつわる報道が紙面を騒がせていた時期に、ある想像力豊かな記者が懐かしい『不思議の国のアリス』を思い起こして、一家をそんなふうに命名した。それは理不尽な誇張だったかもしれない。異常さにかけてはある名高い帽子屋の半分もなく、愛嬌は億兆分の一も備えていなかったのだから。

 およそ153文字。ここだけ比較してみれば、なんと宇野訳の58%という驚異的なスリム化が図られている。

 宇野訳と越前訳のどちらが原文に忠実かどうかなどは、ここでは問わない。この部分をみる限り、どちらも伝えるべきことを同等に伝えているように思う。違いは文体だ。宇野訳は、字数を費やした割には判りやすくない。確かに、それまで創元推理文庫版でしか読めなかった「Yの悲劇」に新風を吹き込むべく、訳者は渾身の訳を作りあげたはずだ。にもかかわらず、どこかピントが甘い感じがする。昔からの翻訳にありがちな、言いたいことにすぐに届かない隔靴掻痒で曖昧な表現に終始した訳文だ。

 それに対して、越前訳は、きりっと締まっていて曖昧さがない。まるで今風のビールのトレンドのように"喉ごしさわやかでドライな"文体で書き上げられている。とかく「気取っていて思わせぶり」な探偵と批判されてきたドルリー・レーンではあるが、それもこれも過去の訳文の思わせぶりな表現が利いているのかもしれない。越前訳のような書き方が誰しも可能であるならば、クイーンの過去の名作たちをすべて新訳にすれば、マネーロンダリング(貨幣洗浄)ならぬエイジロンダリングによって、セピア色がかった原作が色鮮やかなオリジナルの色を取り戻すのではないだろうか。

 もちろん異論がでるのは承知の上だ。ミステリーマニア好みの「大げさなケレン」は、もういらない。
posted by アスラン at 03:13| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。