2011年02月12日

「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティー作、青木久惠訳)」の翻訳について(その1)

 クリスティ生誕120周年を記念して、昨年から今年にかけて10作ほどの作品が新訳で刊行される。その皮切りが、クリスティの代表作「そして誰もいなくなった」だ。昨年の秋に書店にならんだのでさっそく入手した。なにより気になったのは旧訳(清水俊二訳)との違いである。


 旧訳の初出は1955年のハヤカワ・ポケットミステリで、ハヤカワ・ミステリ文庫として出版されたのが1974年。以後、多少の改訂を経てアガサ・クリスティ文庫として装丁も新たに清水訳は生き延びてきた。いまだにそれほど古さを感じないのは、僕自身が歳を重ねてきたからだろうか。いや、それ以前に「そして誰も…」が、極力その当時の風俗などを取り入れずに、無人島という現代社会から隔絶された空間に限定して物語が進行するからだろう。そこは空間だけが外部から切り離されているわけではなく、時間さえもが外部とは切り離されている。いまだに「無人島」における連続殺人というテーマがなんどでも再生するのには、そこに普遍性があるからだろう。

 旧訳では、「無人島もの」というテーマの普遍性を見抜いて徹底的に抽象的な描写にこだわった作者の先見性が見てとれると同時に、ヒステリックな心理描写を徹底的に排除して冷静な筆致でサスペンスを演出した訳者の手腕が実感できる。しかし、初出から50年以上たった今、ついに生まれ変わるときがやってきた。でも、新しい読者を待ち受ける青木久恵訳とはどんなものなのだろう。新訳は果たして旧訳を乗り越えているのか。若い新たな読者のニーズに応えているのだろうか。そこが僕のなによりの関心事であり、もう一度小説を味わうのは後回しになった。

 ここでは、「そして誰もいなくなった」の新訳と旧訳との比較を行う。ポイントは3つある。
(1)どちらが読みやすい訳か?正しい訳はどちらか?
(2)登場人物の造形(演出)はどう違うか?
(3)ミステリーの翻訳として、どちらが適切か?

 このブログですでになんども言及しているが、ここのところ清水俊二という翻訳の大家(同時に字幕翻訳の大御所でもある)の訳を非難する声があちこちで聞かれる。一読者から聞かれるというよりは、ミステリー評論家や同業者である翻訳家からケチがついている。おそらくは1988年に亡くなる以前から思うところあった人たちが、故人を偲ぶかわりに生前言えなかった心の丈を、思う存分ぶちまけているのではないだろうか。僕は正直、こういう取り上げ方には関心しない。もちろん専門家でもない一読者としては、正しい翻訳で読みたいとつねづね思っているが、この「正しい」という意味には、いろんなレベルの事柄が含まれている。

 例えば「誤訳だらけではないか」とか「はしょったり、要約したりしていないか」と言うものから、「原文の意図が伝わるかどうか」や「日本語としておかしくないか」というものまで、様々な事で人は翻訳にケチをつける事が可能だ。自身が名翻訳家で、「翻訳の世界」という雑誌で欠陥翻訳時評を長い間続けてきた別宮貞徳さんは、「誤訳・悪訳・欠陥翻訳」という分類を編み出している。誤訳ばかりがあげつらわれる事が多いが、翻訳という作業が一個人の孤独な作業であるかぎりは、一つの翻訳作品に多少の誤訳が混入する事はやむを得ない。だから誤訳の多寡を指摘するだけでは翻訳の本質を見落とす事になると、別宮さんは以前から一貫して主張してきた。そこで僕も別宮さんにならって、なるべく誤訳だけにこだわらないように、いくつかの観点で新旧の「そして誰も…」を評価しようと思う。

 しかし、まずは翻訳そのものの形を比較しなければ話は始まらない。「(1)どちらが読みやすい訳か?正しい訳はどちらか?」から見ていく事にしよう。ところで、僕は翻訳の正確さや読みやすさについて、すでに多少の比較を試みている。

新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義
「そして旧訳が残った 〜旧訳『そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)』の意義〜」


の2つの記事がそれだ。実は入手したての新訳(青木訳)と、手元にあったクリスティー文庫版の旧訳(清水訳)とを比べてみた。最初の記事では、原文を参照する事なく憶測を書いてしまった。思うに、誤訳の多さを指摘された清水訳に置き換わるくらいだから、少なくとも「正確さ」の点では、新訳が旧訳を凌駕しているものと最初から先入観をもっていた。それが失敗のもとだった。結局、原書を図書館で借りてきて、3つを並べて比較したら、あれれっ?なんと僕が指摘した部分の多くは旧訳の方に軍配があがったのだ。だから「そして旧訳が残った」と下手なシャレではあるが、比較しなおした結果を後追い記事にして載せた。

 あらかじめ断っておくが、上記の2つの記事で比較したのは第一章第1節だけだ。たかだか3ページに過ぎない。だから、これをもって「新訳は出来が悪い」と言いたいわけではないし、旧訳を必要以上に擁護したつもりもない。ただ、2つの翻訳の性質の違いが見えてくる事を指摘したい。詳しくは上記の記事を読んでもらえればありがたいが、要点を挙げておくと、

[新訳の特徴]
・並列句を入れ替える事が多い。それによって文章の論理構造が変わる場合がある。
・原文に書かれた事を漏らさず訳そうと心がけている(ように見える)。
・「原文に忠実」をモットーとしたせいか、文章の流れ(伝わりやすさ)が悪いと感じる事がある。
・勢い余ってなのか、原文にない解説的表現を加えている。
・「彼」「彼女」という表現を極力使わない。名前さえも肩書きに置き換える事がある。


 「文章の論理構造」に無頓着だと感じたのは以下のような箇所だ。

(原文)In the corner of a first-class smoking carriage, Mr. Justice Wargrave, lately retired from the bench, puffed at a cigar and ran an interested eye through the political news in the Times. 
(旧訳)最近現職から引退したウォーグレイヴ判事は一等喫煙車の隅で葉巻をくゆらせ、《タイムズ》の政治記事を熱心に読みふけっていた。
(新訳)ウォーグレイヴ判事は、一等喫煙車の隅の席で葉巻をくゆらせていた。少し前に公職を退いた判事の目は、《タイムズ》紙の政治記事を追っている。


 原文では、ウォーグレイヴ判事が客車で「葉巻をくゆらせ」、かつ「(新聞の)政治記事を読みふけって」いる。ただし、ただの「判事」ではない。「最近引退したばかりの判事」が、これこれしたと書かれているのだ。ところが、旧訳のように書けたはずなのに、新訳は後半の「新聞を読みふけっている判事」にのみ、「引退した」という修飾節をかぶせる。これではニュアンスが微妙に変わるはずだ。下手をすると因果関係が入れ替わってしまうことすらある。前述の記事では「おなかをすかせたポチは、たっぷりとご馳走にありつき、眠りについた。」という文を例に挙げた。これが、新訳者の手にかかると「ポチはたっぷりとご馳走にありついた。おなかをすかせたポチは眠りについた。」になってしまうかもしれない。

 「原文にない解説的表現」というのは、
(原)Somerset
(旧)サマセット
(新)イギリス南西部のサマーセット州

(原)the Devon coast
(旧)デヴォンの
(新)サマーセット州の西どなり、デヴォン州の

という部分だ。なぜこうまで原文に書いていない地理的説明を加えなければならないのか、どうにも分からなかった。しかし、最近ようやく手がかりらしき指摘がブログに書かれているのを見つけた。

 新訳の青木久惠さんは、今回のアガサ・クリスティ文庫版の翻訳を担当する前に、クリスティー・ジュニア・ミステリ版「そして誰もいなくなった」の翻訳を手がけている。それを読んだ方の感想では、説明的な記述が親切にも付け加えられているが、子どもが読んで想像する余地が少なくなってしまうのではないかとの危惧が綴られていた。このブロガーも僕同様「余計なお世話」と感じている事になる。またしても僕の憶測だとまずいので、ただいま、ジュニア・ミステリ版「そして誰も…」を図書館から取り寄せ中だ。追って、検討結果を紹介できるだろう。

 では引き続いて、第一章で原書と旧訳と新訳を比較して気になったところを一つ一つ見ていこう。あらかじめ断っておくが、原書と旧訳は対応が一致するため、舞台はインディアン島(Indian Island)だが、新訳は最近イギリスで出版された原書をもとに「兵隊島(Soldier Island)」に変えられている。事情は推して知るべしだ。インディアンが「政治的に正しくない用語」だからだろう。

[1-1 ウォーグレイブ判事]
(原)Nodding his head in gentle approval of his logic, Mr. Justice Wargrave allowed his head to nod.
(旧)ウォーグレイヴ判事は自分が下した結論にみずからうなずきながら頭をうなだれた…
(新)自分の出した結論に満足した判事は、こっくりうなずいた。そして、うなずいたままうなだれて…。


 新訳の「うなずいた、うなずいたまま、うなだれて」という流れは、くどく感じられないだろうか。確かに判事は「うなずき、うなだれる」。しかし、同じ部分を旧訳はすっきりと訳している。原文もひとまとまりの文なのに、なぜ新訳は文を分けた上に、わざわざ「そして、うなずいたまま」などと言い直したのだろう。

[1-2 ヴェラ・クレイソーン]
(原)But the house had certainly been built by a millionaire and was said to be absolutely the last word in luxury.
(旧)しかし、邸宅はたしかにある富豪によって建てられたもので、贅沢きわまるものであるといわれている。
(新)とはいえ、その島に大金持ちが邸宅を建てたことは本当らしい。これ以上ないほどの、すばらしい豪邸という評判だ。


 新訳の「本当らしい」は変だ。原文の前半は「certainly(確実な事だが)」と言っている。ここはヴェラの独白だから、本人が邸宅の存在を確信しているわけだ。後半の「was said to」を前半にも適用してひとくくりにして「らしい」と書いてしまったようだ。

[1-3 フィリップ・ロンバート]
(原)That little Jew had been damned mysterious.
(旧)モリスがいったことは謎であった。
(新)あのチビのユダヤ人、やたら謎めいたことを言っていたなあ。


 ロンバートから見たモリスの描写がなんどもでてくる。旧訳では「ちびのユダヤ人」という表現を差別用語だとして訳出していない。しかし、現代こそ「political corectly(政治的に正しい)」表現が求められるのに、旧訳の方に「気遣い」が目立つのは不思議だ。もし、今の作家が書くとしたら、こういった表現は避けるだろう。本作のように過去の作家の書いたものは、目にあまる場合は手直しもやむを得ない。作者に差別する意図がなく、当時の社会状況がそうさせたと見なせる場合にかぎり、読者に理解をもとめる文言が巻末に書かれる事が多い。

 ただし、こういった文言をハヤカワ・ミステリー文庫で見たことはほとんどない。人が殺されるのが当たり前の小説を扱う出版社にとって、こうした問題に真正面から本気で取り組む必要はないという不文律でもあるだろうか。

 いずれにしろ、清水訳は差別用語に配慮して訳文を「改変」している。これは、抄訳が当たり前だった戦前のミステリー状況と比較すれば、きわめて穏当な(言い換えれば「きわめて誠実な」)対応と言えるが、現代の読者から見ると「くさいものにフタ」的な、ぬるい対応と見られるだろう。作者の独断なのか、当時の出版社の方針なのかは不明だ。文責は棚上げするとしても、旧訳では「ちびのユダヤ人」を人名の「モリス」に置き換えたせいで、次の文で初めて「アイザック・モリス氏は…」と名前をあかすところとのつじつまが合わない。

(原)There wasn't much he drew the line at really...No, there wasn't much he'd draw the line at.
(旧)たとえ、不正なことでも、あまり気にしていないことは事実だった。いや、むしろ、危い橋を渡ってみたいのだった。
(新)彼があまりこだわらないのは、本当のことだった…。四の五の言う気はない。


 新訳の文章では、ときどきつながりがわからなくなる表現がある。上記の「四の五の言う気はない」というのも、なんだか唐突だ。もしかしたら新訳の方が正確な表現で、旧訳の方がざっくりとした意訳なのかもしれない。しかし「伝わる訳文」はどっちだろう。

[1-4 エミリー・ブレント]
(原)Enveloped in an aura of righteousness and unyielding principles, Miss Brent sat in her crowded third-class carriage and triumphed over its discomfort and its heat.
(旧)ミス・ブレントは自分が正しいと信じている主張をかたく持して、混みあっている三等車にきちんと座り、不快と暑さをじっとこらえていた。
(新)独りよがりな思い込みと頑迷のオーラに包まれたミス・ブレントは、混み合う三等車の暑さと人いきれに耐えて、得々としていた。


 もちろん「Enveloped in an aura of righteouness and nyielding princlipales」の訳し方が問題だ。ここはどちらがいいとは一概に言いにくい。まず1970年以前には「オーラ」という言葉は日本語としてなじみがなかった。だから今の読者にはなんの抵抗もない「オーラに包まれた」と表現できる青木訳には、一日の長がある。旧訳のように、あえて言い換える方が読者には古めかしく感じられるかもしれない。

 ただし、新訳の「独りよがりな思い込み」と「頑迷」という言葉が、それぞれ「righteouness」と「unyielding principles」に対応しているのか、今一つ腑に落ちない。righteousnessは「自分こそ正しい」という信念を意味する。そこから「思い込み」と表現するのは可能だろうが、「独りよがりな」とまで言い切っていいものか。旧訳は、名詞句をそのまま直訳するのを避けて、かなりざっくりと意訳することで「an aura of A and B」のような並列句の訳出という難題をいっきょに乗り越えている。アバウトに言えば、断然旧訳の方が伝わってくる。

 もう一つは「Miss Blent…triumphed over its discomfort and its heat」の部分の訳だ。

 (旧)不快と暑さをじっとこらえていた。
 (新)暑さと人いきれに耐えて、得々としていた。


 新訳では「耐えられる自分に喜びを感じていて、平然としていた」というニュアンスが感じられる。しかしtriumph overには「打ち勝つ」という意味はあるが、「喜々として」というニュアンスまではないのではないか。「得々としていた」というのは、まるでガマン大会のチャンピオンのような言いぐさではないか。

 ところで新訳の青木さんは、なぜか並列表現の順番を入れ替えるのが好きだ。「人いきれと暑さに耐えて」だとまずいと考える”合理的な”理由があったのだろうか。これが度を超すと、最初に採りあげた関係代名詞の係り受けに見られたように、因果関係が逆転する誤りを呼び込んでしまう。

(原)「Bellhaven Guest House」「a guest house of my own」
(旧)「ホテル」「家族的なクラブのような宿」
(新)「旅館」「旅館」


 おそらく「Geust House」のようなタイプの宿は、日本には存在しないのだろう。二人とも訳出に苦労している。いや、苦労せずに割り切っているのかもしれない。僕がまっさきに違和感を感じたのは、新訳の「旅館」という表現だ。そもそも日本語では「旅館」と「ホテル」とを使い分けているからだ。「旅館」といえば純和風の宿泊施設と決まっている。ホテルの方は、大きなリゾートホテルからビジネスホテルや簡易ホテルまで、さまざまな形態の宿泊施設が該当する。「宿」は一般名詞として使えるが、多少の和風なイメージがつきまとうので、旧訳のように「クラブのような宿」という断り書きをつけるのも一つの手だろう。よくわからないが、日本で言う「ペンション」とはまた違うのだろうか?

[1-6 アームストロング医師]
(原)It had been a near thing, that!...By Jove, it had been a near thing though...That had been a near shave, too. Damned young fool!
(旧)(前略…)もう少しで、自動車をぶつけるところだった。向こう見ずな奴だ!
(新)(前略…)またも、あぶないところだったじゃないか。いまいましいったらない!


 旧訳は、原文に見られる表現の繰り返しに無頓着だ。とくに最後の文の「too」の意味を見落としている。一方で、新訳の方はきっちり押さえた訳になっている。15年前も「あぶなかった!」、そして今度も「またあぶないところだった」という意味だ。

[1-7 アンソニー・マーストン]
(原)Who were these Owens, he wondered? Rich and stinking, probably.
(旧)それにしても、オーエン夫婦というのは、どんな人間なのだろう。おそらく、金はあるが、あまり愉快ではない人間だろう。
(新)それにしても、このオーエン夫妻というのは、いったいどういう人間なんだろう。きっと腐るほど金がある連中なんだろうなあ。


 「Rich and stinking」の訳だが、"stinking"の解釈が分かれている。旧訳では「(人柄が)うんざりさせられる」と解し、新訳では「うんざりするほど(金を)もっている」と解している。手元の英和辞典では「実にいやな」とか「いまいましい」という意味で、旧訳を支持している。だが「stinking rich」という成句で「大金持ちの」という意味があるようだし、リーダース英和辞典によると、stinkingだけで口語として「腐るほどの金をもった」と意味があるようだ。ただし、この口語の語義が1939年当時のイギリスで使われていただろうか?理屈で考えると旧訳に軍配があがりそうだ。

 第一章でめぼしいところは比較した。最後に第二章第8節から引用して、新旧の訳の違いを総ざらいしておこう。

[2-8]
(原)
the Judge asked him:
"Is Lady Constance Culmington expected, do you know?"
Rogers stared at him.
"No, sir, not to my knowledge."
The judge's eyebrows rose. But he only grunted.
He thought:
"Indian Island, eh? There's a nigger in the woodpile."

(旧)
判事はたずねた。
「コンスタンス・カルミントン」という婦人が来るかどうか知っているかね」
ロジャースは判事を見つめた。「いや、存じませんが」
判事は眉をあげた。しかし何かききとれぬことをつぶやいただけだった。彼は考えた−
インディアン島か。まきの中にインディアンが一人いる。

(新)
判事は尋ねた。
「コンスタンス・カルミントンさんは来られることになっているのか」
執事は判事を、まじまじと見た。
「いいえ、判事さま。わたくしはうかがっておりませんが」
判事は眉をピクリと上げた。だが、なにやらうめいただけだった。
”兵隊島だと? いささか、興ざめだな”と、判事は思った。


 これまで見てきたように、新訳はできるだけ「原文に忠実な翻訳」を心がけている。英語のheやsheを「彼」「彼女」と訳さないのも、青木訳のこだわりの一つだろう。日本語の「彼」「彼女」は、英語の三人称代名詞と違って「つきあっている異性」の意味が付着するからだ。また、時に代名詞や名前よりも肩書きで表現する方が日本語としてなじみがいい。上記の文でも旧訳は原文通りに「ロジャースは判事を見つめた」と訳しているが、新訳はあえて「執事は判事を、まじまじと見た」と肩書きに置き直している。

 ところが正確さを追求すれば「読みやすさ」に直接つながるとは言えないところに、翻訳の難しさがある。上記の文章だと「執事は判事を」というように語呂が重なる。ぱっと見にどちらがどちらがどちらかわかりにくい。旧訳の清水は「彼」「彼女」を使う事にこだわりはない。名前も同様だ。正確さにこだわるよりもわかりやすさを優先する。僕はおおむね青木訳の「彼」「彼女」撲滅キャンペーンに賛同するが、青木訳には「わかりやすさ」を第一とする臨機応変さが不足しているように思う。

 旧訳はあまり感情のたかぶりを登場人物のせりふにこめないし、語りも簡潔だ。その分、客観的で物静かなトーンが作品全体を支配しているが、新訳は登場人物の感情の高まりをすなおに台詞にこめていて、語りも登場人物の心情に沿うように起伏にとんでいる。新訳の方が、今の若い読者には感情移入しやすいかもしれない。

 これは以前にも指摘したが、文の格調としては旧訳の方が一歩も二歩も先んじている。たとえば「カルミントンさんは来られることになっているのか」。せっかく女友達に敬語を使うのであれば「来られる」ではなく「いらっしゃる」なのは言うまでもない。旧訳では友人扱いなので「来るかどうか」ですませている。「わたくしはうかがっておりませんが」は申し分ないが、旧訳の「いや。存じませんが」の簡潔さには、余計な事を言わぬ執事の姿勢が自ずと表現されている。

 さて最後の一文だ。これはいまだに理解に苦しむ。受け取った手紙の差出人と考えるカルミントンが島に来る気配がないことを確認した上で、判事がインディアン島(兵隊島)についてひとりごちる場面だ。

 旧訳の「まきの中にインディアンが一人いる」には、なにかのレトリックが含まれている事は容易に予想がつく。そうでなければ意味が不明だからだ。レトリックの存在がわかったとしても、やはり読者には意味がわからない。一方、新訳では、「兵隊島」という島名について「興ざめだ」と言い切っている。ならば、隠されたレトリックとは「興ざめ」という意味だったのだろうか。

 だが、新訳にしても、どうしてこのタイミングで兵隊島の名前をとりざたする必要があるのかわからない。「カルミントンが来ない」事に判事が「興ざめだ」と言うのならば、まだ理解できるが、ここでは明らかに兵隊島の名前に難癖をつけている。

 原文は「There's a nigger in the woodpile.」と書かれている。niggerは、題材となった元々の童謡「Ten little niggers」に由来する。ウェブで調べたところ、片山暢一著「ES・Gardnerに現われた米語のFigurative Use」という論文の一節に手がかりが見つかった。この論文に、

「まきの山の中の黒人」から「かくれた事実叉は動機」更に単に「間違い」の意味となる。


との記述が見られる。すると、さきほどの例文は、カルミントンが来ないことを怪しんだ判事が「何かあやしい、何か間違いがある」と比喩的につぶやいたと解釈できそうだ。これなら辻褄が完全に合う。旧訳は直訳しただけなので手抜きと言われて仕方がない。一方、新訳のほうは誤訳だろう。間違うくらいならば直訳のほうがましだ。

 今回は訳文そのものの特徴を比較したが、次回からは翻訳家の演出という側面で比較分析したいと思う。(続く)
posted by アスラン at 14:20| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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