2012年03月20日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その5)(2012/3/9改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 今回が、このエッセイ(評論)の最終回だ。僕が言いたいことは3点あると(その1)に書いた。

(1)若島の主張する「叙述トリック」は、言わば手品のタネである。若島は手品のタネをあばいた上で「作者の手際の良さ」だけを賞賛するが、「手品そのものの出来映え」に対する正当な評価を欠いている。
(2)若島は「(『そして誰も…』は)論理的に構築されている」と主張するが、必ずしも論理的な構成とは言えない。
(3)「(『そして誰も…』は)犯人のトリックはつまらないが、作者クリスティの叙述トリックは賞賛できる」という若島の主張には異論がある。ましてや「再読しないと真価がわからない作品」という独断には、なんら正当な根拠はない。


 (1)(2)については、ほぼ言い尽くしたように思う。(3)については、著者・若島正による『そして誰もいなくなった』の叙述トリックの偏った見方にたいしてのみ、かなり詳しく異議申し立てをしてきた。言いそびれたことがあるとしたら『そして誰も…』」という作品のおもしろさについてだ。若島の主張を解体する事に主眼があるので、行きがかり上、叙述トリックの出来映えばかりに言及しているが、『そして誰も…』はトリックだけに注目すべき作品ではない。たとえばポアロやミス・マープル物のように、物見遊山の一つのように殺人が扱われるのと違って、孤島で進行する連続殺人の緊張感は他のクリスティ作品の中でも群を抜いている。まあ、そんなことを言い尽くしてみたいのだが、この評論で語るのがふさわしいとは思えない。機会をあらためて書評で書きたいと思う。

 ここでは最後まで、若島正の「明るい館の秘密」という小論に限定して、残された課題をやり遂げて終わるとしよう。その課題とは『そして誰も…』の導入部(第一章1〜8節)の詳細な分析だ。(その4)で第一章1節(ウォーグレイヴ判事の関する描写)のみくわしく分析した。叙述トリックを読み解いて「判事は犯人の可能性あり」という結果が得られた。と同時に「(初読者が)叙述トリックを見破れるか」という点については、「かなり困難である」ことが、1−1の地の文や心理描写の巧みな構成から理解できた。

 何故ここまでウォーグレイヴ判事に関する地の文(客観描写)や判事の心理描写を重点的に分析したかといえば、早い話が再読者にとって「判事が犯人である」のは自明だからだ。自明なことを前提にして、いかにして叙述トリックによる「犯人の痕跡の消去」が実現されているかをみるのは、それこそマニアックなファンならではの楽しみ方だ。しかし、若島の主張する「犯人を見破れる」かという点については、初読者が犯人当てに挑むのであるのだから、すべての登場人物の描写を等しく分析しなくては犯人の目星などつきようがない。

 そこで判事同様、他の登場人物についてもくわしく原文や訳文をつきあわせて読み解いてみたいところだが、それだけの時間的余裕と英文の読解力の持ち合わせがない。やむを得ず今回は、作者クリスティの気持ちになって作品全体を俯瞰する視点から考えてみる。

 若島正は『そして誰も…』の特徴として、登場人物の心理描写には「本当のことしか書かれていない。ならば犯人の心理描写には叙述トリックが仕掛けられている」と考えた。しかし、(その4)でみてきたように語り手が語る地の文(客観描写)にも叙述トリックが多数混入している。僕らは、まず何よりも先に一つの問いについて考えなければならない。

(A)語り手は、犯人が誰かをいつ知ったか?


 一見するとばかげた問いにみえるだろう。しかしこの問いが「ばかげている」と言い切るためには、語り手が「全能の話者による三人称の語り(若島)」であるという、ジャンルとしての小説の決まり事を鵜呑みにすることから始めなければならない。ところが「叙述トリック」というジャンルは、この決まり事(信念と言ってもよい)を逆手にとることを主眼においたミステリーである事を、前回身をもって体験した。だから、まずはこう考えるべきだ。

 作者(演出家)と語り手と登場人物(役者)は別々の存在であり、彼らをつなぐものは台本でしかない。しかも、近頃なくなった井上ひさしばりに遅筆の作者によって、提供される台本は最後のシーンまで書かれていない。たかだか演じ手が、場面場面を演じきる部分のみを直前に渡されると考えたらいい。あるいは、彼ら一人一人は自分が話す台詞は与えられるが、その他の人物の台詞は空白のままに、自分用の台本が用意されているとする。

 同様に語り手には語り手専用の台本が用意されている。各人は自らの台詞をしゃべる、あるいは語りを挿入するきっかけだけが何らかの合図で教えられる。そのようにして順番に台詞や語りが組み合わされて、物語が進行する。聴衆(読者)は、だれがどの台詞を言うのかを会話の部分のみ区別する事はできるが、独白の部分については声質を変換する機械処理が施されていて判別できない。

 こう考えると、すべての結末と仕掛けを知っているのは「作者」ただ一人という事になる。僕は文芸評論を読みだした当初、作者と語り手を区別して考える事に何の意味があるのだろうと思っていた。「語り手=作者」とみなしていいのではないかと安易に考えていた時期があった。しかし、『そして誰も…』のような非常にトリッキーな作品では、この手の「盲信」は危険この上ないという事が実感できる。

 語り手も登場人物も、それぞれの分担において真実のみを語る。そうは言うが、ここで言う「真実」とは、たかだか作者によってコントロールされた真実でしかない。語り手も登場人物も、自らが語ったり考えたりした事が「真実であるか否か」の責めを負う必要などないのだ。

 そこで(A)の問いを念頭に置いて導入部を見渡してみると、おどろくほど「語り手」の立場を知る手がかりが少ないことに気がつく。当然だが語り手の立場を疑うこと自体、小説という枠組みそのものへの疑義にほかならない。それ故に作者もことさらに語り手の手口をさらけ出す必要を感じていなかったに違いない。だが、決定的な場面は導入部の最後の最後(第一章8節)にやってくる。

 元警部のブロアは、島の所有者から依頼されて、島にやってくる人々を監視するために列車に乗っている。そこでたまたま同乗していた船乗りらしき老人から意味深な警告を受ける。

「お前にいってるんだよ。…審判の日はすぐそばまできているのだ。」

 それに反発したブロアは、審判の日が近づいているのは老人の方だろうと独白するが、その直後に語り手は、こう言う。

しかし、ブロア氏の考え方はまちがっていた。


 この場面は「思わせぶり」な会話と心理描写の典型だ。叙述トリックというよりは序盤のサスペンスを盛り上げる〈演出〉とみるべきだ。重要なことは、語り手が「ブロアの末路」を予見しているという点だ。ブロアが殺される(すなわち審判の日が訪れる)のは『そして誰も…』の終盤だ。ということは、少なくともブロアが亡くなるまでのストーリー展開も、各登場人物の動向や心理も頭に入っているようだ。

 語り手が全知全能の力をもって未来を見渡せることが、この一文をもって担保されている。再読者・若島ならば「語り手は真実のみを語っている」と確信するかもしれないが、それは先走った考え方だろう。あくまで、語り手を支配しているのは狡猾な作者であることを忘れてはいけない。とりあえず(A)の問いに答えるとしたら、「導入部の時点で、語り手はブロアが殺されるまでを全知全能の力で予見している。語り手は可能な限り客観的に描写することを使命とするが、思わせぶりな描写をすることはいとわない。」と言えばいい。確証はないが、導入部の時点で「語り手は犯人を知っている」とほぼ考えていい。

 引き続いて、もうひとつばかげた問いをしてみよう。すなわち、

(B)犯人は、いつ自分が犯人だと知ったか?


だ。実はこれは(A)ほどばかげた質問ではない。語り手を疑う事は小説の決まり事を疑う事だから、それを疑う僕の方がどうかしていると言われても致し方ない。しかし、登場する人物の精神状態までがすべて「普通」であると誰が確約できるというのだろうか。

 これは『そして誰も…』でクリスティが成し遂げた功績の一つと言っても言い過ぎではないと思うが、「犯人が犯人らしくなく、犯人以外の人物がすべて怪しい」という描写を、作者はそれこそ「愚劣にならずに(クリスティ自伝)」なるようにかなり工夫している。それが「思わせぶり」の叙述トリックの効果だ。そして(B)の問いかけの究極の回答が、「多重人格(サイコ)による殺人」というアイディアである事は言うまでもない。もちろん『そして誰も…』はサイコによる連続殺人とまでは言えないが、あと一歩というところまで来ていた。エラリー・クイーンが後年、まさにこのモチーフに磨きをかけた作品を実現している。

 すでに結末まで読んだ再読者にとっては、問い(B)の答えは明らかだ。「犯人は導入部の最初から自分が犯人である事を自覚している」。もちろん、初読者がそうだと気づくような手がかりは導入部には見あたらない。当然だろう。クリスティの没後に大流行することになる「サイコミステリー」では、日常生活をふつうに営む一市民が少しずつ本性を現していく。手がかりはゆっくりとページを追うごとに与えられていくものだからだ。

 だが、書かれていない事をあれこれ詮索しても始まらない。導入部を分析する際に問い(A)(B)から僕らが考慮すべき前提は、
・作者は語り手や登場人物を自在に操って、読者に叙述トリックを仕掛けてくる。
・語り手は「犯人」を知っている。犯人をばらすような「あからさまな描写」は書かないし、犯人をばらさないように「思わせぶりな描写」をする。
・犯人は犯人である事を自覚している。犯人だとばれるような「あからさまな独白」はしないし、犯人だとばれないように「思わせぶりな独白」を胸にいだく。
・犯人以外は犯人を知らない(導入部に限っていえば、島に殺されに行く事になるとは知らない)。犯人でないとばれるような「あからさまな独白」はしないし、犯人でないとばれないように「思わせぶりな独白」を胸に抱く。
・島に集められた10人は大なり小なり罪を犯しているために、犯人でなくてもあたかも犯人らしくみえるような「思わせぶりな独白」を抱く。


 若島が小論で主張した叙述トリックは、3番目の箇条書き(犯人に関する前提条件)に含まれる。

 次に犯人の要件を列挙していこう。ここでは再読者(若島)の手法に則って、結末で知り得た情報を利用する。作品全体が「論理的に構築されている」という前提で犯人像を追い込んでいく。何度も言うようだが、「だから犯人を推定できる」わけではない。あくまで「つじつまがあっているか否か」の問題にすぎない。

 犯人はモリスという共犯者に、犯人以外の9人を一箇所に集める算段をまかせた。そのうえでモリスを事前に殺害しておいたことは、海で見つかった瓶の中の手記でわかっている。この犯人の手記を根拠として、以下の事が言える。

(1)犯人は9人の名前・性別・人となり・犯した犯罪について知っている。ただし9人と面識がある必要はない(あるいは「顔の判別」ができる必要はない)。彼らを殺害する目的は「法で裁けない犯罪者」を断罪することだ。
(2)犯人と共犯者モリスとは面識がある。知らないそぶりで会話することはできない。
(3)手紙はモリスが書いたので、手紙の外見的特徴を犯人は知らなくてもいい。たとえば、
 - 手紙の外見(字が読みにくい)
- U.N.オーエン=UNKNOWNというこけおどし(思いついたのは、犯人とモリスのいずれの可能性もある。)
(4)犯人は、自分を含めた10人全員を島に誘い出す口実(手紙の差出人、仕事の依頼、旧交の再会など)について事前に知っている。
(5)犯人は、集められる場所が「インディアン島(兵隊島)」であることを知っている。富豪が建てた邸宅の存在も知っている。必ずしも上陸したり見たりしたことがある必要はない。
(6)オーエン夫婦が架空の存在だと知っている。


 これらの要件を満たす人物が、若島が言うとおり「ウォーグレイヴ判事」しかいないのかを見ていこう。判定記号は以下のとおりである。

 ○…犯人である
 ×…犯人ではない
 △…犯人の可能性あり(犯人でない可能性もある)
 −…判定材料がない

[ウォーグレイヴ判事の場合]

(1)−:他の9名と(一章では)接触なし。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)△:「発信者は”あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆蹟で署名していた」が、語り手の叙述トリックの可能性あり(「発信人」の真偽は不明)。
(4)△:また、「自分が下した結論」が、語り手の叙述トリックの可能性あり(判事の結論とは「カルミントンが島を買い取った」ということなのか、あるいは「カルミントンを差出人としたのは正解だった」ということなのか、いずれとも考えられる。)
(5)−:新聞記事の客観描写のみ。心理描写なし。
(6)−:手紙の差出人はオーエンではない。

[ヴェラ・クレイソーンの場合]
(1)△:客車内でロンバートと向かい合わせになるが、面識の有無は不明。参加者の一人だと気づいていない可能性もあるが、「しじゅう旅行して、さまざまのおもしろい経験を持っている男にちがいない」という推定は、手持ちの情報から類推したかのようにも感じられる。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)−:文面について主観的な心理描写は一切ない。
(4)△:「こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。」は、ヴェラの叙述トリックの可能性あり。「こんどの仕事(this job)」とは「島での殺人」を指しているかもしれない。秘書の仕事口が見つかったことを素直に喜んでいる確証はない。(また、そもそも前後を含めたこの主観描写は語り手のものである可能性も否定できない。)
(5)△:「ちかごろ、しじゅう新聞に出ていた島だ!」というヴェラの心理描写から、必ずしも「島を知らない」とは断定できない。現に「邸宅はたしかにある富豪によって建てられた」と邸宅の存在を確信している。
(6)−:雇い主のオーエン夫妻に関する描写なし。


[フェリップ・ロンバート大尉の場合]

(1)△:ヴェラと向かい合わせになる。一目見ただけで「少しばかり女教師のようなところがあるが」とか「冷たい心の持ち主であろう」と見抜くところは、洞察力に優れているか、あるいは事前に手持ちの情報があることを思わせる。
(2)×:共犯者であるモリスとの会話あり。互いに面識がない事は確実である。
(3)−:手紙をもらっていない代わりに、犯人の共犯であるモリスと対面している。
(4)×:「君は私の依頼人にからだをまかせればいいのだ」というモリスの言葉から考えて、ロンバートが依頼人(犯人)だすると辻褄が合わなくなる。
(5)△:「ボートでインディアン島にわたる」とモリスから説明されても、「インディアン島」の事を聞き返さないので、島をすでに知っている感じがする。
(6)−:オーエン夫妻について言及がない。

[エミリー・ブレント婦人の場合]
(1)−:他の登場人物と接触なし。ミス・ブレントの乗っている「混みあっている三等車」は、「他の五人の乗客」しかいないヴェラのいる客車とは異なる。
(2)−:共犯者と接触なし。
(3)△:手紙が本物だと信じている確証はない。「字が読みにくい」といらいらしているが、読みにくい筆跡の演出は犯人の仕掛けではなく、共犯者のアイディアの可能性もある。昨年ベルヘヴンのホテルで一緒になった人々の中から差出人を「オリヴァー」と特定するようなブレントの心理描写があるが、差出人の事に思いを巡らしているという明確な描写はない。「あの婦人ーミス・オリヴァーであったと思うがー彼女について、もっと想い出せるといいのだが」という心理描写は、判事の「自分が下した結論」という言い回し同様に、差出人をミス・オリヴァーとするための辻褄が合うかどうかを気にしている「思わせぶりな表現」ともとれる。
(4)×:「とにかく、ただの休暇を楽しめるのだ」というミス・ブレントの独白は、誘いの手紙を真に受けている。もし、犯人であれば島を買い取るのに費用がかかっているはず。そもそも連続殺人の準備費用を考えると、年金暮らしの老婦人には無理な犯行かもしれない。、
(5)△:インディアン島のゴシップ記事はすでに読んだ事があり、いろいろと想像をめぐらしているが、島の存在を知っているか断定はできない。
(6)−:差出人はオーエン夫妻ではない。そもそもオリヴァーとも書かれていない。

[マッカーサー将軍の場合]
(1)−:他の9人との接触なし(2章以降で、将軍が乗っている「エクセターで乗り換える列車」はヴェラたちの乗る列車とは別であることがわかる)。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)(4)△:手紙の文面と差出人の明確な記述はないが、おそらくオーエンが差出人で「閣下の御旧友もお見えになります。ー昔ばなしをなさるのも一興と存じ…」が文面の一部だと推測できる。「彼(将軍)はオーエンという男がどんな人物であったか、はっきり頭に浮かべることができなかった」という記述から差出人をオーエンと信じているようにもとれるが、差出人に見立てたオーエンという実在の人物の事をはっきりとは思い出せないという独白の可能性もある。
(5)△:「インディアン島などは眼と鼻のあいだなのだ」「ところでインディアン島というところは、彼も行ってみたいと思っていたところだ」というように、インディアン島の事を招待を受ける前から知っている。
(6)△:ほとんどの人々にとってはオーエンは架空の人物だが、マッカーサー将軍にとっては実在の人物が該当する。犯人が名前を利用したのか、あるいは将軍自身が犯人かのいずれの可能性もある。

[アームストロング医師の場合]
(1)−:マーストン青年のスポーツカーらしき無謀な車が、アームストロングの車を追い越すが、医師は気づいていない。もしくは語り手の叙述トリックで、マーストンとは別の自動車の可能性もある。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)△:「休暇といえるものであるかどうかは、明らかではなかった。彼が受けとった手紙では、どういうことであるのか、はっきりしたことはわからなかった。」「このオーエンという人物は金がありあまっている人間にちがいない。」は、手紙の文面に対する主観描写である。医師の主観であるならば「手紙の文面を信じている」。一方で文面から読み取った語り手の主観描写の可能性もある。
(4)△:手紙の文面についての主観描写のあとに続く「神経!…婦人患者にはありがちのことだ!」は明らかに医師の心理描写である。依頼内容を真に受けて考えているというよりも、依頼内容に関連した神経症の女性患者一般に対する治療について考えている。
(5)△:「デヴァンの海岸の島に…」という言いまわしが、インディアン島について「知らない」ような印象を与える。
(6)△:(3)(4)で考察したように、オーエン氏の実在を信じているようにもみえるが、確証はない。

[アンソニー・マーストン青年の場合]
(1)−:「どうして、のろのろ走っている自動車が多いのだろう。…そういう連中にかぎって、道路のまん中を走っているのだ!」とは、アームストロング医師の車のことかもしれないが、確証はない。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)×:手紙の記述はないが、「…それにしても、オーエン夫婦というのは、どんな人間なのだろう。」と手紙(友人バジャーからの電報)を疑っていない。
(4)×:「とにかく、酒だけはたっぷりと飲ませてもらいたいものだ。」「それにしても、若い娘がいるといいのだが…」という独白は、犯人だとつじつまがあわない。
(5)△:「ゲブリエル・タールがインディアン島を買ったという話が嘘だったのは残念だ。」からインディアン島については事前に知っていた。
(6)×:オーエン夫婦の実在を信じている。

[ウィリアム・ブロア元警部の場合]
(1)△:自分以外の9人の名前やプロフィールを知っている。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)−:9名の監視依頼をどのように受けたかの記述なし。
(4)△:「わけのない仕事さ」「やりそこなうはずはない。怪しまれなければいいんだ」という独白は、探偵としての依頼を指すか、あるいは連続殺人を指すか、いずれの可能性もある。
(5)△:インディアン島は少年時代から知っている。邸宅の存在も知っている。
(6)−:依頼人についての記述なし。
(7)×:ブロアのみ客車内で船乗り風の老人との会話を交わし、審判の日が近づいていると警告される。犯人であれば、まさに10人全員がいなくなるその日こそ「審判の日」にふさわしい。「自分の方が審判の日に近づいているじゃないか!」などと独白するはずがない。

[ロジャース夫婦の場合]
(1)〜(6)−:彼らは一章に登場しない(すでに島で執事の仕事を始めている)。

△ウォーグレイヴ判事 (1)−(2)−(3)△(4)△(5)−(6)−
△ヴェラ       (1)△(2)−(3)−(4)△(5)△(6)−
×ロンバート大尉   (1)△(2)×(3)−(4)×(5)△(6)−
×ミス・ブレント    (1)−(2)−(3)△(4)×(5)△(6)−
△マッカーサー将軍  (1)−(2)−(3)△(4)△(5)△(6)△
△アームストロング医師(1)−(2)−(3)△(4)△(5)△(6)△
×マーストン青年   (1)−(2)−(3)×(4)×(5)△(6)×
×ブロア警部     (1)△(2)−(3)−(4)△(5)△(6)−(7)×
−ロジャーズ執事   (1)−(2)−(3)−(4)−(5)−(6)−
−ロジャーズ夫人   (1)−(2)−(3)−(4)−(5)−(6)−


 名前の前につけた記号が総合判定結果だ。導入部の詳細な分析から「犯人でない」と明らかに言えるのは、

ロンバート、ミス・ブレント、マーストン、ブロア


の4名である。ロジャース夫妻は導入部に現れないので「判断できない」。「犯人の可能性がある」と判定されたのが、

ウォーグレイヴ、ヴェラ、マッカーサー、アームストロング


の4名であり、「犯人である」と判定された人は一人もいなかった。

 これらの判定結果から何がわかるかと言えば、「導入部では犯人は確定できない」ということだ。しかし、これでは若島の結論とは食い違ってしまう。若島は導入部のウォーグレイヴ判事の描写のみを分析し、そこに叙述トリックを見いだし、犯人だと断定した。しかし、何度も言うが、再読者・若島はあらかじめ犯人を知った上で、犯人の心理描写をあら探ししたにすぎない。手がかりが見つかって思わず有頂天になってしまったのだろう。

 これと比べて、1-2〜8の七人の心理描写は、彼らが本当にインディアン島への招待に応じて旅立ったことを保証する書き方がしてあるのだが、その検討は読者各自で行ってみていただきたい。


と自信ありげに言い放ってしまった。一読者である僕が検討した結果が、先に見たとおりである。若島の方法論の問題点は、

 ・叙述トリックは登場人物の心理描写だけでなく、語り(地の文)にも含まれる。

を見落としていたことだ。

 実は、当初ぼくも導入部を詳細に分析すれば、「犯人の可能性がある」のはウォーグレイヴ判事ただ一人になると考えていた。つまり、油断しまくった若島の結論と結果的には同じになるものだと思いこんでいた。それが変わった理由は3つ考えられる。

・若島とは違って、登場人物の心理描写だけでなく語り(地の文)についても叙述トリックの存在を仮定して検討したこと。
・アガサ・クリスティの原文を併用して、心理描写と客観描写との区別を逐一調べたこと。
・出版された新訳(青木久恵訳)だけでなく、旧訳(清水俊二訳)も併用して、翻訳家の先入観によるニュアンスを排除したこと。


 当然のことながら、若島のように語り(地の文)を無条件に信用して登場人物の心理描写だけに狙いを定めれば、導入部の分析は楽々とできるだろう。しかし客観描写に徹するはずの語り手が読者を騙そうとしているとなると、何もかもが信じられなくなる。頼りになるのは、作者クリスティが、自伝で「十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデア」と書いたように、「愚劣にならずに」節度を守った騙し方をしていることを信用するしかない。

 (その4)でウォーグレイヴ判事の描写を詳細に分析した際にわかったように、原文は「語り手の客観描写」「語り手の主観描写」「人物の主観描写」のつなぎ目が曖昧なままに接続されている。原文をみるかぎり、人物の主観描写が間接話法で書かれていると判断するか、語り手自身の主観描写とみなすかによって、「犯人かどうか」の判定はまったく変わってくる。

 原文でも区別が付きにくい内容を翻訳するとなると、訳者によっても解釈が変わってくる。語り手の主観か登場人物の主観かわからないように書かれているところが、訳者によっていずれかの主観に確定されるように書かれている。特に新訳では、もっぱら登場人物の主観を明確に繰り込んだ翻訳を採用している。そのために、新訳で導入部を分析すると、ほとんどの人物が「犯人ではない」と判定されてしまう。たとえば原文で「Indian Island !」と感嘆符をつけて強調されているだけなのに、新訳では「あらっ、兵隊島って…」みたいに、島を知らないかのような心理に傾いている。複数の人物に「兵隊島とやらに」などと独白させるにいたっては、もう作者の叙述トリックに引っかかりまくっていると言っていい。

 もうちょっと旧訳と新訳との解釈の違いにふれておこう。ヴェラ・クレイソーン(女教師)の描写で、「まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。…」で始まる一節は、原文をみてもヴェラ本人の心理なのか、語り手の主観なのか判別がつかないように巧みに書かれている。ところが旧訳と新訳とを比べると、旧訳では原文どおりのニュートラルな描写で、語り手・ヴェラのいずれの主観とも区別がつかない。しかし新訳では一歩踏み出して、あきらかにヴェラの主観描写と決定してしまっている。具体的に、第二章2節のヴェラ・クレイソーンに関する冒頭の描写を抜き出して、原文・旧訳・新訳の順に並べてみよう。

[原文]
(1)Vera Claythorne, in a third-class carriage with five other travellers in it, leaned her head back and shut her eyes.
(2)How hot it was travelling by train today!
(3)It would be nice to get to the sea!
(4)Really a great piece of luck getting this job.
(5)When you wanted a holiday post it nearly always meant looking after a swarm of children - secretarial holiday posts were much more difficult to get.
(6)Even the agency hadn't held out much hope.

[旧訳]
(1)他の五人の乗客とともに三等車に乗っていたヴェラ・クレイソーンは頭をうしろにそらせて、眼を閉じた。
(2)汽車で旅をするにはなんという暑い日であろう!
(3)海に着いたら、どんなに気持のいいことであろう!
(4)まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。
(5)休暇のシーズンの仕事といえば、たいてい、大勢の子供たちの世話をすることだった。
(5)秘書の仕事はほとんどなかった。
(6)職業紹介所へたのんでも、ほとんど望みはなかった。

[新訳]
(1)他に乗客が五人いる三等車で、ヴェラ・クレイソーンはシートの背に頭をもたせかけて、目を閉じた。
(2)今日は列車で旅行するには、いくらなんでも暑すぎる!
(3)海に着いたら、さぞかし気持ちがいいだろう!
(4)今度のこの仕事がもらえたのは、本当にラッキーだった。
(5)学校休みのアルバイトといえば、大勢の子供の世話と相場がきまっている
(6)―秘書の仕事はそうおいそれとはない。
(7)職業紹介所の人も首を傾げていた。


 決定的なところを見ていくと、(1)の「こんどの仕事が見つかった(旧訳)」に対して「この仕事がもらえた(新訳)」、(7)の「職業訓練所へたのんでも、ほとんど望みはなかった(旧訳)」に対して「職業紹介所の人も首を傾げていた(新訳)」というように、新訳(青木久惠訳)だとヴェラの心理としか解釈できない。(1)の「本当にラッキーだった」というのも、ヴェラの若さを意識したくだけた表現だろう。旧訳の清水俊二が叙述トリックの落とし穴に気づいていたのかは正直わからないが、導入部全般の訳を見るかぎり、不用意な思い込みは避けて慎重に表現を選んだのは確かだ。一方で、新訳の青木久恵は叙述トリックのミステリーに対して油断しすぎているような感じをうける。とりあえず、旧訳と新訳の比較については、これくらいにしておこう。冒頭でも述べたが、新訳版を読んだ感想は改めて書きたい。

 ちなみに、導入部では決定できなかった犯人は、いつどこで確定できるのか?

 2章以降をここで分析するつもりはないが、先ほど「犯人の可能性あり」とした4人のうち、マッカーサー以外の3人は終盤まで生き延びる。ヴェラに至っては最後の一人(犯人は隠れている)なのだから、結局のところ、若島正がピックアップした3カ所の「登場人物の心理描写」だけでは、犯人は確定できないようだ。

 もっとも、そんな事はすでにどうでもいいことだろう。要するに、僕らはもう一度、いや何度でもアガサ・クリスティ作『そして誰もいなくなった』を読むべきだ。そして、それは若島正が主張するような「再読者として」読むべきではなく、過去の読書体験をうっすらと記憶の彼方に追いやった頃に、繰り返し新たな体験を求めるように読むべきだ。その限りにおいて、僕らは初読者として『そして誰もいなくなった』の本当のすばらしさにあらためて出会う事ができるのだ。(了)
(2011/1/13初出、2012/3/9改訂)


  
posted by アスラン at 21:19| 東京 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ケアレスミスに気付きましたので、お節介ながらご報告。

ロジャー・アクロイドは被害者で、記述者でも犯人でもありませんよね。
これが「ABC」だったら、わざとそうした可能性を検討しなきゃならないのでしょうが、これは多分、単純な勘違いだと思いますので。
Posted by 通りすがり at 2012年02月04日 18:37
通りすがりさん、コメント(いやご指摘)ありがとうございます。

迂闊にも全然気づいていませんでした。

(その5)まで書いていますので、どこに間違いが潜んでいるか分からないので、すべてチェックした上で修正いたしました。
修正箇所は以下の通りです。

(その3)より
------------------
『アクロイド殺し』では、田舎町の医師ロジャー・アクロイドによる一人称の語りで事件の一部始終が語られる。

言ってみれば『アクロイド殺し』という作品は、徹頭徹尾アクロイドの心理から成り立っている文章だという事になる。
------------------
小説のタイトルをのぞいて、上記の「ロジャー・アクロイド」あるいは「アクロイド」は誤りです。既に本文は修正しました。

また、小説のタイトルを省略した上に二重かぎ括弧『』で括った表現(『アクロイド』)は、誤解を招きやすいので、この際、『アクロイド殺し』と省略しない記述に改めました。省略記法は、若島正さんの小論『明るい館の秘密』での表記法に習ったのですが、こだわりよりも分かりやすさが重要だと思います。

これでも、何度も読み直しては書き直してきたんですけどね。粗忽者は死ぬまで粗忽者なのかもしれません。
Posted by アスラン at 2012年02月06日 19:26
ご対応、ご苦労様でした。
どうせお節介を焼こうというのなら、記述ミスを見つけた場所まで書いておくべきだった、と、後になって気付きました。

ところで、本論を読んで、自分では極めて魅力的と思える「そして誰もいなくなった」論を思いつきました。

我らが「語り手」氏は、最終章として配置された「告白分」が真実だと証明してくれていません。地元の漁師が拾って警察に届けた証拠物件、と書いてあるだけです。
すなわち、あの文面は、第一章の「差出人」がそうであるように「署名の人物=記述者」という証拠はなく、ジェームズ・シェパード医師による「手記」と同じく「嘘もごまかしも記述者の思うがまま」なのです。

今度(できれば旧訳を)再読して、判事以外に真犯人がいる可能性(ヴェラ・クレイソーンの他には該当しそうもありませんが)を探してみようと思ってます。
若島氏と同じ轍を踏まないよう、注意しながら。
Posted by 通りすがり at 2012年02月11日 17:45
通りすがりさん、再コメントありがとう。

すみません。一家そろって風邪っぴきで、なかなか返事ができませんでした。

通りすがりさんの思いつき、面白いですね。確かにどこまで言っても作者の思うがままなんですよね。「アクロイド殺し」の方は『アクロイドを殺したのはだれか』という評論がありますが、「そして誰も…」の方は、叙述トリックの隙をついた犯人の再検討を試みた評論はなさそうです。ぜひ、やってみてください。

ところで、こちらは希有な読者の登場に気を良くして、というより文のつたなさを恥じて、『「明るい館の秘密」の過失』全文の改訂に取り組んでおります。書いていた時は気分が高揚してたから良かったんですが、後で読み直すと自分でもよく分からなかったりするので、もっと分かりやすく書き直しています。
Posted by アスラン at 2012年02月17日 12:50
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。