2006年05月08日

東京タワー −オカンとボクと、時々、オトン− リリー・フランキー

 この本を読み出して、そこかしこに描かれる主人公ボクの原風景を読んでいるうちにデジャブのようにはまっていく自分がいた。もしやと思って巻末の著者紹介を読んで納得がいった。1963年生まれとある。僕とボクは一歳違いなのだ。僕は早生まれなので学齢からすると著者の2年上かもしれないが、ほぼ同じ文化や風俗を見聞きしたり体験したりしてきたはずだ。

 著者は昭和で言うと38年生まれということになる。東京タワーが昭和33年に完成し、東京オリンピックが昭和39年開催。その開催直前に東海道新幹線が開通し東京-大阪間を3時間5分で結ぶようになった。いわゆる高度成長期にあたり、おそらくこの時期を境に東京と地方との距離がかなり縮まって日本国中いたるところから人が東京へ集中するようになった。東海道新幹線や東名高速道路が整備されたことで、関西から先の四国・九州などの人々が特に上京しやすくなったはずだ。

 中流意識を持つ両親の元で生まれながらに豊かなライフスタイルのただ中に置かれて育った今の子供たちとは違って、当時の僕やボクは戦後の日本が引きずる貧しさの風景の中で生まれ育った。小説に描かれるボクの育った炭坑町とは比べものにならないだろうが、僕が育った東京でさえ例えば小学校にあがる前の記憶では、家の前の私道は未舗装でゴツゴツとしたむきだしの土のままだったし、両脇にはドブ板が張られていた。

 隣家とは屋根が一つで中央を薄い壁で仕切ったいわゆる長屋住まいで、玄関の引き戸を入るとすぐに上がりがまちがあり障子一枚隔ててすぐがお茶の間(今や死語か)という造りだった。そこに父母と祖母、兄と僕の5人ぐらし。お茶の間のさらに奥の6畳間に僕と母と父が文字通り「川の字」で寝ていた。部屋の片隅には不釣り合いなほど立派なミシンが置いてあった。

 表通りは旧街道の宿場町の面影を残した商店街で、魚屋・肉屋・八百屋・パン屋・蕎麦屋・薬局・金物屋・お菓子屋・豆屋・和菓子屋・呉服屋・銭湯・写真屋・糸屋・本屋・古本屋・飲み屋があり、もちろん通りのはずれには老婆が店番をしているおきまりの乾物屋がちゃんと揃っていた。宿場町の面影というのは、女郎屋だった木造三階建てのアパートが僕が高校に上がるまで取り壊されずに残っていたからだ。

 周辺地域には遊び場に事欠かないほどあちらこちらに原っぱがあり、今のようにこぢんまりとした憩いの場所となる小公園などはほとんどなかった。一方で社会としてはめまぐるしいほど急速に新しいものが生み出されている事が子供心に実感できるような時代であり、それがうれしかったり誇らしかったりしたものだ。

 この時期に生まれた子供たちにとって東京タワーが大きな意味を持つことはいうまでもない。僕の世代にとってまず誇れるものと言えば東京タワーであり、続いて新幹線、さらには日本初の高層ビルである霞ヶ関ビルだった。テレビが普及して東京の文化が日本国中に拡散していったこの時期に、福岡に住むボクにとっても東京タワーは特別なものだったに違いない。

 だからボクが、東京タワーを自分が育った時代の象徴としてだけでなく、オカンとオトンと自分を結びつける記憶の象徴として二重の意味づけをしている事に十分すぎるほどのシンパシーがもてる。まさにボクと両親が生きた暮らしの記憶とシンクロするのだ。それゆえに少々おもはゆくはあるのだが、ボクが臆面もなく書きつづるオカンへの気持ちは、僕自身のお袋への想いへとつながる。ボクと違って幸いまだ親孝行ができる母ではあるが、パーキンソンという難病を抱えて着実に老いていくのを見るのはたまらなく切ない。

 ラストでボクはこれ以上ないほど亡くなったオカンへの思慕をつのらせる。もちろんこの傍目には大甘な母子の物語だけでも多くの人々の心を捉える小説にはなっているのだが、それだけであれば100万部を越すベストセラーにはならなかっただろう。

 この作品の特徴は大甘なボクと、シニカルなエッセイストである著者が同居しているところにある。「五月にある人は言った」という謎のような出だしで全編に何度も挿入される硬質な文章がエッセイストである著者の本領であり、大甘なボクの生き方もオカンへの想いも突き放した位置から冷静で含蓄のある見方を披瀝する。この部分に颯爽とした著者の思想を見て惹きつけられた読者も多いようだ。

 しかし僕は、この颯爽としたシニカルな文体に著者の照れと戦略を見て乗れなかった。先ほど臆面もなくオカンの想いを書きつづっていると書いたが、一方で過激なエッセイストとしては自分の大甘な部分をそのままにして書くことに抵抗があったのだと思える。だからオカンとボクとオトンとの絆の中だけで消化される感情と、そこをはみ出して東京や東京に住む人々や日本という社会に対するある種の批評を別々にして、文体を変えて書き分けたのが本書なのだ。

 これがボクとオカンの物語だけだったらと考えるのはナンセンスかもしれないが、少なくとも僕は先ほど述べた理由からシンパシーを感じるがゆえに感動しただろう。しかし僕は著者の東京への憎悪を基調とした「批評」には立ち止まらざるをえない。

 東京に住んでいると、そういうわかりきっていることが、時々、わからなくなるのだと、その人は言った。


 これはあくまで東京を使い捨てにできる地方出身者の視点に他ならない。寂れた炭坑町が著者にとっての幸せの青い鳥であったと気づくのと同様に、「わかりきっていることがわからなくなる人間に満ちてしまう」東京こそがここを故郷とする者にとっての幸せの青い鳥になりうる事を「五月に語るある人」には見えないのだ。 
(2006年4月11日読了)


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posted by アスラン at 01:12| Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 お久しぶりです。

 「東京タワー」、とうとう読んだんですね。私の知っている限り、「読んだ」と言う人がもれなく「良かった!」と絶賛している小説です。

 単純な割りにひねくれている私は、手を出せないまま今日に至っています。アスランさんの評価はちょっと微妙ですね・・・

 あんまり話題にならなくなった頃に、こっそり読んでみようかな(笑)

 「フェルマーの最終定理」、ようやく4章に入りました。今年中に読み終わるのを目標にカタツムリのようにユルユルと読み進んでいます・・・って遅いか・・・(笑)
Posted by しのきち at 2006年05月10日 00:35
 ついに読みました(笑)

 恐らく本書の書評を読みに来る人たちの10人中9.8人ぐらいは「良かった」という気持ちを共有したいもしくは自分の感想の正しさを確認したいと思って訪れて納得いかない文章に出会って興ざめしてるのではないかと危惧しています。それくらい悪く言う人を見かけないですね。

 僕もことさら悪く言うつもりはなく「ボクとオカン」の物語は感動できるのです。ただ批評家としての著者のまなざしは「地方と都会(東京)」という図式的な感傷とはちょっと違うんですよ。この図式ならば感傷的ではあるけどボクのような東京で傷ついた人の体験として理解はできる。

 「五月にある人は言った」では、「東京」を固有名として絶対的に批判している。東京に住むという行為が人間を人間らしくする本質から遠ざけてしまう。これは感傷ではなく著者の体験から根付いた憎悪です。

 不思議なことだけど、福岡の小さな炭坑町で暮らした著者は、最寄りの大都会(福岡市内)についてはむき出しの憎悪を語りません。つまり著者にとって福岡は都会と故郷という二重化した存在であることに気づかないのです。

 もちろんボクであれば気づかないのは当然だし、故郷を遠く離れた大都会(東京)で初めて都会を意識化して傷つく(憎悪する)という事はありえます。しかし「五月に語るある人(著者)」は客観的に東京を批判しているように見えないのは、福岡を含むいたるところの都会へと批評が展開していっていないと感じるからです。

 いや「五月に語るある人」は結局著者に過ぎないんだから、ボクのダークサイド(暗黒面)なんだよ、だから文明批評してるわけではないんだよって声が聞こえてきそうです。

 でももしそうならば「五月にある人は言った」などと気取る事はなかったのではないか。素直に「もうひとりのボク(著者)」と言えば良かったのではないかと思います。

ゼーゼー。いやこれってコメントで書く内容じゃ無かったですね。記事にすれば良かった。

ところで「フェルマーの最終定理」ですが朗報です。今月末に新潮社から文庫が出ます。いまからワクワクしてるんですよ(笑)
Posted by アスラン at 2006年05月11日 13:00
 書き込み、二重になってましたね。すいません・・・。久しぶりに書き込んでみれば、このグダグダ感。申し訳ない。

 記事並みのコメント、ありがとうございます(笑)。作者は東京に対して批判的なんですね。うーん・・・地元を愛している人が、他の地域で生活することになると、新しい土地に対して批判的になりやすいっていうのとは違うのでしょうか?読んでないのでなんとも言えないのですが。読んでみたい気がムクムクと沸いてきているのですが、あんまり評判が良過ぎる新しい本って、どうも苦手だ・・・ほとぼりが冷めたら、ぜひチャレンジしてみようと思います(笑)。

 フェルマー、文庫になるんですか!?もうちょっと待てばよかった(笑)。

 
Posted by しのきち at 2006年05月11日 20:00
 ざっくばらんに言ってしまえばそういう事だと思います。ただ著者は素直でない、一筋縄ではいかない人ですから、そういうつっこみが入るような隙を見せない。そのためにちょっと突き放した視点(批評)を持ち込んだんだと思います。

 まあ読んでみてください。僕は期待してたほどには感動しませんでしたが、いい作品には違いありません。
Posted by アスラン at 2006年05月17日 00:15
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