2012年03月19日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その4)(2012/3/8改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 今回から2回にわたって、『そして誰もいなくなった』に隠された「叙述トリック」のありかとして若島正が指摘した3箇所のうち、1番目(第1章1節〜8節)を詳細に分析していく。

 若島正の小論「明るい館の秘密」では、第11章6節と第13章1節の2箇所に出てくる「誰のものとも特定されない心理描写」がクローズアップされる一方で、1番目の導入部の分析は少々軽んじられている。若島自身も次のように書いている。

 (導入部における)登場人物たち各人の意識の断片をつぶさに検討してみることは、それなりに興味深いことではあるが、本稿の目的ではない。


 若島は導入部で「犯人の心理描写」だけしか分析していないが、この姿勢にはかなり問題がある。その点は、前回つぶさに検討したので詳しくは書かない。要点のみを挙げておく。

[若島の主張]
・「登場人物の心理描写」に叙述トリックが仕掛けられている。叙述トリックには、だましはあるが嘘はない。
・心理描写の叙述トリックを読み解けば、犯人が特定できる。


 これに対して僕の主張(反論)の要点も挙げる。
[私の主張]
・作者クリスティは、語り(地の文)にも叙述トリックを仕掛けている(だましはあるが嘘はない)。
・犯人の叙述トリック(犯人らしくみえない)だけでなく、他の登場人物の叙述トリック(犯人らしくみえる)が存在する。
・心理描写のみを読み解いても、初読者が犯人を特定することはできない。


 若島が小論「明るい館の秘密」でやってみせた事を僕なりに評価すれば、

 結末まで読んだ上で再読すれば、「犯人やトリックの痕跡」および「作者の巧みな語り口」が見てとれる。

という事ぐらいだろう。もちろん、これはこれで興味深い事実だ。作品の読みが深まれば深まるほど作品への愛着が増してゆくのであれば、一般の読者にとっても再読は有益な方法だ。僕もそうやって、大好きなエラリー・クイーンの作品を味わいながら再読している。

 だが、僕は安易に「叙述トリックを読み解けば犯人がわかる」とは考えない。すでに犯人を知っている再読者が、犯人の心理描写になんらかの叙述トリックを見いだしても何の不思議もない。それよりも犯人を知らない初読者が、すべての登場人物の心理描写から「犯人を特定できる」か否かが問われなければならない。単純に言い切ってしまえば、

 叙述トリックが犯人の心理描写に仕込まれていると、どうやったら(再読者ではなく)初読者にわかるのだろうか?

について、真剣に検討する事が要求される。

 再読者は、二度と初読者に戻ることはできない。もちろん時間が経って読んだ記憶が失われるという、愛読者にとってラッキーな場合もあり得なくもないが、『そして誰も…』ではまず起こり得ない。それほど忘れがたいトリックと結末だからだ。

 再読者は、結末から遡ってすべてを論証しようとする。文学作品の読み直しには有効な再読という手法も、ミステリーに限って言えば因果関係を見失って誤った結論を導き出す危険性をたえずはらんでいる。

 そこで、若島のように「登場人物の心理描写、とりわけ犯人の心理描写を分析する事だけが重要だ」と考えるのではなく、「すべての登場人物のすべての描写(語りを含む)を分析する事が重要だ」と僕は考える。なんだ、当たり前ではないか、などと言ってはいけない。このことを禁じたのが(あるいは必要ないと言ったのが)、だれあろう若島だったからだ。

 以上の点を踏まえた上で、アガサ・クリスティ作『そして誰もいなくなった』(原題「And THEN There WERE NONE」)の導入部(第1章1節〜8節)を見ていこう。都合のいい事に、「明るい館の秘密」では原文と若島自らの試訳とを対照している。こちらも、そこから分析を始めよう。

 ちょうどハヤカワ・ミステリ文庫(クリスティ文庫)から新訳が出版されたばかりなので、以後、原文と若島試訳、旧訳、新訳の4通りの文章を併記することにする。出典は以下の通りである。

(原文)「And THEN There WERE NONE」(おそらくは1940年の米国出版)
(若島試訳) 「明るい館の秘密」(若島正『乱視読者の帰還』所収)より引用
(旧訳)「そして誰もいなくなった」(ハヤカワ・ポケットミステリ,1975年,清水俊二訳)
(新訳)「そして誰もいなくなった」(クリスティ文庫,2010年,青木久惠訳)


 前もって言及しておくと、若島試訳と旧訳は原文の直接の翻訳であるが、新訳だけはクリスティの死後に一部重要な表現が改変された版を元に翻訳されている。作者の死後に手直しされた部分とは「インディアン」に関する記述だ。インディアンとは、コロンブスの新大陸発見以来、誤解に基づいた表現であるにも関わらず、一貫して使われ続けてきた。しかし近年の「政治的に正しい」事を文学作品自体に求める動きが流行した結果、政治的に正しい『そして誰も…』改訂版が現れた。

 『そして誰も…』では舞台がインディアン島であるだけでなく、マザーグースの童謡「十人のインディアン」の詞どおりに殺人が実行される。元々の童謡は「十人のインディアン」ではなく「十人の黒人少年」だったのだが、イギリスでは問題のなかったニガーという俗称が米国では認められなかったので、ニガーをインディアンに手直しする事を作者自身が許していた。そういった前例があるから、作者の死後であってもインディアンを兵隊に入れ替える事に遺族も抵抗は少なかったのかもしれない。

 そういう事情から「十人のインディアン」は「十人の兵隊」に、「インディアン島」は「兵隊島」に置き換えられた。旧訳を読んだときの印象を大事にする人にとっては違和感のある変更ではあるが、僕が気になったのは朗読する際の語感だ。「インディアントウ」だった舞台が、突然「ヘイタイジマ」に変わってしまった。なにやら横溝正史のおどろおどろしさを伴ってイギリスの海から瀬戸内へと移動してしまったかのようだ。

 余談はさておき、導入部の分析に取りかかる。

[第一章1節 ウォーグレイヴ判事]
 作品の冒頭を飾るのは、最近引退したばかりのウォーグレイヴ元判事の描写だ。インディアン島(兵隊島)へ向かう一等車の中で、今回の旅のきっかけとなった手紙を取り出して、物思いにふけるシーンから始まる。今回ピックアップするのは、文頭から2番目のパラフレーズから1節の最後までだ。その部分を以下の11箇所にあらかじめ分類してナンバリングしておく。

[原文]
(1)From his pocket Mr. Justice Wargrave drew out a letter.
(2) The handwriting was practically illegible but words here and there stood out with unexpected clarity.

[旧訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取りだした。
(2)ほとんど文字の判別がつかぬ筆跡だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。

[若島訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取り出した。
(2)ほとんど判別できない筆跡だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。

[新訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから手紙を一通取りだした。
(2)手書きの文字はひどく読みにくかった。だが、ところどころ、いやにはっきり読みとれるところがある。


 (1)(2)は、著者が言うところの「全能の話者による三人称の語り」である。3者の訳をざっとみる限り、違いはほとんどない。いや、一言で言って若島訳は旧訳をなぞっただけだ。簡単な文章だから誰でも同じような訳になる、というわけではないことは新訳を見てもらえば一目瞭然だろう。若島は自らの試訳を用いる理由を次のように述べている。

なお、叙述トリックは文章技巧に関わる微妙な問題だけに、後に述べるように翻訳で読むと落とし穴にはまる危険性があり、ここから先は原文とその試訳を並べて掲げる。


 「ならば、最初から自前で翻訳しろよ!」と清水氏になりかわって声を荒げたいところだ。手抜きというだけでなく、旧訳者に礼を失するふるまいだろう。「いや、ちゃんと自前で翻訳している」と言い訳したりできないように、この後で証拠をお見せしよう。

 分析を進める。(1)は、どうみても客観描写なので問題ない。(2)もそう見えるが、少し「微妙な問題」をかかえている。「(手書きの)文字の判別がつかない」とか「思いがけないほどはっきりわかる」のように判断しているのは誰だろうか。原文をみれば、あきらかに地の文なので、語り手の客観的判断ということになるが、 「わかりにくい、わかりやすい」というのは、一個人の主観をともなわないと表現できない。とくに「思いがけないほど」というところに、判断する者の「主観」が色濃くにじみでている。だからこれは「判事の心理」ではないかという「思わせぶり」が語りの中に込められていることになる。

[原文]
(3)Dearest Lawrence... such years since I heard anything of you... must come to Indian Island... the most enchanting place...so much to talk over... old days... communion with Nature... bask in sunshine... 12:40 from Paddington... meet you at Oakbridge...

[旧訳]
(3)おなつかしきローレンスさま…あなたの消息を聞かなくなってから、永年…ぜひインディアン島へ…ひじょうに美しいところで…お話したいことがたまって…懐かしいむかしのことを…自然に親しみ…日光を浴び…パディントン二時四十分…オークブリッジでお待ちして…

[若島訳]
(3)親愛なるローレンス様…長いあいだご無沙汰して…ぜひインディアン島へお越しいただきたく…魅惑の島…つもる話が…懐かしい日々を…自然との交わり…日光を浴び…パディントン二時四十分…オークブリッジでお待ちして…

[新訳]
(3)”ローレンスさま…あなたさまのお噂を、最後に耳にしたのはいつのこと…ぜひとも兵隊島においで…こんなすばらしい所は、ほかには…積もる話が、たんと…なつかしいあの頃…自然に囲まれて…日光浴…ロンドンのパディントン駅二時四十分発…オークブリッジで、お目にかかり…”


 (3)は手紙の文面だが、全文は引用されず断片だけで構成されている。これは、話者であり差出人であるはずのレディ・カルミントンの言葉尻をとられないようにと考えた語り手(あるいは作者の)戦略ともとれるし、(2)で描写されているとおりに「読める文字」を拾い読みした結果ともとれる。しかし、もっとも説得力があるのは、得体のしれない手紙であることを読者に強調してサスペンスを盛り上げようとする「作者の演出」というとらえ方だろう。

 3者の訳の差はあまりないのだが、若島訳は文脈に依存した意訳をことさらに回避して直訳を採用する。「親愛なるローレンス様」「魅惑の島」「自然との交わり」などは、書かれているフレーズだけで辞書引きして訳語をあてたかのような直訳調だ。他の訳者は手紙の文面としてきちんとつながるように工夫しながら意訳している。例の13章1節の「心理描写」において旧訳と訳者とを糾弾した経緯があるから、ここで下手に訳すと原文に仕組まれた叙述トリックをとりこぼすかもしれないと考えての事だろうが、誤訳糾弾の先鋒による訳としてはいささか工夫が足りない。

[原文]
(4)and his correspondent signed herself with a flourish his ever Constance Culmington.

[旧訳]
(4)そして発信者は「あなたのコンスタンス・カルミントン」と美しい筆跡で署名していた。

[若島訳]
(4)そして差出人は”あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆跡で署名していた。

[新訳]
(4)そして最後に、きどった飾り文字で”コンスタンス・カルミントン”と書名があった。


 再び、語り(地の文)だ。「 with a flourish」の訳に食い違いが目立つが、それはひとまずおいて、注目すべきは「差出人(発信人)は…署名していた」という語りだ。これは見事な叙述トリックと言っていい。「カルミントンが」とは書かれていない。もちろん手紙の真偽は、この時点では不明なのだが、少なくとも「あけすけに」真実を書けないために、語り手は「思わせぶりな」叙述をしている。ところが新訳では、意訳によって叙述トリックの痕跡があっけなく消えてしまっている。

 だからと言って、新訳の青木久惠さんを糾弾するつもりは僕にはない。この程度の翻訳の工夫で「あっけなく」消えてしまうのが、叙述トリックの特徴だ。それは「言い回し(レトリック)」に仕掛けがあるからだ。翻訳で読む読者に原文のレトリックが伝わるように訳す事が翻訳家の使命である以上、これは致し方ない。どうしても消させないためには、翻訳家と、若島のような再読者(分析者)との協力が必要だ。ただし、この箇所の叙述トリックは若島の小論でも指摘されていないので見逃されている可能性がある。

[原文]
(5)Mr. Justice Wargrave cast back in his mind to remember when exactly he had last seen Lady Constance Culmington.
(6)It must be seven - no, eight years ago.
(7)She had then been going to Italy to bask in the sun and be at one with Nature and the contadini.
(8)Later, he had heard, she had proceeded to Syria where she proposed to bask in yet stronger sun and live at one with Nature and the bedouin.

[旧訳]
(5)ウォーグレイヴ判事は、レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいつだったであろう、と回想した。
(6)七年ーいや、八年もむかしのことだ。
(7)そのとき、彼女は日光を浴び、自然と農民とに親しむためにイタリアへ旅行しようとしているところだった。
(8)その後、彼女はさらに強い日光を浴び、自然と遊牧の旅とに親しむために、シリアへ行ったということだった。

[若島訳]
(5)レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいったいいつのことだったか、とウォーグレイヴ判事は回想した。
(6)きっと七年ーいや、八年前だ。
(7)当時彼女は日光を浴び、自然や農民と交わるために、イタリアへ旅行しようとしているところだった。
(8)その後、聞くところでは、さらに強い日光を浴び、自然や遊牧民と交わるために、シリアまで足をのばしたらしい。

[新訳]
(5)レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのは、いったいいつだったろう。ウォーグレイヴ判事は思いだそうとした。
(6)あれは七年前ーいや、八年前だったか。
(7)あのとき婦人はイタリアに出かけるところだった。自然と農民に囲まれて、日光浴をするのだと言ってー
(8)そのあと、はるばるシリアまで足をのばしたという噂が耳に入ってきた。自然と遊牧の民ベドウィン族に囲まれて、さらに強い太陽を浴びるためにー。


 (5)〜(8)は、一言で言えば、すべて判事の心理描写だ。しかし、ここは原文をみながらでないと、語り手が非常にあやうい綱渡りをしていることに気づきにくい。いわゆる間接話法と直接話法とがシームレスにつなげられているからだ。

 まず(5)では「…と回想した(思いだそうとした)」と書かれているので「レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのは…」の部分が判事の心理であることを疑う理由はない。つぎの(6)は話者の主観がにじむ「no,eight years」というフレーズで、判事の心理だとわかる。

 (7)は、それだけでは間接話法か(判事の回想か)、客観描写(話者の語りか)の区別がつかない。しかし(7)と(8)が対の表現になっていることに注目すると、(8)が「聞いたところによると」というフレーズが挿入されていることから、(7)(8)いずれも判事の心理描写になる。

 このように引用符もなくイタリック体でもなく、間接話法の目印さえもない書き方をするっと忍び込ませることで、作者は僕らを罠へと誘う。まんまとひっかかったのは、誰あろう著者自身だ。

 (5)〜(8)には、ひっかけめいた叙述は目立たないが、次の出番をまっている判事の心理に説得力を持たせる「呼び水」の役割を果たしている。

[原文]
(9)Constance Culmington, he reflected to himself, was exactly the sort of woman who would buy an island and surround herself with mystery!

[旧訳]
(9)たしかに、コンスタンス・カルミントンは島を買いとって謎の生活を送ろうとするような女だった。

[若島訳]
(9)コンスタンス・カルミントンは、いかにも島を買いとって、謎に包まれるのを喜びそうな女だ。

[新訳]
(9)判事は思った。コンスタンス・カルミントンこそ、いかにも沖合いの島を買いとって謎めいた噂に包まれそうな女性ではないか!


 (9)が判事の心理であることは原文をみればあきらかだ。「he reflected to himself」という挿入句の存在が間接話法であることを明示している。それだけでなく文末に感嘆符がつくことからも、一般的にいって語り手が主観を込めて描写しているとは信じがたい。以後、登場人物の心理を示す感嘆符は多用されるので、話者と登場人物とのいずれの主観なのかを判別する目印として、あてにできるかを注目していきたい。

 ところで、これまでの訳文を比較する限り、若島訳は自分に都合がいいように清水訳から「いいとこ取り」しているにすぎない。それがもっともわかるのが、この(9)だ。3者の訳の中で新訳のみが「判事は思った」という間接話法の目印をきちんと訳しているが、若島訳は旧訳にならって省いてしまった。少なくとも叙述トリックの罠を知り抜いているはずの「乱視読者」ならば、まっさきに訳さねばならない箇所だろう。目印を落とす事で判事の心理なのか語りの陳述なのかの区別が訳文からはつきにくくなってしまった。

[原文]
(10)Nodding his head in gentle approval of his logic, Mr. Justice
Wargrave allowed his head to nod...
(11)He slept...

[旧訳]
(10)ウォーグレイヴ判事は自分が下した結論にみずからうなずきながら頭をうなだれた…
(11)彼は眠りはじめた…

[若島訳]
(10)自分の論理に満足そうにうなずいて、ウォーグレイヴ判事はそのまま頭をうなだれた…。
(11)彼は眠りはじめた…

[新訳]
(10)自分の出した結論に満足した判事は、こっくりうなずいた、そして、うなずいたままうなだれて…
(11)判事は眠っていた…


 若島訳がいつになく自己主張しているのは、ここに若島がねらいをつけた重要な記述があるからだ。(5)〜(9)の判事の回想で、コンスタンス・カルミントンが旅行好きで、強い日差しを浴びながら自然や農民に囲まれて過ごすことをなによりも好む人間だということを判事は思いだしている。そこで結論として「(カルミントンは)島を買いとって暮らしていそうだ」と納得する場面だ。いや、ふつうはそう解釈できる。

 ところがここはそうみえるだけで、実はレディ・カルミントンが「島を買いとりそうな女性」なので、「(偽の)手紙の差出人としてうってつけである」と考えた事に判事自身が満足する場面だとも解釈できる。まさに叙述トリックだ。その点を指摘した著者は得意満面な口調で、

ウォーグレイヴ判事が「自分の論理に満足そうにうなずい」たのは実はそうした理由だったのである。


と書いている。旧訳の「自分が下した結論」という言い方が気に入らず、わざわざ「自分の論理」という訳に置き換えたのも、若島が見つけた虎の子の叙述トリックを台無しにしてほしくないからだ。しかし、直訳調の訳でなければ叙述トリックが見えにくいと考えるのは若島の邪推ではないだろうか。旧訳も新訳もそろって「自分が下した(出した)結論」と訳しているが、翻訳としては若島の訳より分かりやすい。それだけではない。「自分が下した結論」の方が「自分の論理」よりも叙述トリックらしく思わせぶりが利いている。

 そもそも「結論」とすると判事が犯人である可能性がなくなり、「論理」とすると可能性が出てくるという若島の”論理”(あるいは”結論”)は承認しがたい。いみじくも若島が指摘してみせたように、この箇所では「レディ・カルミントンが島を買い取りそうな女性」であった過去の印象から、判事は「手紙の差出人は彼女に違いない」と結論づけたかもしれないし、あるいは「手紙の差出人として彼女を選んだのは正しかった」と結論づけたのかもしれない。読者はいずれとも受け取れるからこそ、叙述トリックが成立している。だが若島訳の「自分の論理」という表現では、そもそもが何を指し示しているのかが分かりにくいため、叙述トリックが成立しにくくなっているように僕には感じられる。

 だが、翻訳家・若島正をいつまでも糾弾すべきではない。なによりもまっさきに指摘しなければならないのは再読者・若島正の誤謬だ。それは、(10)が「判事の心理描写」ではないという一点だ。ここは誰がみても「全能の話者による三人称の語り」に間違いない。つまり「自分が下した結論」であろうが「自分の論理」であろうが、いずれの訳を採用しようとも、このような思わせぶりな表現を選択したのは語り手自身だ。

 一方で、この箇所の叙述トリックは「明るい館の秘密」の著者が自らの主張を裏付けるために、わざわざ作品の導入部から採り上げてみせた実例だったはずだ。その主張というのが「登場人物の心理描写に叙述トリックが隠されている」というものだった事はすでに説明した。しかし若島は、分析する際にはもう心理描写なのか地の文なのかの区別を忘れている。実例にそもそも若島の勘違いがあるようでは、何を証明しようとしていたのかわからなくなってしまう。

 ここでもう一度、(1)〜(11)までの分析結果をまとめる。○△×は叙述トリックの有無を検証した結果(×は無し、△は有るか無いかは微妙、○は有り)を示している。

(1)語り        ×
(2)語り        △(筆跡の読みづらさを感じているのは「判事or語り手」)
(3)手紙文面(差出人の会話に相当)      ×
(4)語り        ○(手紙を書いた人物名をあかさない)
(5)判事の心理(+語り)  ×
(6)判事の心理     ×
(7)判事の心理     ×
(8)判事の心理(+語り)  ×
(9)判事の心理(+語り)  △((10)の「結論(論理)」の解釈をアシストする心理)
(10)語り        ○(「結論(論理)」が二つの意味にとれる)
(11)語り        ×

 すぐにわかる事は、主として「語り」の部分に叙述トリックが仕掛けられているということだ。著者の主張に合致するのは、たかだか(9)一箇所だが、ここは直後の(10)の語りを手助けする“アシスト”にすぎない。

 また、(1)〜(11)を通して眺めると、

語り→差出人(会話)→語り→判事の心理(間接話法)→判事の心理→判事の心理(間接話法)→語り


のように見事な手際で「語りと心理のつなぎ目」が消されている。著者が(10)を「心理描写」とみなしてしまったのも、一概に責められない。それほど作者クリスティの叙述トリックは周到で巧妙なのだ。では、ここで作者に登場してもらって『そして誰もいなくなった』の核心について語ってもらおう。筆者・若島も小論の中で引用している文章だ。

 わたしが『そして誰もいなくなった』を書いたのは、十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデアに魅了されたからだった。書く前にはかなり綿密な計画を立てたし、その出来上りには満足している。簡明直裁で、不思議な事件だが、まったく合理的な解決が与えられる。実は、その解決をつけるためにはエピローグが必要だった。この作品は好評で迎えられたが、いちばん満足しているのはこのわたしである。なぜなら、わたしはどの批評家よりも、これがどれほど実現困難かを知っているのだから。(アガサ・クリスティ『自伝』)


 クリスティがここで触れている『そして誰もいなくなった』の「実現困難」な部分とはなにをさすのか?若島は、「十人の人間が死んで犯人も明らかでない」というトリックの事ではなく、叙述トリックにあるとみた。これはある意味では正しい。なぜならば、犯人が実は最後まで死んでいないというトリックについては、誰を犯人とするかは作者の裁量にまかされているからだ。結末での告白の書き方で、いかようになりそうだ。

 だからこそ「愚劣にならずに」という点に作者の苦労があったはずだ。その苦労こそが、さまざまな箇所に仕組まれた叙述トリックである事は間違いない。

 だが若島は叙述トリックの使い道を「登場人物の心理描写」に限定してしまった。三人称の語りをさっさと視野からのぞいた挙げ句に、著者は次のように断定する。

しかし、クリスティーの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理描写を直接に書き込んだところにあった。彼らの心理描写は、会話と違って、嘘をつくことができない。普通に考えれば、犯人の心理が明るみに出されると、そこでその人物が犯人だとばれてしまうはずである。クリスティーは、犯人の心理もさらけだしながら、しかもそれでいて容易に犯人だと見破れないという、一見不可能に思える叙述トリックを狙ったのだ。


 著者の主張に反して、クリスティの叙述トリックの巧妙さは、語り(地の文)を含めた全体の構成をつかまないと理解できない。若島はクリスティの「実現困難」なトリックの核心に近づく読みの冴えをみせておきながら、さらに奥にかくされたトリックの森へと足を踏み入れそこなったのだ。

 ところで、ここまでの読み方は「再読者」としての解釈だ。改めて(1)〜(11)の分析一覧表を見てほしい。今度は「初読者」として叙述トリックをみたとき、「判事が犯人である」という根拠になるものが存在するだろうか?

 (2)の「筆跡の読みづらさ」を感じているのが判事ならば、読者は逆に「犯人ではない」という印象を受けるだろう。手紙が共犯者(モリス)によって書かれた可能性は、この時点での初読者には想像できない。

 (4)は語りである以上は「差出人」と書いても不自然ではない。そもそもが『そして誰も…』では、謎の手紙という印象を受けるように描写されるので、「差出人」という書き方は「レディ・カルミントンの書いた手紙」だと語り手自身も信じていないことを暗にほのめかした表現になっている。つまり、初読者は「差出人」という記述を、サスペンスの演出として受け止めるだろう。

 (9)は、犯人であろうとなかろうと、判事がカルミントンに対していだいた印象にすぎない。どちらかといえば、判事が手紙の内容を鵜呑みにしているという印象を読者に与えそうだ。

 (10)の「結論(論理)」は再読者にとっては再重要キーワードだろうが、初読者は見抜けるだろうか。語りの客観性を信じる読者ならば、見落とす可能性が高い。たとえ見抜いたにしても、たかだか犯人である「可能性」を示すにすぎない。

 結論を言うと、

 判事は「犯人である」可能性は残るが、確定的な根拠はない。

ということになる。判事を犯人扱いするためには、引き続き他の登場人物の導入部での描写を分析する必要がある。

  
(2010/12/18初出,2012/3/8改訂)
posted by アスラン at 12:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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