2012年03月13日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その3)(2012/2/27改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』と『アクロイド殺し』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 前回は『そして誰もいなくなった』の第11章6節と第13章1節に出てくる「誰のものとも特定されない心理描写」に関する若島正の分析の是非を詳しく検討した。引き続き若島が取り上げた3箇所の心理描写のうち、導入部(第1章1節〜8節)の分析についても同じように詳しく検討する。

 しかしその前に1回分を費やして、若島の主張する「叙述トリック」についておさらいしておこうと思う。これまで僕ら読者は、若島から教えられた「叙述トリック」の仕組みを鵜呑みにし、指摘された場面で提示された実例に従ってレクチャーを受けるだけだった。だが、いつまでも受け身でいるわけにはいかない。これから僕が問題にしようとしているのは、若島の思い描く「叙述トリック」そのものの信憑性なのだ。

 『そして誰も…』で本当に評価すべきは、犯罪(犯人)のトリックではなく作者の叙述トリックにあると若島は言う。その叙述トリックは、ふつうの意味の叙述トリックとはかなり違っていて、「登場人物たちすべての心理描写に嘘が書かれていない」という点にあるらしい。これのどこが普通の叙述トリックと違っていて、どのようにすごい事なのかを説明するために、若島は同じ作者の『アクロイド殺し』という作品を持ち出す。

 『アクロイド殺し』は、ミステリファンにはおなじみの「語り手(医師)イコール犯人」という究極の「叙述トリック」を使った問題作だ。ポイントは「犯人による一人称の語り」にある。語り手が犯人ならば、嘘をついている可能性を排除できない。アンフェアと言われても致し方ない。ところが『そして誰も…』はそれとはずいぶん違っているとして、若島は次のように説明する。

しかし、『そして誰もいなくなった』の場合は、まったく事情が異なっている。つまり『アクロイド殺し』の一人称に対して、『そして誰もいなくなった』はいわゆる全能の話者による三人称の語りなのだ。三人称の語りにおける地の文は、読者が真実として受け取らなければしかたがない(これはクリスティが自らに課していた条件でもある)。鵜呑みにできないのは、登場人物たちの会話である。しかし、クリスティの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理を直接に書き込んだところにあった。


 若島の主張を、順を追って要点のみ列挙してみよう。

(1)『アクロイド殺し』は一人称の語りだ。

(2)『そして誰もいなくなった』は、全能の話者による三人称の語りだ。
(三人称の語りは真実しか書かれていない。クリスティも自らに課している。)

(3)登場人物の会話は信用できない(嘘をついているかもしれない)

(4)登場人物の心理描写には嘘はない。
 (ただし、「誤読を誘う書き方」(叙述トリック)が仕組まれている。)


 若島の主張の核心はもちろん(4)だ。ここでぜひとも注目したいのは、誤読を誘うような書き方(叙述トリック)自体を若島は嘘だとは考えていないという点だ。では、若島はどのようなものを「叙述トリック」として想定し、同時に「嘘ではない(フェアである)」と認定しているのだろうか。大まかに言って、次のような二大原則が考えられる。

・一見すると「犯人ではない」と読者に思わせる心理描写(「思わせぶりの心理」)を書いてよい。
・犯人だとすぐに読者が見破ってしまうような心理描写(「あけすけな心理」)を書かなくてよい。


 このような描写には「だましはあるが嘘はない」というのが、(4)において著者・若島正が考える「真実」の意味である。

 それでは、遡って(2)の「全能の話者による三人称の語り」について考えてみよう。若島は『アクロイド殺し』における「一人称の語り」と違って、『そして誰も…』における「全能の話者による三人称の語り」は、真実と受け取らなければしかたないと言っている。要するに鵜呑みにしていいと考える。しかしそうすると、(2)における「真実」は(4)における「真実」とはずいぶん違った意味で使われている事になる。

 もし(4)で「心理描写」に叙述トリックを持ち込む事が真実であってアンフェアではないのだとすると、(2)の「語り(客観描写)」に叙述トリックが仕組まれたとしても、若島の立場からすればアンフェアだとは言えないのではないだろうか。そうなると、若島が易々と信じている「地の文」の真実を、本当にクリスティが遵守しているのかも疑わしい事になる。

 事実、『そして誰も…』では、登場人物の心理描写に限定されることなく、全能の話者が語る地の文の至るところに「叙述トリック」が仕組まれている。これについては若島の導入部に対する分析を検討する際に明らかにできるだろう。

 では何故に、若島は「叙述トリック」の分析を登場人物の心理描写だけに限定してみせたのだろう。もちろん「全能の話者による三人称の語り」を小説に採用する際の約束事を無条件で信じたからだろう。それはいわば”小説の作法”と言ったもので、文学作品をテクストとして読み解いていく評論家としての立場からすれば当然の姿勢なのかもしれない。

 それとは別に、若島が自身の独創的なアイディアを際だたせる必要に駆られたという事もあったはずだ。地の文には〈真実〉が書かれているとしても、心理描写という境界では「叙述トリック」という形式で犯人の手がかりが露わになっていると信じた上で、そこだけにしか手がかりはないと読者に思い込ませようとした。

 そこまでならばミステリーファンをも唸らせる見事な発見だと賞賛されるところだが、若島は心理描写だけを分析すれば誰でも次の事を明らかにできると口がすべってしまった。

(a)(初読者であっても)叙述トリックの手口が理解できる(だましはあるが嘘はない)
(b)犯人を特定できる。


 (a)(b)の主張に根拠がない事は前回までに証明した。「登場人物の心理描写における叙述トリック」という若島のアイディアにみどころがあるとしたら、400頁近くある長編の中に心理描写は限られていて、簡単に検証できるという点だろう。この部分に「思わせぶりの心理」が仕込まれている可能性は高いとふんだわけだ。

 だが、言ってよければ作者クリスティは「語り手や登場人物」と結託して、三者一丸となって読者をだましにかかっている。さきほど列挙した要点の(2)と(4)での「真実」を使い分ける分別など、ミステリーの女王には無用というわけだ。だとすると、若島のように「心理描写」だけにこだわる視点では、クリスティの仕掛けた「叙述トリック」のほんの一部しか見ていない事になる。僕らは若島の主張を鵜呑みにせず、地の文(語り)を含めた視野を回復しなければならない。

 具体的には、犯人以外の登場人物の心理描写も、地の文(語り)さえも、「叙述トリック」の分析対象とするしかない。若島のように『そして誰も…』の導入部で犯人の心理描写だけを分析するのでは不十分であり、二重、三重の過ちを犯している可能性がある。

 (その2)で詳しく見てきたように、「思わせぶりの心理」を完全に読み解くことができるのは再読者しかいない。しかるに若島は、初読者が場面ごとに「思わせぶりの心理」を読み解く根拠がどの程度存在するかを示していない。しかも、問題はそれだけでは済まない。犯人以外の登場人物も、犯人とは逆の意味で「思わせぶりな心理」を抱いているかもしれないのだ。叙述トリックの奥深さはここにもある。犯人でない人物が犯人らしくみえる「思わせぶり」もまた、初読者を惑わすからだ。となると「叙述トリック」の分析では、犯人らしくみえて実は犯人ではない事を読み解く根拠がどの程度存在するかも検証していかねばならない。その上に、語り(地の文)の叙述トリックも待ちかまえている。

 ずいぶんと入り組んできたので図式化しておこう。

・犯人は「犯人でない」かのように振る舞い、「犯人でない」かのような心理を抱く。
・犯人以外の人物は「犯人である」かのように振る舞い、「犯人である」かのような心理をいだく。
・語り手は真実を客観的に述べるが、時に「客観的にみえる」ような描写をする。


さらには、

・作者は、犯人に「あけすけな心理」を抱かないようにできるし、登場人物全員に「思わせぶりな心理」を抱くようにできる。


 こうまでも周到に仕掛けられた叙述トリックを初読者が見破れるわけがない。叙述トリックに感嘆するのであれば、ここまで言うべきだろう。若島が「叙述トリック」を見る視野はせまい。そのせまさのせいで、犯人も犯行もすべて知った上で「(初読者にも)犯人が推定できる」という結論に飛びついたのはあまりに迂闊だった。迂闊さを呼び込んだ根本には、若島が得意とする「再読」という手法の危うさが潜んでいる。

 再読者は、おそらく一度は初読者として小説を読み通してから、遡ってトリックの痕跡を洗いざらい白日の下にさらす。その上で再びスタート地点に立って読みだした時には、作者が用意したトラップ(罠)に引っかかる事なく、一直線に犯人の言動や行動だけに注目できる。だからと言って、初読の時から作者のトリックをすべて見抜いていたと主張できるわけではない。なのに自分以外の読者には何故か「叙述トリックが見抜ける、犯人が特定できる」などと理屈に合わない事を一貫して主張してしまう。

 ところで、ここまで若島の主張にどっぶりとつきあってみると、とても変な気分がしてきた。なぜか居心地が悪い。実は若島正も僕ら読者も、作者アガサ・クリスティの恐るべき罠にまんまとしてやられたのではないだろうか。何のことかと言えば『アクロイド殺し』の事だ。

 クリスティ作『アクロイド殺し』では、田舎町の医師ジェイムズ・シェパードによる一人称の語りで事件の一部始終が語られる。その中には、医師から見た客観描写もあれば、医師自身の心理描写もある。言ってみれば『アクロイド殺し』という作品は、徹頭徹尾シェパード医師の主観から成り立っている文章だという事になる。こういう文章を僕たちは「独白」と言ったり、「手記」と言ったりする。

 客観的な描写と言っても、医師自身によって書くことと書かないことの選別が行われている以上、「語り手イコール犯人」だとあかされた時点でアンフェア論争がまきおこるのは必然だった。その根拠は簡単に言うと次のように説明できる。

・語り手が犯人ならば、嘘をつくのも簡単だ。嘘は書かれていないとしても、思わせぶりな表現で読者をだましている。
・犯人ならば当然書くべきこと(人を殺して血をぬぐって…など)を書かないですます事も簡単だ。


 こういってクリスティは一部の評論家やミステリーマニアから袋叩きにあったのではなかったか。しかし、実際に『アクロイド殺し』の文章を分析してみればわかるように、どこをどう叩かれようともクリスティは嘘は書いていなかった。語り手自身が自らを犯人でないかのように、言い換えれば読者の「誤読をさそう」ように、書き方を工夫したにすぎない。

 この『アクロイド殺し』におけるクリスティの手際は、『そして誰も…』で登場人物の心理描写に用いた手法となんら変わるところがないように思われる。つまり『アクロイド殺し』の全文が「一人称の語り」ではなく、シェパード医師の主観描写あるいは心理描写だと見なしたとしても同じ事だ。前述した若島の主張の要点(1)と要点(4)を比較してみればいい。クリスティは『アクロイド殺し』で一人称の語りを採用したからといって、でたらめを書いたわけではない。「語り手イコール犯人」という綱渡りをするからには、できるだけ真実に添うようにシェパード医師に語らせたに違いない。と同時に作者は、シェパード医師に主観的な陳述に関しては思わせぶりに描くことを許し、肝心な場面(夫人が殺される当日の描写など)では、容易に肝心な事は書かせなかった。それでも若島は『アクロイド殺し』の一人称はアウト(アンフェア)だが、『そして誰も…』の犯人の心理はセーフ(フェア)だと言っている。これは奇妙な事ではないだろうか。

 実は『そして誰も…』における心理描写の「セーフ(フェア)」を保証しているのは、「全能の話者による三人称の語り」の信頼性そのものなのだ。この話者が責任をもって客観描写を行うと信じられるからこそ、登場人物の心理描写でさえも客観性が保たれている。言い換えれば「嘘がない」ことが保証される。一方、『アクロイド殺し』では一人称の話者そのものに信頼が置けないので「嘘をつかない」事がどうしても保証されないと見なされる。だからこそ『アクロイド殺し』アンフェア説は今なお消える事がない。

 話者の人称の違いに着目した若島は、次のように書いている。

 その読み終わってからの疑問とは何か? それはすでに述べたように、登場人物全員の心理が明かされていたにもかかわらず、なぜ犯人が犯人だと見破れなかったのかという疑問である。犯人の心理描写はどうなっていたのかという視点で再読を試みれば、たしかにクリスティーの「綿密な計画」が読み取れる。そして、「クリスティー自身に、手がかりを与える気など最初からなかった」のではなく、充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆することになるのだ。


 しかしクリスティが飼い慣らしている話者は、若島が言うほどには「真実」を語っていないようだ。嘘はないかもしれないが、思わせぶりな描写はいたるところで見られ、肝心な事は描写しない戦略が、作品の地の文全体に貫かれている。若島は、そこにこそクリスティの「綿密な計画」を読み取るべきだった。ところが、三人称の語りは「真実」だと無条件に信じて、再読の対象から除外してしまった。若島にしてみれば、地の文を除外できた事で「登場人物の心理描写」の重要性が高まったかのように見えたかもしれない。しかし、それこそクリスティの思うつぼだった。

 作者クリスティは『アクロイド殺し』のアンフェア論争を教訓として、『そして誰も…』では「全能の話者による三人称の語り」を採用した。「(語り手に真実のみを語らせる事を)自らに課した」からだと若島は考えたが、実はクリスティの狙いは別にあった。三人称の話者に語らせることで地の文(客観描写)から読者の注意をそらそうとしたのだ。

 これは、かつてエラリー・クイーンを評したディクスン・カーに「読者の前をたった一つの手がかりさえ通過させてしまえば、あとは何から何まで”密輸入”することに成功してしまう」とまで言わしめたクイーンのマジック以上のマジックと言えるかもしれない。クリスティは「登場人物の心理描写」というたかだか一枚のカードを、瞬時に別のカードに変えるクローズアップマジックを演じてみせたわけではなかった。地の文(語り)という「動かしがたい巨大建造物」を、あの天才魔術師デヴィッド・カッパーフィールドさながらに、僕らの目の前から消してみせたのだ。
(2010/12/11初出,2012/2/27改訂)
posted by アスラン at 19:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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