2010年12月06日

清水俊二訳「そして誰もいなくなった(ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1)」を探して

 我ながら、自分のトリビア主義にあきれてしまう。店頭で新訳の「そして誰もいなくなった」を見かけて思わず買い求めた時から、順調に進んでいた読書計画が途端に滞ってしまった。手元には、村上龍最新作「歌うクジラ」上下巻を図書館からまんまと入手できたというのに。2週間きっかりで返却しなくてはいけないというのに、「『そして誰も…』祭り」と天秤にかけて、今のところ、お祭りを優先しているに至ってはもう、本末転倒というしかない。

 とりあえずどういう状況かを整理しておこう。

 まず、ハヤカワミステリ文庫で久々に新訳の「そして誰もいなくなった」(青木久恵訳)が発売された。そこで気になるのは、旧訳の「そして誰もいなくなった」(清水俊二訳)の取り扱いだ。訳が改められるにはいくつかの理由が考えられる。一つは文章が古びたという事だ。翻訳というのは永遠不変のものではなく賞味期限がある。例えば僕の生まれた当時の昭和30年代をメディアで語るとき、かならずノスタルジーたっぷりのイメージと言葉で語られるように、その時代を生きてこなかった若い世代にとってはセピア色にいろあせた世界だ。翻訳もかならずそうなる。wikipediaによると、清水俊二訳の初出は1955年のハヤカワ・ポケットミステリだそうだ。となると、すでに半世紀前の時を経てきている事になる。新訳が出ても当然という事になりそうだ。

 もう一つ容易に考えられるのは「訳がよろしくない」という事だ。間違いが多いという点が取り沙汰される場合がある。その場合、訳者に権威がある場合はなかなか生前に改められることは難しい。清水俊二さんは1988年にお亡くなりになっているので、そろそろ新訳に変えましょうという機運が高まったのかもしれない。こう書くのは、だいぶ以前から清水訳には問題ありというミステリーファンや評論家の意見を見かけるからだ。

 僕が以前に書評した「ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)」では、何故か収録された評論の2つ(作者はもちろん異なる)で、清水訳を糾弾していた。これは清水氏の翻訳のまずさを物語るものと考えるよりは、編者の偏見を意味すると考えるべきだ。新書に収録されたジャンルの異なるミステリ評論を選ぶにあたって、わざわざ清水批判の評論を並べて読者に故意に清水氏への悪印象を与えたわけだ。だが、何故?以前からどうしても気になっていた。

 その二つというのは、池上冬樹「゛清水チャンドラー゛の弊害について」と、若島正「明るい館の秘密」だ。これを隣り合わせに並べて評論集のトリに持ってきた編者には、偏見というだけではなく「悪意」が感じられる。よっぽど訳者の生前に編者とは因縁でもあったのだろう。知りたくもないが、つまらない事をしたものだ。

 その時に「明るい館の秘密」についてはずいぶんとのめり込んだが、どこかつじつまが合わない解釈が気になっていた。立論が怪しければ、その中で若島氏が糾弾する「清水訳の致命的な誤り」という説も疑わしい。それを正当に評価できる機会はなかなかこなかった。何しろ原書にあたるには、素人の手に大いに余る。かといって、清水訳と、もう一人の新たな権威・若島氏の評論中の試訳だけでは、いくら僕なんかがとやかく言ったところで話にならない。そこへ「飛んで火にいる、なんとやら」。新訳が飛び込んできたわけだ。

 これで持ち駒はそろった。新訳(青木訳)と旧訳(清水訳)をつきあわせれば、僕でもそれぞれの訳の是非は評価できそうだ。と同時に、少ないながらも「明るい館の秘密」の中に載っている試訳(若島訳)の是非についても、同時に比較検討できるというものだ。若島氏の評論の値踏みが目的でもあるが、もう一方で翻訳家・若島の値踏みでもある。

 また、原書も最近イギリスで出版されたという「兵隊島」バージョンを図書館で借りられた。すでに別の記事で指摘したが、旧訳では「インディアン島」で起こる「10人のインディアン人形」という童謡になぞらえた連続殺人だったのが、新訳では「兵隊島」で起こる「10人の小さな兵隊人形」という童謡になぞらえた連続殺人に変更されている。

 原書を入手した最大のポイントは、それぞれの翻訳の評価もさることながら、叙述トリックの有無の確認のためでもある。例えば、今回調べてみて、若島氏が取り上げた「特定されない心理描写」のように、字体がイタリックになって引用符に囲まれているものは心理描写とすぐにわかるが、そうでない場合に「語り手」の客観的心理描写なのか、登場人物の主観的心理描写なのか、容易にはわからない場合が結構あるからだ。そういう意味で原書をしげしげと眺める必要がでてくる。

 しかし、なんといっても旧訳を入手するのが実は一番難しい。新訳が登場する前のクリスティ文庫は、ブックオフなどの古本屋に行けば容易に入手できる。ところが、この翻訳にはちょっとした曰くがある。例の「明るい館の秘密」で若島正氏が「致命的な誤訳」であるかのように糾弾した箇所があり、それがためにハヤカワ・ミステリ文庫からクリスティ文庫へ、訳がスライドした際に、どなたかがその部分を修正した。2003年の事だ。すでに1988年に清水氏はお亡くなりになっているので、これ幸いと「くさい物にフタ」をしたわけだ。

 僕は当初、どこにも「変更しました」とも「改訂しました」とも書かれていないのは、早川書房編集部が一存で修正したのだろうと思っていた。ところが、修正はそれだけじゃなかったのだ。これも、「そして旧訳が残った 〜旧訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義〜」という記事で指摘した事だが、旧訳では「三番目の妻」となり、新訳では「三番目の新妻」となっていて、新訳はまるで新妻を一人二人…と数えているかのようで不自然だと、清水氏の訳に軍配を上げた。ところが、清水訳も時代を遡ると「三番目の新妻」だった時期がある事が判明した。

 図書館で取り寄せるにあたって、1974年に出版されたハヤカワミステリ文庫版「そして誰もいなくなった (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1))」 は貸し出されていてすぐには手元に届かないので、仕方なく早川から1972年に出版された「世界ミステリ全集 1 アガサ・クリスティー」で「そして誰もいなくなった」の文章を確認すると、「三番目の新妻」になっていた。そして今週末手に入れたポケミス版(1955年出版)を見ても「三番目の新妻」になっている。こう考えると、まだ見ぬハヤカワ・ミステリ文庫版は、全集のたかだか2年後に出ているので、「三番目の新妻」のままである可能性が高い。

 すると、いつ「三番目の妻」に変更されたのかと言えば、やはりクリスティ文庫収録時という事になるのだろう。つまり、このトリビアな修正も清水俊二氏によるものではない。確かに「致命的と思われる修正」を有無をも言わせずに実行するのに、他の翻訳家の権威など不要かもしれない。しかし、「新妻」を「妻」に差し替えるような微妙な修正を果たして出版社がやってしまうものだろうか?どちらが正しいかという白黒はっきりする違いはない。ニュアンスの問題だろう。これ以外にどれほどのトリビアな差し替えがあるのだろう。怖くてクリスティ文庫版の清水訳は使いたくない。

 しかしハヤカワ・ミステリ文庫は、もうちょっと手に入れるまでに時間がかかりそうだ。見切り発車で、1972年出版の全集の文章を底本にしようと思う。だが全集を持ち歩くのは大変だ。しかも古いためにぼろぼろでかび臭い。カフェで取り出すと隣のお姉ちゃんに目くじらたてられそうだ。なので当面はクリスティ文庫の文章を用いる。「三番目の妻」と「三番目の新妻」のような違いが後で見つかれば、それはそれで面白い酒の肴のなるかもしれない。

 そこで鋭意、「そして誰もいなくなった」の導入部(第1章1節〜8節)までの文章を比較検討中…だ。
posted by アスラン at 20:03| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/172100298
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。